人の命を、刑罰として国家が奪う。

 それがいかに重いことか、世に問いかけたのが、死刑囚袴田巌さんに対する静岡地裁の再審開始決定だ。

 もし刑が執行されていたら、取り返しがつかなかった。

 48年ぶりに拘束をとかれた袴田さんは、精神を病んでいた。いつとも知れぬ執行と日々向き合う過酷さも垣間見えた。

■誤判は避けられない

 裁判員制度の導入で、死刑にすべきかどうかの判断を市民が担って5年になる。

 政府の世論調査では、死刑の存続を8割以上が支持する。

 しかし、この究極の刑のあり方について、国民的な議論を十分重ねてきたとは言い難い。

 人の命を奪う許しがたい犯罪には厳正な刑罰で臨まねばならない。だが、その選択肢はいまの死刑しかないのだろうか。

 死刑がある社会を生きる一人ひとりが問い直すべき問題であろう。

 振りかえれば、袴田さんだけの問題ではなかった。

 80年代、免田栄さんら4人の死刑囚が再審で無罪を言い渡された。無期刑でも2010年以降だけで足利事件などの4人が再審無罪となっている。

 昔の捜査はいい加減だった、と片づけられることでもない。つい2年前のパソコン遠隔操作事件では、のちに無実だと分かった4人のうち2人が「自白」していた。

 やってもいない罪を認めるなんてありえない、と思う人もいるだろう。だが逮捕され、連日取り調べられるなか、取調官の誘導や強要に屈して虚偽の自白をすることが現実に起きた。

 人間が犯した罪を、訴追し、裁くのもまた人間だ。誤判はありうるという前提に立って、考えざるをえない。

■「報い」を超えて

 20世紀後半以降、先進国では欧州を中心に死刑の廃絶が進んだ。執行を続けるのは、米国の一部の州と日本だけだ。韓国、ロシアは90年代に執行を止め、事実上の廃止国になった。

 刑罰はそれぞれの社会文化に根ざしている。世界の潮流に従えばいいというものではない。だが、どの国にも憎むべき犯罪があり、厳しい世論がある状況を抱えつつ、死刑ではない最高刑を選んできた。その知見から学ぶことはあるはずだ。

 死刑の執行を一時停止し、議論の深まりを待つ方法も広くとられてきた。

 政府の世論調査では、死刑存続を支持する人の半数以上が、廃止すると凶悪犯罪が増えることを理由に挙げた。しかし、死刑に特別な抑止力があるかどうかは、立証されていない。

 凶悪犯罪には命をもって償うべきだという理由を挙げる人も多かった。

 だが今でも、社会の処罰感情が強い犯罪のすべてに死刑が適用されているわけではない。刑を「報い」としてだけでとらえるべきでない難しさがある。

 犯罪で家族や愛する人を奪われた遺族らの厳罰を求める気持ちは当然のものだ。その痛みは計り知れない。

 一方で、あえて加害者に生きて償うことを要望する遺族もいる。被害者のさまざまな思いを加害者の刑に反映させるには、限界がある。必要なのは、被害者と遺族を社会がいかに手厚く支えていくかではないか。

 突然、犯罪で家族を失い、現場になった自宅にも住めない。加害者からは被害弁済どころか反省の言葉さえない。そんな不条理なことが現にある。

 近年になって被害者が裁判に参加する制度や、加害者の刑の執行状況を知らせる制度などが整ってはきた。それでも金銭的な支援、心理的なケアなど取り組むべきことは多い。

 犯罪に起因するさまざまな困難と向き合う、息の長い支援を考えていかねばならない。

■限られた情報公開

 4月末現在、確定死刑囚は132人いる。

 法務省は7年前まで、死刑執行の対象者の名前や場所などを公にしてこなかった。国会議員や報道機関に刑場を公開したこともあるが、一時的なもので終わった。

 死刑執行がきわめて重い公権力の行使でありながら、政府は情報公開を極度に制限してきた。これが死刑をめぐる議論を妨げてきたことは否めない。

 絞首刑という方法がふさわしいかも論点だろう。残虐な刑罰を禁じる憲法に反しないとする最高裁判決から約60年がたつ。死刑存続派の識者からも見直しを求める意見が出ている。

 超党派の国会議員でつくる死刑廃止議連は、仮釈放のない無期刑(重無期刑)の新設を検討していた。いずれ社会に戻れるかもしれない無期刑と死刑の落差はかねて指摘されてきた。

 死刑の代替刑として、重無期刑をどのように考えるか。政府は市民に意見を問うことを避けてきたが、正面から向き合うべき問題ではないか。