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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川

第一話 書籍化該当部分

書籍化該当部分とWEB版で年齢などの数字に相違があります。
漸次修正していくつもりですので、基本書籍化該当部分準拠で
お読みください。
 マウリシア王国の西部、隣国ハウレリア王国との国境沿いの広大な森林地帯を領有するのがコルネリアス伯爵領である。
 水源も豊で農地が少ない代わりに無尽蔵の森林資源や鉱物資源にも恵まれているのだが、国境に位置する地政学的な宿命上軍備に財政を食いつぶされている貧乏領地というのが現状であった。
 現コルネリアス家当主はイグニス伯爵で現在35歳の男盛りである。若い時分はその美貌で浮名を流し王都でも名の知れた人物であったが22歳のときに彼は運命に出会った。
 運命の名はマゴット。なんと傭兵である。
 ハウレリア王国との関係が悪化し一事は国境で軍事衝突まで発生したなかで彼女はコルネリアス領軍に雇われたのだった。
 流れるような銀髪に菫色の瞳、そして何よりも余人の追随を許さない槍技と規格外の身体強化によって彼女は戦場の華となった。ハウレリア王国軍の主力とも言うべき王国騎士団を打ち破り将軍を討ち取るという武勲をイグニスがあげることが出来たのは正しく彼女のおかげであった。
 銀光マゴット、ハウレリア王国軍はその名を悪魔のように恐れおののいたという。
 その彼女が紛争の終結とともに新たな戦場へとコルネリアス領を離れようとしたことはハウレリア王国としてはもろ手をあげて歓迎すべきことであり、むしろ自国へと勧誘しようとする者すらいた。逆にコルネリアス伯爵としてはどうにか彼女を正規軍へ留めておきたいところであったのだが、当主イグニスの思惑は周囲の予想の斜めうえをいった。

 「結婚してくれ」

 この告白を聞いたマゴットはまずイグニスの正気を疑ったという。
 確かに容姿には自信があったし、傭兵としてではなく女として横暴な貴族に伽を要求されることもあった。もっともそうした連中は命か命以上に大事なものを失うはめになったけれど。しかしまさか堂々と貴族から婚姻を要求されるということは破天荒なマゴットにしても予想の範疇外の話であった。
 マウリシア王国は平民の権利意識が高い国だが、それでも貴族と平民との間には侵しがたい壁が存在する。
 まして傭兵として屍山血河の道を歩んできた自分に求婚する馬鹿がいるとは夢にも思わなかったのである。
 だが実際のところイグニスがマゴットに惚れていたのは紛れもない事実であったらしい。
 戦場で疾駆するマゴットの姿を一目見た瞬間からイグニスが恋に落ちていた。そこにマゴットをなんとかコルネリアス領に引きとめたいという要求があったためにこれ幸いと乗じることにしたというのが真相であった。
 もちろん親族や家臣からは轟々たる批判が沸き起こり、貴族間におけるコルネリアス家の評判は最悪なものとなったのは言うまでもない。
 尊い貴族の血にどこの生まれとも知れぬ傭兵の血が混じろうとしているのである。今後王国の社交界においてコルネリアス家が冷や飯を食わされるのは確実だった。

