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2014.05.05

[書評]読む・書く・考える IQ200の「学び」の方法(矢野祥)

 そういえば、自著「考える生き方」(参照)を書いたとき、当初「学び方」の本を含めた二冊構想だった。だが、「学び方」のほうの話はとりあえず後にして、その前振り的な部分を小さく先の一冊の章に納めることにした。自分の「学び方」にそれほど自信がないのと、もう少し「メタ学習」の方法について自分を実験材料にして知りたいという思いもあった。
 残念ながらその二冊目を書くかどうかはわからないが、最近はいろいろな手段もあるのでいつか書くだけは書いてみたいとも思う。そうなると以前のことを思い出し、もっと、「学び方」「メタ学習」について知りたいと思う。

cover
読む・書く・考える
IQ200の「学び」の方法
 と、いう背景もあって、本書、「読む・書く・考える IQ200の「学び」の方法(矢野祥)」(参照)を読んだ。天才はどう学習しているのだろうか、私のような凡才が得られる「メタ学習」のヒントもあるんじゃないか、という願望もある。
 私は矢野祥という人をまったく知らないままこの本を読んだが、メディアでは10年以上前から有名な人だったらしい。「僕、9歳の大学生! (新潮文庫)」(参照)という本もあった。そちらを先に読んだほうが、たぶんよい。この「IQ200の「学び」の方法」は、9歳の天才のその後の、22歳になったまでの話だからだ。それでも結果的に「IQ200の「学び」の方法」を先に読んで、ちょっと間を置きたい感じもしている。
 IQ200という話を聞くと、すごい天才だと思う人も多いかもしれないが、子どもの場合IQは、生活年齢と精神年齢の比であるか、同年齢集団の偏差なので、基本的に早熟というくらいの意味だろうと思う。大人になるにつれ意味は自然に薄れる。それでも暗黙に想定される天才というのもそこに含まれるだろうし、この著者が天才であることは疑いようもない。
 しかし、読みながら奇妙なもどかしさも感じた。
 読みやすく整理されているわりに、個人独自の内的な人格の核の感覚(そこにこそ天才の秘密があるだろう)が文章に微妙に反映されていないように思えた。
 文章というものの妙味は、「書き手自身」と「自分が書いた文章という他者」の関係がもたらす未知の困惑に現れる。そういう部分がこの本にはあまり見当たらない。こういうことはゴーストライター本に多いのだが、まさかこの天才がゴーストライターを使うとも思えない。
 その疑問は最後のページで解けた。どうやらこの本の原文は英文で、父親が翻訳したらしい。あのもどかしさの由来は、本人の文章という肉体が微妙なバッファを介していたからだろう。もちろん、翻訳によっても人格の核の感覚や肉体的な感覚は文章に表現できるものだが、この本では父の理解を通してすっきりフィルターされているように思えた。
 けして非難していうわけではないが、おそらく著者は日本語は堪能ではあるだろうが、このような自己表出的な文章は日常の日本語では書けないのではないだろうか。
 もう一点関連して思ったことがある。これは彼の天才の秘密に関連しているだろうと思うが、クリスチャンとして育ち、また主に母親の絶対的な肯定感を得て育ったせいか、常人が人生に持つくだらない悩みのような部分が、すっきりと捨象されていることについてだ。それが天才の一つの秘密に関係しているだろう。
 私はそのことに必ずしも批判的ではない。私は思うのだが、大半の人類がもう数千年すると、こういうタイプの人間知性(雑事をすっきり捨象する知性)を持つようになるのではないかと思う。
 それは「信仰」にも関連してはいるだろうが、著者はその知性から類推しても明らかだが、いわゆる狂信的な信仰を持っているわけではない。むしろ理性的に生きている。当然と言えば当然だが。
 これに関連して、彼は読者に、根源的な問いの例をいくつか投げかけている。

 ここで、読者であるあなたに「考えて」みていただきたいと思います。以下は私からあなたへの「問い」です。

*私たちはみんな、生まれて100年も経たないうちに、何の跡形もなく消え去ってしまいます。いつかは太陽もなくなってしまいます。そんな中であなたは、自分の行いが(他の人の行いよりも)よいことで、意味のあることだと正当化できますか?



