ボン兄タイムス

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差別と単なる憎悪は別だということとネットユーザの「良心を装ったレイシズム」

 浦和レッズの「JAPANESE ONLY」と書かれた横断幕が掲げられた問題。掲示した観客は差別的意図はないとの認識をしめしている。

 クラブ側は、観客を入場禁止とし、横断幕の掲示を許してしまった職員らの処分を検討している。

 

 何かに似ている。

 ある学会誌が表紙の美少女イラストデザインをめぐり在米女性研究者から非難の声があがった件だ。雑誌側は「女性差別の意図はない」と主張したが、フェミニストらの抗議は収まらなかった。

 

 差別問題というのは憎悪の問題ではなく、構造の問題なのだと思う。

 「差別が構造の問題であることのわかりやすい例示」と題したブログの定義が分かりやすい。筆者はバリアフリーに未対応な駅での身体障がい者の対応をめぐり、"「困った人を見かけたら手助けしましょう」と人々の善意の強化を社会に啓蒙するのは、本質的な解決とは関係がない"とし、"「ある特定の少数の人々が常に一方的に不利になる」のが差別の正体で、これはマジョリティ側に悪意があろうとなかろうと成立するものだ"と定義しているが、これがまさに差別問題の構造なのだ。

 

 「人は他者に対し、良心的に振る舞わなければいけない」

 「他人を不愉快にさせてはいけない」

 

 こういう一見もっともそうな考え方が差別を助長しているのが、とくにインターネット上で起きていることだ。

 学会誌のデザインをめぐっては、ネットではフェミニストに対するバッシングが相次いだ。表現する側が差別意図がないのにそれを非難することは許せないというものだ。モノが美少女イラストだったからこそ、アニメオタク男子のひんしゅくを買った。フェミニストに対し、「オタク差別を許すな」「男性差別を許すな」というとんでもない暴論が入り乱れ、中には感情的で露骨な女性蔑視もあった。思考の動機はすべて同じである。それは彼らの中で「人は他者に対し、良心的に振る舞わなければいけない」「他人を不愉快にさせてはいけない」という行儀のいいモラルエコノミーの琴線に触れたことへの抵抗意識であり、自分自身が男性であり、程度の差はあれ男性中心型の思考の持ち主であるというむき出しの本質が露呈したにすぎないのだ。

 オタク差別は存在しない概念だ。オタクは「自分ではどうしようもない事柄を理由に虐げられること」ではない。いやならやめることができる。野球が嫌いなサッカーファン(またはその逆)が野球ファンと趣味を貶しあうことはあってもそれはただの悪口であり、差別ではない。趣味はあくまで自分で選んでやることである。巨人ファンお断りの店は巨人ファン差別にはならない。

 もし行政が公共サービスの利用の際に巨人ファンやサッカーファンやアニメオタクを否定するようなことがあれば、それは明確な差別といえるが、そんなことはありえるだろうか。上に引用したブログが”「ある属性を理由に拒否している」というだけではそれが差別であるとは言えない。その属性が社会構造の中でどのような位置づけをされているか、が重要なのだ”というとおりである。

 

 なぜだか、「オタク差別を許すな」「男性差別を許すな」という声はネット右翼の間でも多いものだ。ネット右翼にはオタクや男性中心主義者が多いのだろうか。ネット右翼に迎合した保守系の政治家・論者などは児童ポルノ規制反対派や女性専用車反対派を兼ねていることが多い。オタク趣味に不理解な立場や女性のネット右翼の割合はかなり少ない。そして、その延長線上には「日本人差別を許すな」という考えもある。

 

 彼らの中にはやはり、匿名ネットを拠り所にしたい人間にありがちな「人は他者に対し、良心的に振る舞わなければいけない」「他人を不愉快にさせてはいけない」という考えがある。台湾をのぞく中華圏は、しとやかな日本人に比べると高圧的な振る舞いをする国民性は確かにある。それ自体が、内向的で草食系な一部のネットユーザの精神と矛盾するのは事実で、さらにその神経を逆なでにするのが「反日報道」の存在だろう。

 中国全体ではごく一部の暴徒の行う愛国無罪のデモや、ソウルでの一部の活動家による日本大使館前で写真を燃やすなどする激しい抗議活動を見たとき、それをあたかもアジアの民のすべてがそうだと勘違いし、「日本人差別を許すな」という発想から、いわば逆張り的に憎悪を発露するマウント勢の発想によって陥るものではないだろうか。

 ツイッターなんかでも、日頃政治的な発言を一切しないアニメアイコンが、アジアをめぐることに限ってはネット右翼全開ということはしばしばある。

 

 アメリカなどの海外で、現地ではマイノリティである駐在日本人が差別を受けたり、現地メディアが日本人の名誉を傷つけることは日本人差別だといえる。しかし、日本国内で、マジョリティでいてなんら権利を侵害されない日本人が「日本人差別を許すな」と言うのは珍妙なことだ。もっと極端な逆張りでは「東電差別を許すな」というものもある。ヘイトスピーチ問題に取り組む人たちに脱原発派が多いことを意図した逆張りだ。さらに、「安倍首相差別を許すな」という声は、ネット右翼の絶大な支持を受ける安倍首相が最初の政権を体調不良で投げ出したことへのバッシングを「病気を抱えていた首相への差別だ」とするものだ。つまり、ネット右翼は権力批判を許さないのである。ジャーナリズムを否定しているのだ。