 その危険を犯してもイグニスが自分に求婚していたという事実に感じるものがあったのだろう。
 貴族の奥方に収まるなど想像もできないマゴットであったが、ここでひとつの提案をイグニスにする。世に言うコルネリアスの夫婦狩りである。
 一日の狩猟を競い合い、より獲物をしとめた方が相手の言うことを聞くというものであった。
 マゴットが現実離れした傭兵であったため目立たないが、イグニス自身も王都では近衛騎士にも引けを取らない武人として名の知れた男であった。
 二人は森の生き物がいなくなる勢いで猛然と獣たちを狩っていったが、太陽も暮れかけた夕刻不思議なことが起った。
 これまで一度もはずしたことのないマゴットの矢がはずれたのである。ここまで二人の狩った獣の数は同数であり、時間的にもここで追い抜いたほうが優位に立つことは間違いなかった。喜び勇んでイグニスが矢を放つ。だがこれもわずかにはずれて草むらに落ちた。
 二人はもう一度矢を放ったが、信じがたいことに今度は大きくはずれて明後日の方へと飛んでいった。これは武勇自慢の二人にとってありえるはずのない話であった。
 二人はこの事実に同時に天啓を覚えた。なぜなら二人が狙った獣は番の鳥であったからである。
 天は二人に結ばれろと言っている。
 そう判断した二人の行動は早かった。
 反対する親族をほとんど脅迫するようにして鎮圧し、王都から誘拐同然に大司教を連れてきて大々的な結婚式を開催した。
 しかもどういうコネかマゴットが伝手をたどったところ国王本人が出席することになり、事実上二人の婚姻に異を唱えることは不可能になってしまったのである。
 こうしてマゴットはコルネリアス伯爵夫人として迎えられ、翌年一人の男の子を産み落とした。イグニスに似て将来女泣かせになりそうな(今では完全にマゴットに尻にしかれているが)少年はバルドと名付けられた。






 「し、死ぬ………」

 何度口にしたかわからない台詞を口にしつつ、バルドはゴロリと大地に身を横たえた。
 わずか9歳の子供に身動きできなくなるまで木剣を振らせるのはおそらくコルネリアス家だけだろう、とバルドは思う。
 現に父のつきあいで知り合った同じ貴族の子供はせいぜい家庭教師について日に何時間かの座学を行う程度であったはずだ。
 
 「そうか、死ぬのか。短い人生だったな……」
 「それが母親の言う台詞かよ!」

 天から降ってきた槍を身をよじってかろうじて避ける。もしよけなかったら間違いなく致命傷である。

 「何だ、まだ動けるじゃないか?」
 「動かなきゃ死んでるだろっ!」

 息子の激高をどこ吹く風と笑い飛ばす母親はトレードマークの銀髪をかきあげ不敵に嗤う。
 そこに息子に対する確かな愛情を見て取ることができるのは、おそらく夫のイグニスくらいのものであろう。もちろんバルドにとってその笑みはさらに過酷な試練の前触れにしか見えなかった。

 「どうした?いいのか?そのまま寝転がっていて?」
 「どちくしょうっっ!」

 それはコルネリアスでは恒例の朝の訓練風景だった。
 疲労で指先ひとつすら動かすのが億劫になったころ訓練は終わりを告げる。

 「お飲み物でございます、坊っちゃま」
 「ありがとうセイ姉」

 バルドは無我夢中で差し出されたレモン水を喉を鳴らして飲み込んだ。
 そしてぷはーっと親父臭い吐息を漏らして照れくさそうに侍女へとコップを返す。
 クスリと笑ってコップを受け取った侍女は可愛らしい弟でも見るようにバルドに向かって微笑んだ。

 「もう一杯お飲みになりますか?」
 「うん、お願い」

 微笑ましい二人のやりとりをマゴットは目を細めて見つめていたが、彼女の愛情の深さを知らないものにとっては剣呑な目でにらんだようにしか見えないのは言わぬが華というやつだろう。
 
 (楽しいねえ……まさか戦働き以外にもこんな楽しいことがあるとはねえ……)

 愛する息子の成長を目のあたりにする。それも自分の手で自分の好みに育てあげることがこれほどの悦楽とは思わなかった。
 そんな物騒なことを考えながらマゴットはイグニスと結婚してからの年月を思い返していた。





 いかにマゴットが傭兵あがりとはいえバルドにこれほどの修行をつけているのにはわけがある。
 通常こうした訓練は理屈を理解できない子供に教えることは難しい。
 子供は理解できないことに興味を持つことは難しく、正しく理解できなくては技術は身に付かない場合がほとんどであるからである。
 だからこそ吸収の早い幼少期の訓練が、有効なものであると気づきながら誰も実践できない現実がある。
 しかしことバルドにかぎってはその心配はない。
 ないどころかむしろその知識量はある面ではそのあたりの大人を遥かにしのぐ。
 そんなありえない話がコルネリアス家に降ってわいたのは6年ほど前のことになる。


