text:椎名宗之/Rooftop編集長
"両刃の剣"を背負った吉川晃司の立脚点
本誌2007年4月号掲載のインタビューで、吉川晃司は新宿ロフトについてこう語っている。
「ロフトは客としてアナーキーとかを観に行ったりもしていたんですけど、布袋(寅泰)君と知り合ってからはよく呑みに行きましたよ。彼がロフトで喧嘩して殴られて、ついでに僕まで誰かに殴られちゃったりして(笑)。自分も高校の頃に広島のライヴハウスによく出入りしていたし、ああいう匂いは好きでしたけど、僕がロフトに客として行くと『お前、吉川晃司だろ? なんでこんな所にいるんだよ!?』なんて言われましたね。まぁ、当時はいわゆるアイドルだったし、他のお客さんにとっては異物に映ったんでしょうね。でも、ロフトはツバキハウスと並んで刺激的で面白い場所でしたよね」
ロフトに出演歴が一切ない吉川晃司を、ロフトが発信するフリー・マガジンである本誌がなぜ誌面を大きく割いて熱い眼差しを送るのか。それはひとえに、すべてを蹴飛ばしてマイナスに懸け続けてきた吉川の表現者としての佇まいが実に興味深く、尚かつその姿勢に大いに共感し得るからである。
1976年10月のオープン以来、ロフトは譜面に載らない音を一貫して支持し続けてきた。今も昔も、既成の概念や観念に縛られない自由で新しい表現を日々発信し続ける空間として機能している。明日の音楽地図を塗り替えんとする新進気鋭の表現者に可能性を見いだし、彼らに対して積極的に活動の場を提供し続けてきたからこそ、ロフトは30年以上にわたり日本有数の老舗ライヴハウスとして一定の評価を受けているのだと思う。
そんなカウンター・カルチャーの象徴とも言えるロフトの立脚点からすると、権力の象徴であるマスメディアの力で一躍脚光を浴びた吉川晃司を色眼鏡で見てしまうのは致し方ない部分もある。冒頭の吉川の発言にある「お前、なんでこんな所にいるんだよ!?」という言い掛かりはまさにその"異物感"を指したものだ。だが、吉川が表現者としてユニークなのは、メイン・カルチャーの立場に在りながらカウンター・カルチャーの鉄壁を果敢に突き破ろうとする姿勢を貫いているところである。
アウトローのバイブルとして知られる『突破者〜戦後史の陰を駆け抜けた50年〜』を著した宮崎学が、かつて『リトルモア』に掲載された浅草キッドとの対談の中でこんなことを話していたことがある。「メリット、デメリットで物事を判断しないのが僕らの世代だということなんですよ。むしろ損をするとわかっていても、損をすることに賭ける、それが美学なわけですよ」。この四半世紀の間、一心不乱に疾走し続けてきた吉川の広い背中からは、宮崎が言うところの"美学"を感じずにはいられない(吉川は宮崎の20歳下ではあるが)。吉川のデビュー25周年記念ニュー・アルバムのタイトルが『Double-edged sword』だと聞いた時、「分のいいことと悪いことで迷った時は、分の悪いことに惹かれてるんだからそっちを取れ」というすべてを蹴飛ばしてマイナスに懸けた故・岡本太郎の生き方を僕は即座に連想した。"Double-edged sword"、それ即ち、"両刃の剣"。一方では大きな利益があるものの、他方では大害を伴う危険があることの喩えである。甚大なリスクを背負い込みながら勇み足で前へ前へと突き進んできた吉川の25年間の軌跡を言い表すのに、これほど適した言葉が他にあるだろうか。そして、その"両刃の剣"が吉川晃司という表現者に対して評価のブレを生じさせているのもまた確かなのである。
"反逆のアイドル"がスター・システムに牙を剥いた
今から四半世紀前、デビュー間もない18歳の吉川晃司はテレビのブラウン管の中にいた。デビュー曲の『モニカ』が『ザ・ベストテン』に初めてランク・インした時、母校である修道高等学校のプールへバック転で飛び込んだシーンが今なお目に焼き付いている読者も多いことだろう。アイドルが最もアイドルらしかった終盤期にあたる80年代半ば、吉川は紛れもなくスターだったのだ。中学時代から水球で鍛え抜いた逆三角形の体に白いスーツを着こなし、髪を彩色してメイクを施すシャープで先進的な吉川の容姿は女性ばかりではなく男性からも注目され、吉川のファッションを真似た男性が続出した。男性ファッションを世間に根付かせたという意味でも、当時チェッカーズのメンバーとして絶大な人気を誇っていた藤井フミヤと並んで時代を象徴するポップ・スターだったのだ。その背後には"芸能王国"、"ナベプロ帝国"と揶揄された大手芸能事務所、渡辺プロダクションが控えていた。故・渡辺晋社長自らが陣頭指揮を執り、吉川を売り出すプロジェクト・チームを編成するほどの力の入れ様だったのである。いずれにせよ、当時は西新宿の小滝橋通り沿いにあった狭い地下室のロフトからは余りに懸け離れた華やかな世界だ。