*なぜ世界から争いや偏見が消えないのでしょう。

 問いは、8つある。しかも、究極的に問いを出したよいうより、思いつくままに考える練習として出されている。
 彼の主張は、こうした問いを各人のなかでじっくり考えてみることが重要だということだ。そしてじっくり考えた結論だけが「後の自分の行動に悔いをのこさなくさせるのです」と主張する。
 おそらく彼自身、こうした究極的な問いをたて、理路整然とした答えを得ているのだろう。特に、私が引用した「いつかは太陽もなくなって」という問いにも、肯定的に答えているのだろう。
 ここで私を引き合いに出すのは冗談みたいだが、私もこうした問題を大人になってもしょっちゅう考える。しかし、まったく答えがでない。全部疑問のままである。
 そこが天才と凡才の差といえば、そうだが、ここで私はこう考える。こうした問題に答えを出せたら、人生はどれほどか整然と進むだろう、と。
 私はそして、ちょっといやったらしい言い方になるのだが、こうした問題は、私の人類の知性レベルでは解けないのだろうと思う。
 その場合、彼のようには解けないのだから、解かずに解けるふりをしたら、それなりに人生は整然と進むのではないだろうか。
 私がここで思っているのは、「信仰」である。
 そして私が疑っていることは、彼はその「信仰」に立ってしまったから、天才なのではないだろうか、ということだ。
 くだらない話をしているようだが、この問いは、天才というものへの私の内的な了解とも関係しているので、もう少し続けたい。
 天才とはなにか?
 私なりに思ったことは、特にモーツアルトについて考えて思ったのだが、天才とは、ただその人に憑依した別人格の能力なのではないだろうか?ということだ。
 多くの人が天才に憧れるが、天才というのは、ただ天才という別の人格の頭脳がその人にたまたまくっついているだけなのではないのだろうか?
 私は冗談を言っているのではなく、逆にそのように自己と能力を分離できることが、実は天才の秘密なのではないかということだ。
 そうした点で本書を読んでいくと、多少だが、気になることがある。読書についてこう言及している点だ。速読法の説明のようにも聞こえる。

 自分にとって適度なスピードで読んでいるとき、私の中の「心の声」は消え、完全に静かな世界になります。ところが「この本は、あとどれくらいで終わるのだろう」などと、ちょっとでも考えたりすると、また声が戻ってきます。そういう意味では、読書は「瞑想」に似ているのかもしれません。雑念が邪魔をするのです。


 静かな気持ちになり、すべてに対して心がオープンであれば、読書の主体である自分は、どんな時代へも、どんな地域でも、そして誰の心の中へでも飛んでいくことができます。そこにはまったく制限がありません。

 読書に夢中になれる人なら誰でも体験することだとも言える。
 が、天才の秘密の一端として見てもよいかもしれない。ここで述べられている「心の声」「雑念」が、私たち凡人の自意識なんだと考えてよいように私は思える。
 天才というのは、自己の意識を静寂にして、実質別の人格の能力を存分に利用しているのではないだろうか。
 この引用の先はさらに興味深い話が続く。

子どものころからそうなのですが、詩集などを読んでいるときは、詩にある韻に影響されるのか、メロディーが頭に出てくることがあります。

 このあたりはモーツアルトなども同じだし、作曲をする人なら誰でも、どこからともなくやってくるメロディーの神秘については共感できるだろう。
 私が関心を持つのは、おそらく聴覚に由来する他者分離感は天才の秘密に関係しているか、あるいはそうした音感の脳の働きが、現状の人類が獲得した知性のさらに延長の可能性を意味しているのではないかという点だ。
 以上は私の視点から読みだが、本書は、この本に求められるコンセプトとして、通常の勉強法、高校生や大学生の勉強のヒントなる学習法についての言及も多い。
 ただ、それはメソッド化できるほどには整理されてはいない。それでも読む人が読めば、「ああ、あれか、あれが勉強のコツだよな」と思うことはあるだろう。
 
 
 

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