 
 バルドは発育こそよかったもののなかなか言葉を覚えられずにいた。
 そのくせ何か思い出したように意味不明の声をあげる。
 普段はなんということもないが、特に体調が悪化したり大きなショックを受けた時にはその症状が顕著であった。
 そして5歳の春、バルドは散歩で負った傷がもとで深刻な感染症を発症した。
 意識不明でうなされていたバルドは長い長い夢を見た。
 人の人生に匹敵するような、とても長い夢を。
 およそ2ケ月生死の淵をさまよったバルドが目覚めると発した言葉はというと―――。


 『なんてこった』

 その言葉はマゴット達の使うアウレリア大陸語ではなく、この世界で知るはずのない日本語で紡がれていた。
 岡雅晴、それがバルドの生前の名であったという。
 高校という教育施設に通っていた彼は突然生命活動を断たれたらしい。
 なんでも受験のために通りを歩いていたのが最後の記憶だそうだ。通り魔に殺されたか、心臓の発作で病死したか、お約束のようにトラックにでも跳ねられたか………トラックなるものがマゴットにはわからなかったが本人も気づかぬうちに死んでしまったというのは確からしかった。
 さらに問題なのはこの岡雅晴以外にもう一人の人格が蘇ってしまったということだ。
 意識を取り戻すまでの2ケ月間、三人もの記憶が混在した脳が過負荷から正常に復帰したのは奇跡に近いと診療にあたっていた治癒師は言っていた。
 まだ自我が弱い幼児だからこそなんとか脳の同一性を保つことができたのだろう。
 その事実を知ったマゴットは決然としてバルドを鍛えることを決意した。
 箍が緩んだバルドという人格を再び統合するためには、つらい、苦しい、疲れたという個人としての生の実感を与えることが一番であると判断したためだった。
 だがこの地獄のような訓練は一つの予想外の結果をもたらす。それは目覚めたもう一人の記憶が異世界の職業軍人のそれであったことが影響していた。
 たちまちめきめきと腕を伸ばしていく息子の姿に不覚にもマゴットの胸は躍った。
 あるいはこのまま成長すれば息子を王国一の武人とすることも不可能ではないと確信したためであった。

 (バルドが成長してからは滅多に表に出てこなくなったが……あれはあれで味のある人格であったな。確か………岡左内定俊と言ったか)

 70歳を過ぎて大往生したこの武人の記憶がバルドの武才に大きな影響を及ぼしていることは間違いない。どうやら魔法のない国の武術のようだがその動きはあくまでも無骨で実戦的なものだ。老衰で死んだらしく三人の人格のなかでもっとも老成して自己主張の少ない男であった。
 しかしこの男の本能とも言えるとある欲求がのちのバルドの人生に少なからぬ影響を及ぼすことをマゴットはまだ知らずにいた。

 「ほら、これが今月のおこづかいだ。大事に使うんだよ?」
 「はいっ!ありがとうお父さん!」

 バルドは子供らしい元気な声で父親から銀貨を受け取った。
 耕地面積が少なく経済状態が決してよいとは言えないコルネリアス家だが、仮にも伯爵家であり一般の庶民に比べれば大変な富裕家であることは間違いない。
 イグニスは息子に金の価値と扱いを学ばせるため5歳のときから毎月のお小遣いを渡している。
 これまでイグニスがバルドに与えた金額は銀貨72枚であり、これは現代の貨幣に換算すればおよそ130万円程度に相当する。
 しかしすでに前世の知識のあるバルドは当然金のありがたみを理解していたし、財政が社会に与える影響の大きさもある程度はわきまえていた。結果から言えばイグニスの好意はバルドの中に眠っていた一人の男の本能を呼び起こす引き金にしかならなかったのである。