だが、吉川はビリー・アイドルも顔負けの"反逆のアイドル"だった。デビュー直後から安定したポップ・スターの地位に甘んじることなく、権威的なスター・システムに対して内部から変革を起こすようになる。"両刃の剣"のもう一方の刃はこの時点からすでに剥き出しになっていたのだ。白組のトップバッターとして出演した『第36回紅白歌合戦』ではギターに火をつけ、口に含んだ酒をステージに撒いた(そのため、次に登場した河合奈保子が『デビュー』の冒頭を唄えなくなった。その後15年間、吉川はNHKに出禁となる)。楽曲作りにロック・フィールドのミュージシャンを起用することにも早くから意識的だった。NOBODY(『モニカ』、『サヨナラは八月のララバイ』、『You Gotta Chance〜ダンスで夏を抱きしめて〜』等を作曲)、原田真二(『フライデーナイトレビュー』、『Hello! Darkness』等を作曲)、大沢誉志幸(『LA VIE EN ROSE』、『No No サーキュレーション』等を作曲)、安藤秀樹(『にくまれそうなNEWフェイス』、『RAIN-DANCEがきこえる』、『キャンドルの瞳』等を作詞)、伊藤銀次(『グッド ラック チャーム』、『サイレント シンデレラ』を作曲)、佐野元春(『すべてはこの夜に』を作詞・作曲)といった才気に溢れたミュージシャンがそれぞれ楽曲を提供し、初期の音楽性を方向付けた。
また、2ndアルバム『LA VIE EN ROSE』には元サンハウスの奈良敏博、3rdアルバム『INNOCENT SKY』にはChar、4thアルバム『MODERN TIME』には当時BOφWYに在籍していた布袋寅泰がそれぞれレコーディングに参加しており、"85 JAPAN TOUR"には子供ばんどのうじきつよしが参加するなど、ロフト寄りとも言えるミュージシャンとの共演を活動の初期から重ねているのは注目すべき点である。本誌の読者にとって馴染み深いのは、BOφWYの4thアルバム『JUST A HERO』に収録された『1994-Label Of Complex-』だろう。契約上の都合でクレジットに記載はないものの、吉川は氷室京介とのツイン・ヴォーカルでレコーディングに参加している。1986年8月に新宿都有3号地(現・東京都庁)で行なわれた"WATER ROCK FESTIVAL"でもBOφWYと共演を果たし、豪雨の中で『1994-Label Of Complex-』を披露する一幕はこのイヴェントの大きな見所のひとつだった。
そうした布袋寅泰との親交が後のCOMPLEX結成に繋がることは想像に難くない。躍起になって自身のアイデンティティの確立に七転八倒していた青の時代を経て、更なるアーティスティックな表現を求めて布袋とタッグを組んだCOMPLEXは破格の成功を収めた。結成からわずか2年後の1990年11月に行なわれた東京ドームでのライヴで無期限の活動休止に入ったCOMPLEXだが、そもそもが吉川にとってはポップ・スターの安定を蹴って取り組んだユニットだ。人気絶頂のまま事実上の終焉を選択したことも、常にマイナスに懸ける吉川らしい行為とも言える。元ZEROの小池ヒロミチ、元ザ・ルースターズの池畑潤二、ザ・ハートランド時代から佐野元春のバックを務める古田たかし、ダディ竹千代&東京おとぼけCatsや難波弘之のセンス・オブ・ワンダー等で活躍したそうる透といった凄腕ミュージシャンたちとのライヴ共演も良い経験になったのではないか。
あらゆる経験が音楽へと集約されていく
1991年に発表した『LUNATIC LION』以降、再びひとりの表現者としてリスクを背負いながらより深淵なる音楽性を求め続けた20代後半。益々円熟味を増していった音楽の分野だけに飽き足らず、三池崇史監督の『漂流街』や『天国から来た男たち』、平山秀幸監督の『レディ・ジョーカー』といった話題作映画、初のドラマ出演となった『真夜中は別の顔』など、あらゆる表現の世界へと果敢に身を投じていった30代。そして、不惑の40代に突入した吉川晃司は荒野に針路を取りつついよいよ奔放な創作活動に邁進し、避け方を知らんとばかりに傷だらけになりながらも、その傷の深さと角度によって放つ未曾有の輝きを心の拠り所として疾走を続けている。ペルーを訪れてインカ帝国の謎に迫るネイチャリング番組に出演したり、第二次世界大戦の際に外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給した杉原千畝の人生を描いた『SEMPO』でミュージカルの主演を務めたり、大河ドラマ『天地人』で馬術を巧みに交えながら織田信長を演じ切るなど、近年はキャリア初となる挑戦も殊の外多い。それらは真新しく面白そうなことには首を突っ込まずにはいられない吉川の本能が趣くがままに選択されるトライアルなのだろうし、ペルーで培った経験が『Double-edged sword』に収録されている『El Dorado』のモチーフとして、ミュージカルでの経験が『Humpty Dumpty』のオペラ的なメロディにそれぞれ活かされているように、あらゆる外部での経験が最終的に音楽へと集約されていくのが窺える。吉川晃司という類い希なる表現者が本懐を遂げる場はやはり音楽なのだ。