 

 「日本人差別問題」でいうと、たとえばイギリスのBBCが日本人を差別した番組を放映したことが問題となったことがあった。これは確かな差別だろう。しかし、アメリカのABCの中国人差別番組が問題視されたとき、BBCを叩いたネット右翼はABCを絶賛した。反中派だからである。差別が構造の問題であるという認識がそこにはなく、あるのは自己中心的な発想なのだ。全日空のCM表現をめぐって「言いがかりだ」と外国人を非難した声もこれと同じことである。

 

 乙武さんが隠れ家レストランを入店拒否された問題では、ネットでは乙武さんを擁護する声もあったものの、身体障がい者を蔑視する内容も盛り込まれた感情的なバッシングが特に匿名性の高い世論(匿名掲示板、アニメアイコンなど)から集まった。それは乙武さんが事前連絡をせずに店にやってきて店員に煩わしさを与えたことへの非難だった。しかしこの問題が国会でやり玉に挙がった時、厚生労働省は店側への介助の必要性を強調した。

 しかし、政府の主張は抑止力にはならず、その後、ある理髪店が混雑を理由に車椅子の客の入店を拒んだ問題が話題になったときは、障がい者団体の抗議を受けて店側は謝罪したものの、匿名ネットの声は乙武さんの件と同じ論法で障がい者を否定し、店側を擁護するものが大半だった

 北海道の入浴施設が、民族の象徴であるタトゥーをしたオーストラリア人のマオリ族女性に対し、反社会勢力の刺青と同列視して入店を拒否した問題もあった。菅官房長官は会見で、東京オリンピックを控えている中で外国の文化に敬意をもつべきだとして店側の対応を批判した。だがネット上のまとめブログはこの女性のタトゥーがおかしいとしてデザインを嘲笑い、女性を否定したり店側を擁護するコメントが一世に染まった。

  ネット右翼に限らず匿名ネットユーザらがこれらを非難したのは、またぞろ「人は他者に対し、良心的に振る舞わなければいけない」「他人を不愉快にさせてはいけない」という発想だ。

 

 こうした一見すると良心的な差別ほど愚かしいものはないのではない。非難する側は身体障がい者でもなければ少数民族ではない。身体障がい者は歩くことはできないし、刺青を消すことはできない。克服しようがない時点で明らかに差別である。しかも、乙武さんは障がいをその人の特徴としてとらえている考えをしている。入店拒否は自分自身に対する否定となるのだ。マオリ族にとって刺青が家紋のようなものであることを考えると、店側の罪は重い。

 

 安倍首相はヘイトスピーチを問題視し、自身のFacebook上でも寄せられる匿名ネット型のアジア人差別の書き込みについていさめるよう訴えてもいる。乙武さん問題もマオリ族問題も安倍政権が問題視している。しかし、ネット上の内向的で排斥的な手前勝手な良心(とその裏返しの憎悪)を過大視する脊髄反射的なネットユーザたちはこうした政府の理性的な呼びかけを尽く足蹴にしている。その時点でこうした勢力は立派な反知性主義的な暴論なのだ。ましてやネット上で誰からも嫌われていた民主党政権ではなく、ネット右翼が熱烈支持をしている安倍政権の時点でこれである。

 

 個人が何を思おうが、どういう意見を発しようが思想及び良心の自由であるし、表現の自由ではある。しかしそれが、マイノリティ当事者への物理的な排除につながったり、それをよしとする「民意」を醸成させているとしたらきわめて危険なことだ。「日本人差別」「オタク差別」「男性差別」といった言葉をいくらでっち上げても正当化のできることではないし、いわゆる生活保護バッシングや佐村河内守の件でにわかに起こっている聴覚障がい者への差別もこの延長線上にある問題だ。

 「人は他者に対し、良心的に振る舞わなければいけない」 「他人を不愉快にさせてはいけない」というのはあくまで個人の勝手な妄想にすぎず、過大視するとろくなことにならない歪んだ発想だ。私は電車内で大声で騒ぐ赤ん坊に咳払いをする大の大人を見ると悲しい気分になる。赤ん坊がぐずるのは当たり前のことで、自分だって昔はそうだったはずだ。物理的な脅威にはならない。我慢し、できれば笑顔であやしてやり、どこに出かけても世間の目を気にしつつ子どもの手間を考えないといけないお母さんのストレスの軽減につなげてあげたいものだ。

 横柄なモンスター客や不良を問題視することは大いに重要だが、きびしい同調圧力のような根性が貧相で封建的な概念はできれば解体していく方が良い。お里の知れることだと思う。社会の多様化は否が応でも進んでいく。自分も相手も古典的なマジョリティ(健常者・成人・男性・生粋の日本人・非大富豪・非生活保護…)である前提に基づかないと成立しない、昭和の時代で終わったような秩序の概念に未だに縛られてもみっともないだけなのだ。

 

  もちろんネットユーザだろうが右翼・保守派だろうが冷静な人はいるし、日本人の大半はこういうネット脳とは一線を画するまともな考えができるはずだ。私はそういう人をふくめた多様な人とともにありたい。