 「ふへへへ……いつ見てもいい輝きだぜ……」
 「毎度のことですがそのお顔は引きます。坊っちゃま」

 銀貨を眺めながら悦に浸るバルドの姿に侍女のセイルーンは形のよい眉をひそめる。
 
 (これさえなければ完璧な坊っちゃまなのに………)

 セイルーンがバルド付きの侍女となったのは5年ほど前のことである。
 お館様は詳しい内容を話してはくれなかったが、精神的に不安定になったバルドに同じ年代の友人をあてがってやりたいという親心であったらしい。
 そのためセイルーンは侍女ではあるが幼なじみという側面ももっており、実際にバルドを手間のかかる弟のように思ってもいた。
 バルドより2歳年長で今年13歳になるセイルーンは茶金の髪に鳶色の大きな瞳をもった美少女で、この1年ですっかり女らしく成長した丸みを帯びた女性特有の曲線に実のところバルド自身も彼女との距離感を測りかねていた。

 「こればっかりはセイ姉の言うことでも聞けないんだなあ……」

 くつくつと人の悪そうな笑みを浮かべるバルドは誰の目にも年齢通りの少年には見えなかった。イグニスやマゴットの前でも見せることのない、セイルーンだけの知るバルドの本性だった。
 「………もういいです。諦めましたから………」

 それにバルドが人としての道を踏み外すようなことはしないと信じているし、とはセイルーンは言わない。無駄な知識のあるバルドがこれ以上暴走するようなことがあっては困るからだ。

 「くひひ……この冷たい銀の感触がまた…!」
 「―――諦めたといったのは嘘です。そこに正座なさい、バルド坊っちゃま」

 愛おしそうに銀貨に頬ずりをし始めたバルドを見た瞬間セイルーンは自分の考えが浅はかであったことを悟った。どこに出しても恥ずかしくない次期当主としてバルドを育て上げるため、もう一度厳しくしつける必要があるようだった。


 バルドの金好きは今に始まったことではない。
 むしろ生まれたときから好きだったと言えるかもしれない。
 物心つく以前からバルドは赤ん坊が好むガラガラのおもちゃやおしゃぶりより金貨や銀貨に興味を示す奇妙な赤ん坊だった。
 5歳で前世の記憶が目覚めてからはその傾向は顕著なものとなった。
 金貨をいつまでも見つめてニヤニヤと笑み崩れる幼児という心臓に悪い光景がコルネリアス家で見られるようになったのはこのころである。
 しかしこの奇癖は幸か不幸かバルドは光モノが好きというマゴットの盛大な誤解によって矯正されることになる。
 金貨の代わりにナイフやショートソードを握らせ5歳児に刃物の扱いを教えるというこちらはこちらで十分常軌を逸した行為によってバルドは金貨に対するこだわりをマゴットの前で見せるのは危険であるということを学習した。
 その後バルドが両親の前で金貨への執着を見せたことはない。
 ただ一日のほとんどの時間を共有している幼なじみにして侍女のセイルーンの前でだけはやりすぎない程度のその本性を垣間見せるのだ。
 もちろんこの奇癖はバルド本人のものでも前世である岡雅晴のものでもない。
 前前世である岡左内という戦国期のマイナーな武将の業深い性癖のようなものであった。