だとするならば、実に歯痒い部分もある。個人的にも吉川が対峙してきた音楽以外のエンターテインメントはこれまで存分に享受してきてはいるが、"なんだ、結局は芸能の世界か"と感じる人間もいるのではないかと危惧を覚えるのだ。それこそがもうひとつの"両刃の剣"であり、あらゆるエンターテインメントを器用に体現する余り、密度の濃い吉川の音楽がロフトのようなカウンター・カルチャー側の人間から過小評価されている気がしてならないのである。僕にはそれが口惜しい。映画や舞台をやってくれるな、ということでは決してない。石橋凌が表現者としての幅を広げるために故・松田優作と親交を深め、役者の道を選び、その経験値をARBへと還元していったように、あらゆる芸事が吉川の音楽性を確実にふくよかなものにしているのはよくわかる。ただ、吉川は反骨の人であり、カウンター・カルチャーにも理解があるにも関わらず、ロフトのレヴェルにまでは降りて来ない。ARBはデビューから10年を費やしてロックの殿堂である日本武道館にまで登り詰めた。その武道館公演の翌日にARBはロフトに出演してくれた。それは、バンドの出自は常にロフトというストリートに根差した空間に在るのだという強い意志の表れだったように思う。しかし、吉川にはキャパシティ僅か550人、約12坪しかない市松模様のステージなど端からまるで眼中にはなさそうだ。出自が違うと言ってしまえばそれまでである。大手芸能事務所の庇護の下でキャリアがスタートし、そこから表現活動の礎を少しずつ築き上げてきたミュージシャンにはロフトでライヴをやる意義など感じられないのだろうし、武道館クラスのホールを満杯にする吉川レヴェルのライヴ動員数がロフトのキャパシティでは到底収まり切らないという現実的な問題があることも重々承知だ。
こんな時代だからこそ格好付けて行こうぜ
だが、ここは敢えて言いたい。吉川さん、ロフトに出てくれ。ロフトに出て、吉川さんのことを軽薄で浮ついた芸能人だと高を括っている輩どもの鼻を明かしてくれ。吉川さんが真のロック・スピリッツを心に携えた表現者であることを市松模様のステージで見せ付けてくれ。ニューロティカのあっちゃんとは趣きの異なるシンバル・キックを見せてくれ。『Black Corvette』のアレンジ以降今日に至るまでツアーには欠かせない存在である元PINKのホッピー神山を筆頭に、1994年に行なわれた立体映像衛生中継ライヴ"LAWSON SPECIAL 3D R&R SHOW"、同年の『Cloudy Heart』ツアー、2007年の"THE SECOND SESSION"に参加した44マグナムの広瀬"JIMMY"さとし、1995年の『FOREVER ROAD』ツアーに参加した元ザ・モッズ/サンハウス/ARB・現シーナ&ザ・ロケッツの浅田孟、2001年の『SOLID SOUL』ツアーに参加したARBの内藤幸也と堀内"ebi"一史、2003年の『Jellyfish & Chips』ツアーに参加した元ザ・マッド・カプセル・マーケッツの石垣愛、2005年の"LIVE With ××× EXTRA"と"エンジェルチャイムが鳴る夜に"に参加した元ザ・イエロー・モンキーの菊地英二、2007年の『TARZAN』ツアー以降吉川バンドの常連となった同じく元ザ・イエロー・モンキーの菊地英昭、そして、昨年末に国立代々木競技場第二体育館で行なわれた"25th Year's Eve"に参加した元ミッシェル・ガン・エレファントの故・アベフトシ...これだけロフトに縁のある敏腕ミュージシャンと共演しておきながら、なぜ吉川さん当人はロフトに出ないのか。"RISING SUN ROCK FESTIVAL"において普段ライヴハウスへ通い詰めているオーディエンスの前で一撃必殺のヒット・チューンをブチかましたり、最近ではインディーズ時代から『BE MY BABY』をSEに使っている氣志團とJCBホールで同曲をコラボレートしたり、一角のキャリアを積んだ表現者だけが許される貫禄の余興が続いているが、カウンター・カルチャーの巣窟であるロフトのステージに立つことのほうがずっと意義のあることだと僕は信じている。