わたしがブログを始めた理由は、この世界に関するわたしの考察を公開することで、世界をより理想的に作り変えたいと考えたためです。
ブログの記事が、あなたの価値観を見つめなおす機会となれば幸いです。
さて早速ですが、最初の記事にふさわしい、本質的な問いを提示してみます。
「なぜこれ以上、生きる必要があるのか?」
今からこの問いについて考察してみましょう。
と、その前に、
「なぜそんなことを考えなければいけないの?」
と思う方もいるかもしれません。
それも一つの選択肢です。
問いそのものを無視し、目を閉じて生きることもできますが、「考えたほうが有意義になる」という可能性を検証するためにも、ここではあえて考えてみることにしましょう。
物理学的考察
もしこの世界が何者かによって創られ、わたしたちに何かしらの役割が期待されているなら、それがわたしたちの生きる必要性に繋がりそうです。
しかし少なくとも、現在の物理学ではそのような存在は確認されておらず、わたしたちは原子の運動によってたまたま形を成しているに過ぎません。
もちろん将来的に神のような存在が実証されることはありえるかもしれませんが、少なくとも今は、その可能性だけで生きる必要性を確定させてしまうことは乱暴に思えます。
今のところ、わたしたちは物理レベルでは生きる必要性は存在しないといえそうです。
生きる必要性
では、わたしたちは、あらゆる面で生きる必要性は存在しないといえるのでしょうか。
そうとも限りません。
例えば、あなたに好きな人ができたとき、あなたにとってその人は生きる必要がある存在でしょう。
あなたが医者なら、病を治す者として、人々から生きる必要性を説かれます。
生きる必要性とは、誰かによって生み出されるといえそうです。
考えてみれば当然のことです。
必要性があるとは、欲求があるということですから、欲求の主体と対象が存在することは明確です。
逆にいえば、誰かの欲求があって初めて、わたしたちに生きる必要性が生まれるといえるのです。
生きる必要性を自分で定義する
ここで、自分が生きる必要性を、自分で定義してみることを考えます。
なぜかといいますと、生きる必要性が誰かに依存していた場合、その必要性がなくなると生きられなくなってしまうからです。
もちろん、その心配がないほど信頼関係が強固であれば、誰かに委ねる選択も良いかもしれません。
しかしいずれにせよ、さまざまな選択肢からベストな選択を検証するためには「自分で考えること」は不可欠ですので、ひとまずは生きる必要性を自分自身で設定してみましょう。
また、「実は生きる必要はないのでは」と感じる人もいるかもしれません。
しかしそれを実証するためには、少なくとも答えを出すまでは生きる必要がありますし、とりあえず生きる選択をしましょう。
さて、「生きたいから生きる」「楽しみたいから生きる」「やり遂げたいことがあるから生きる」など、どんな欲求を定義しても構いません。
ここで重要なのは、なるべく不変的な欲求であることと、半永久的に絶えない欲求であるほうが良いです。
さもなくば、欲求が潰えるたびに生きる必要性を定義し直すことになってしまいます。
もちろん、それを踏まえた上であえてその選択をする自由はあります。
自身をよく観察して、自分が欲していることを洞察しましょう。
くいなちゃんの場合
わたしの場合は、何ヶ月も熟考した結果、「新しい知識を吸収したい」という欲求が最も根源にあることに気付きました。
よってわたしは、「世界の全てを吸収するために生きる」ことを自身の生きる必要性に定めました。
よく人から、「人生は有限だから、全てを吸収するのは不可能だ」と言われることがあります。
が、それは全く問題ではありません。
なぜなら、そこを目指したいという欲求が重要なのであって、達成できるかどうかは関係ないからです。
有意義な人生にしましょう。