 岡左内、その名を知っていたらよほどの戦国マニアか、あるいはご当地の人間かのいずれかであろう。
 若狭の国に生を受けた彼はまず丹羽長秀に仕え、その後蒲生氏郷に重臣として召抱えられ、氏郷の死とともに関ヶ原の戦い前には上杉景勝に仕えた。
 戦巧者でもありたびたび戦果をあげたが、彼の名が世に知られているのは彼の蓄財ぶりに負うところが大きい。
 岡左内は同僚たちに金を貸し付けたり商人のまねごとまでして金を貯め、その貯まった小判を床に敷き詰め、そのうえを全裸で寝転がるのが趣味という、変人の多い戦国の武人のなかでも特筆すべき変態であった。
 しかしわずか150名の兵を引き連れ15000名の伊達政宗軍を翻弄し、またあるときは伊達政宗の兜を吹き飛ばしあわや政宗を討ち取る寸前に追い込んだり、領地を減らされた上杉家への証文を焼き捨て借金を帳消しにしたりという男気ある男でもある。
 かの直江兼継がこの先の上杉家にとって誰より有用な士を失ってしまったと嘆いたと伝えられる。実際に戦国の終わりとともに文治の時代を迎えて殖財の才のある左内は脳筋の多い上杉家にとって宝石よりも貴重な存在であったろう。
 前世である岡雅晴の記憶もあるため、バルドもこの性癖は恥ずかしいものであると認識してはいるのだが、バルドという人格形成のうえでこと金銭欲に関しては左内の業の深さが勝ったらしかった。
 さらにくんかくんかと銀貨の匂いを嗅ぎ、舌でその金属っぽい味まで堪能したいという欲望をかろうじてバルドは抑え込んだ。
 これ以上セイルーンを刺激することは賢明とは言えなかったからである。

 「私が悪うございました。許してください」
 「………本当にそう思ってくださればよいのですけど……」

 セイルーンはそう言って重いため息をついた。
 この程度でバルドが改心するはずのないことは誰よりセイルーンが一番良く承知していた。
 しかし恥も外聞もなく平身低頭して謝るバルドを前にしては、そう強いことも言えない。
 結局のところセイルーンも可愛らしい幼なじみの弟分には弱いのである。

 「じゃ、僕は出かけてくるから!」
 「あっ!坊っちゃま!お待ちください!まだお話は終わっておりませんよ!」
 「ごめん!帰ってから聞くよ!」

 矢のように街路へと駆けていくバルドをセイルーンは腰に両手をあてて呆れたように見送るしかなかった。このところセイルーンに隠れてバルドが何か企んでいるらしいことはわかっている。どうも街の子供を集めているようなのだが、いかんせんなかなかどうして街の悪ガキたちは結束が固くセイルーンに情報を提供してくれないのだ。

 「………もう、帰ってきたらお仕置きですっ!」

 それでもバルドが悪事に手を染めているとは露ほどにも考えていないセイルーンであった。






 「………完全にセイルーンには疑われてるな……」

 よく考えれば当たり前である。セイルーンだからこそバルドが一人でこそこそと動いているのを見逃してくれているのである。これが両親の意を受けた雇われ侍女であればとっくに密告されて終わっているだろう。そうした意味でセイルーンはバルドにとっても幼なじみであり姉代わり的な存在だった。


 「バルド様!お待ちしてました!」

 元気な声とともに現れたのはテュロスである。
 13歳とは思えぬ大柄で将来は家を出て兵士になろうという力自慢でもある。
 街では割と良く知られた仕立屋の三男坊で目鼻立ちは整っており性格も穏やかでかしこい、という地味チートなのだが、どういうわけか年下ではあるバルドが領主の子供というだけではなく心から慕っていた。思わず主人にすり寄る大型犬を幻視してしまうほどである。 
 それはもちろんバルドが前世の記憶という幼児にあるまじき知識と風格をまとっていたからなのであるが。

 「よし、秘密基地に向かうぞ」
 
 バルドはテュロスを従えるようにして町外れの小さな耕地へ向かった。
 こづかいを貯めてバルドがとある農家から土地がやせて放置されていたものを格安で買い上げたそこはおよそ1アールほどの畑であった。
 
 「ああ!バルド様!見て見て!こんなに大きくなったよ!」
 「ねえねえ、これ食べたらおいしいの?」

 畑には二人の子供が楽しそうにはしゃいで水を振りまいている。
 父が衛兵をしているポルコと商人の娘のマルゴであった。
 
 「そろそろ収穫しごろだな。あまり世話もいらない作物だから助かる」
 「………お父さんに聞いたけどまずくて食えたものじゃないらしいよ?」
 「ええ~そうなの?バルド様?」