『Double-edged sword』は天馬空を行くあなたの表現者としての矜持と今の境地を余すところなく詰め込んだ掛け値なしに素晴らしい作品だった。COMPLEXの『恋をとめないで』を倍速させたかのような先行シングル『傷だらけのダイヤモンド』で提示した"こんな時代だからこそ格好付けて行こうぜ"という骨太なメッセージを読み取った時、『TARZAN』というディスコティークな世界観を基調とした傑作を果たして超えられるのかという不安は杞憂に終わった。鋭利で重厚なギター・サウンドを全面的に配したダイナミックかつエネルギッシュな音塊が詰め込まれたアルバム前半の楽曲も良かったが、個人的には後半の『Checkmate in blue』、『南風honey』という小気味良い瑞々しさと爽快感を与えてくれる楽曲に惚れ込んだ。前作で言えば『Love Flower』や『Banana Moonlight』のような往時のブライアン・フェリーを彷彿とさせるヴェルヴェットな音像は今回、文字通り『Velvet』という楽曲に集約されている。同曲の充実振りを聴くにつけ、恐らく今のあなたはこの路線にどっぷりと浸かりたいのではないかと察する。何が言いたいのかと言えば、ここへ来て吉川晃司の音楽が益々面白くなってきているのだ。ロックばかりでなく、ちゃんとロールもしているのである。言うなれば、カラカラの喉に流し込むビールのような刺激がある一方で、まろやかに熟成された日本酒のような深い味わいも愉しめるロックンロール。それを体現できるミュージシャンはこの日本ではまだまだ少ないし、極めてエンターテインメント性の高い吉川晃司のロックンロールを食わず嫌いで見過ごされる状況は余りに悲しい。 そのためにも、吉川晃司がカウンター・カルチャーをも凌駕するプリミティヴなロックンロールを絶唱する姿をロフトで見せて欲しい。譜面に載らない音を爆音で鳴らすなら今も昔もロフトだし、選ばれし者だけが立つことのできる市松模様のステージが吉川晃司にはよく似合う。妙に礼儀が良くて品行方正な若いロック・バンドばかりが跋扈するライヴハウスに風穴を開けて欲しい。名前も知らない女のベッドで目覚めることもなさそうな若人たちに混じって、本物の格好良さが何たるかをまざまざと見せ付けて欲しい。そもそもあなたはメイン・カルチャーとカウンター・カルチャーを自由に行き来し、時にはその境界線を突破する表現者ではなかったか。25年もの間、すべてを蹴飛ばしてマイナスに懸け続けてきた表現者ならば、今さら何も失うものはないのではないか。
というわけで。デビュー26年目の火蓋を切るツアー初日にはロフトを強引に空けておきますからね、吉川さん。所々欠けている44歳のナイフの刃のほうが20歳のナイフよりも殺傷能力が高いことを証明するには格好の場所だと思いますよ。
Message to KIKKAWA KOJI for 25th ANNIVERSARY
高橋まこと(De+LAX)
吉川クン! 25周年おめでとうございますm(__)m。
BOφWYの頃からのお付き合いですから長くなりましたが、いつも格好いいロックしてました。
これからもますます格好良いロックして下さい。
俺もまだまだ現役なんで、是非とも『The Gundogs』以来のドラム叩かせて欲しいなあ(^^;。
よろしくねー(^.^)。
松井常松
先日はキツいスケジュールの中、しかも海外ロケの直後なのに、レコーディング手伝ってくれてありがとう。お陰でパワフルな曲に仕上がりました。
それから、25周年おめでとう!
音楽以外での活躍も楽しみにしています。
池畑潤二(ROCK 'N' ROLL GYPSIES/NO STARS INNOVATION)
25周年おめでとう!
同じステージに立ってからかれこれ20年になりますか、なのに貴殿の御足は今も変わらぬハイキックを蹴り続けているんですね。素晴らしいことです。いつまでもカッコイイ吉川晃司でいて下さい。
仲野 茂(ANARCHY/SDR〜セドロ〜)
吉川晃司・布袋寅泰 VS 池畑潤二・仲野茂、ダブルスでのテニスはいい思い出です。
25周年おめでとう。
榊原秀樹(De+LAX/カリキュラマシーン)
デビュー25周年おめでとうございいます!!
晃司さんと初めてお会いしたのが僕が20歳の頃だと思います。
あれから20年も経つと思うと本当にびっくりです。
あの頃から凄い存在感とエネルギッシュでクールなスタイルが色褪せずに今も放っているのをお見かけすると本当に脱帽です!!!
これから先も、晃司節炸裂で突っ走って下さい!!!!!
なので、あとを追っかけます!!!