 好奇心の強いポルコは自分なりに情報を収集していたらしい。逆に食欲旺盛なマルゴは収穫したものを食べることしか頭になかったようだ。

 「まあ、このまま食べようとしたらそうなるだろうね。栄養価は悪くないんだけど」

 バルドは二人の反応に頬が緩むのを感じた。
 本当は三人とも自分より年上なのだが二人の前世の記憶の分、どうしても彼らが幼く感じてしまうのだ。

 「………それで、これをどうなさるおつもりですか?」

 三人のなかで一番年長で頭のいいテュロスが興味深そうにバルドの瞳を覗きこむ。
 これがただのまずい食材であるはずがない、と頭っから信じている瞳であった。
 そんなひたむきな視線にくすぐったさを感じると、バルドはこれは期待に答えなくてはという使命感にかられるのであった。

 「――――じゃあ収穫は後回しにして今日のところはこれで何をつくるのかやってみようか」
 「「「やった――――っ!」」」

 普段は一歩引いた雰囲気のテュロスまで飛び上がって喜んでいる。
 よほど作物の正体が気になっていたらしい。
 確かに普通に山に自生してたのに誰も気にも止めてなかったものだからな。
 大きく膨れたサイズのそれを一本引きぬくとバルドは三人を連れて畑の脇に建った粗末な木小屋へと向かった。

 「それじゃマルゴはこれを小さくみじん切りに切り刻め。テュロスとポルコは水を準備して鍋に火をかけろ」
 「わかりました!」
 「任せて~」

 ワタワタと準備を始めるお子様三人組を微笑ましく見つめるとバルドは彼らに見られぬように悪人顔でほくそ笑む。

 (くっくっくっ……ついにこの日が来た。現代人の知識チートで金をがっぽり稼ぐそのときが!)

 戦国期の武人岡左内による金銭への欲求……そしていささか厨二病を患っていた岡雅晴の知識がバルドの中で整合性をもって統合されたのは実はわずか1年ほど前のことである。
 それまでのバルドはまさに三重人格そのもので、幼児であるバルドに高校生の雅晴、そして戦国を生き抜いた老人の左内が強い関心を引かれるごとに代わる代わる顔を出す有様であった。そのなかでバルドが発狂もせずに無事成長できたのはやはり両親のゆるぎない愛情と、同じ子供同士であるセイルーンとの交流、何よりうだうだ悩むことを許さぬ母の地獄の特訓にあったと思われる。
 生死のかかった過酷な訓練は望むと望まざるとにかかわらず幼児の精神力を熟成させ、生き延びるために三人の人格はともに手を携えることを欲した。
 まさに母の魔の手から逃れるためにこそ新バルドともいうべき今のバルドは誕生したと言える。 
 思い出したくもない日々を思い出してしまったバルドはブルブルと頭を振った。あの地獄などより今はこっちのほうが重要なのだ。これが完成した暁には……まずは資金を貯め新たに土地を取得して使用人を増やすとともに商人とネットワークを形成して……くっくっくっ、夢が広がりまくリング!

 (またバルド様が悪人顔してるね)
 (あの顔を見るとあの人も俺達と同じ子供なんだと安心できるんだよな…)
 (いやいや、きっと俺達には想像もつかないことをお考えなのだ)

 割と早い段階で、バルドの擬態は子供たちにはお見通しであった。

 バルドが畑で栽培したのはテンサイである。ビートとも呼ばれる。
 日本では砂糖大根などとも呼ばれるサトウキビと並ぶ砂糖原料の植物である。
 多くの葉を出すことから葉野菜として用いられ、その後根の部分が家畜の飼料に用いられていたが、砂糖の抽出が開始されたのは遅く実に18世紀も半ばになってからである。
 気候的に温帯に属するアウレリアス大陸では砂糖はほとんど南のサンファン王国からの輸入に頼っていた。もちろんサトウキビ産である。
 この世界ではいまだテンサイからの砂糖抽出を想像したことさえなかったのだ。

 「ちゃんと細かく切ったか?それじゃそれを鍋に入れて煮込むぞ。沸騰しないように火加減を注意しろ。そのほうがおいしいものが出来上がるからな」
 「やった―――っ!やっぱり美味しいんだ―――!」
 「う~ん……薄味で大したことないって聞いたんだけどな………」

 黙々と煮ること1時間、マルゴは途中で飽きてしまったが、好奇心旺盛なポルコはじっと黙って火加減を調整し続けていた。こうした我慢強さがポルコの特徴であり、将来は父に似たよい衛兵になるだろうとバルドは思う。

 「よし、煮あがった根をさらし布で軽く絞れ。あとは灰汁を掬いながら煮詰めていったら出来上がりだ」
 「それだけ~~?」
 「ま、大した量にはならんだろうが……出来上がったらお前らもびっくりするぞ?」
 「……汁を煮詰めたら何も残らないんじゃ………」

 火を落とし灰汁をこまめにとりながら煮詰めること10分、根から絞られた汁は水飴のようなとろみを帯びてくる。薄茶色のドロッとした液体を鍋から掬い皿に移すと我慢できなかったようでマルゴがバルドの右腕にとりすがって催促し始めた。

 「ねっ、ねっ、これ食べてもいい?これで完成なんだよね?」
 「量が少ないから指で舐めるくらいにしとけ」
 「「「いっただっきま~す!」」」

 「あ」
 「え」 
 「お」

 「「「あっま~~~~~~~いっ!!」」」


 歓喜の声とともに三人は夢中になって甜菜糖を舐めはじめる。
 サトウキビ由来の純粋な砂糖は庶民にはなかなか手に入らない貴重品である。
 養蜂も普及していないために庶民の甘味といえばもっぱら果糖に頼らざるを得ないのが現状であった。
 
 「これって砂糖ですよね?どうして?どうしてこんなくず芋から砂糖が?」
 「うわっ!すごっ!バルド様私こんな甘いの食べたことないようっ!」
 「まさかとは思いましたがこれは………すごいですね……」

 一舐めするごとに頬に両手をあて、ほっぺが落ちそうを地でいっているマルゴや、見向きもされなかった食材から砂糖が取れたことに純粋な驚きを覚えているテュロスとポルコの反応を見て満足そうにバルドは目を細めた。

 ――――さあ、これでひとまず資金繰りの目途はついた。だが僕の野望はまだ始まったばかりだ!もっと金を!もっと!もっと!一心不乱に金を!数えるのも億劫になるほどの大金をかき集めよう!そしてあの――いやいやいやいやあれはだめだ。あれはやったら僕は人間的に終わってしまう気がする。だがしかし………くっ!今度こそ金貨の山に手が届きそうだというのに………!

 「バルド様どうしたのかなあ?」
 「何か難しいことを考えているのさ」
 「僕には悶えているように見えるのだけれど……」

 さすがの三人も、まさかバルドが床に金貨を敷き詰め、そこを全裸で転げ回りたいという前世の欲求と戦っているとは想像もつかなかったのである。
 独眼竜政宗をあと一歩のところまで追いつめた(しかも10分の1以下の寡兵で)非凡な戦国武将岡左内にはどうにも言い訳のできないある奇癖があった。
 金貸しを商い貯蓄に執念を燃やすのはまだよかろう。だが彼は月に一度だけ、奥の部屋に閉じこもりたった一人である儀式を執り行っていた。
 それが、部屋いっぱいに蓄えた小判を敷き詰め、おもむろに全裸になると全身で小判の感触を味わうというものであったのである。
 「ふひゃははは!この金の地肌の感触がたまらん!」
 「この楽しみのために生きてるでぇぇぇ!」
 現代の札束風呂を戦国時代に実行したのはおそらくこの男くらいなものであろう。 
 戦人としても内政家としても有能であった彼が主人を何度も変えなくてはならなかったのは、運もあるがこの人に言えない趣味が影響した可能性もなしとは言えまい。

 ―――くそ、金が……金の魔力が俺を惑わす………耐えろ!耐えるんだバルド!

 バルドが必死の忍耐で平静を取り戻すにもおよそ5分の時間を必要とした。



 「いいか?このことは誰にも話すんじゃないぞ?話した奴は即刻仲間はずれにするし、家来にもしてやらん。これは僕の将来の家臣となるための試練でもあるんだからな?」
 「もちろんです!」
 「大丈夫だよ~」
 「お任せください!」

 生まれて初めての口福を味わってテンションのあがった三人に残りのテンサイの収穫を命じてバルドは商店街へと向かった。
 昼をすぎて人通りの増したとおりを南へ歩いていくと一軒の商家がある。
 小さいが小ざっぱりとして瀟洒な雰囲気のその店には大きくサバラン商会という看板がかけられていた。

 「儲かりまっか?」
 「ぼちぼちでんな」

 バルドの問いかけに合言葉のように即答したのはサバラン商会の主人であるセリーナ・サバランその人である。

 「どうやらうまくいったようやなあ」

 花が咲いたように笑うセリーナはまだ18歳の乙女である。
 スッと通った鼻筋やバラ色の小ぶりな唇、そして硬質な切れ長の眼差しは彼女に美少女というよりは、やり手の美女のような貫禄を与えていた。
 だがバルドにとってさらに重要な関心は彼女の頭部に鎮座する二つの大きな―――丁度耳の半ばほどから折れるように垂れ下った巨大な犬耳にあった。
 そう、彼女は獣人族なのである。
 極上の毛並みのそれを思う存分モフりたい欲望にバルドは駆られる。
 実はもう何度も頼み込んでいるのだがセリーナは頑として許してくれないのだ。
 アウレリア大陸において獣人族は決して珍しい人種ではない。
 大きく犬耳と猫耳に分かれており、獣王ゾラスと契約した英雄ブロッカスの血統であると伝えられる。人間より身体能力や五感に優れていることが多いがそれもわずかなもので、本物の犬や猫には遠く及ばない、耳と尻尾があるだけの人間である。
 セリーナはその美しい容姿と、不幸にも父が亡くなったことで相続することになったサバラン商会の財産を狙われ叔父に誘拐されかけていたところをバルドに救われていた。
 その日のバルドの姿を、セリーナは昨日のように思い出すことが出来る。
 そして追憶とともに下腹部に女の甘い疼きを覚えてしまうのを抑えることができない。
 あのときバルドはまだ9歳でしかなかったが、その雄姿は伝説の英雄に勝るとも劣らないとセリーナは確信していた。




 サバラン商会は行商人であった父マスードが母リリアと熱愛のすえ腰を落ち着けるために開いた商会で、規模は小さかったが行商時代に培った人脈と販路でコルネリアス領の中でも有望な商会として注目されていた。難病の母を助けるため無茶をしなければ有数の大商会に発展させることも可能であったかもしれない。
 しかしマスードは内臓が腐るという不治の難病に侵された妻を救うため王国中を駆けずり回ったあげく、教会の神霊術では治癒できないとわかると自らの内臓と交換するという禁断の闇魔法に手を出してしまった。
 藁にもすがる思いだったのだろう。普段のマスードならばそんな自殺同然の行動に出るはずがなかった。だが妻の死が目前に迫っている状況で冷静な判断を下す余裕はマスードにはなかった。
 ―――――結果マスードは自らの内臓を妻に譲って死亡。リリアもまた他人の内臓への拒否反応によってまもなく死亡した。よく考えればそんな都合よく難病を治癒できる魔法がもし存在するならば、普及していないはずがなかったのだ。今頃は天国でリリアにものすごい剣幕で説教されているに違いない。
 今思えば聡明で行動力もあり人好きのする父だったがいつもどこかが抜けている父だった。
 
 そして一人残されたセリーナのもとに碌につきあいのなかった母方の叔父が現れる。
 後見人としてセリーナの面倒を見てやろうとまるで当然のように店に侵入してきたので、すでにこの商会は自分のものであり商業ギルドにも登録と許可は済ませてあるというと途端に鬼のような形相で口説き始めたのである。
 曰く、経験のない小娘には任せられない。
 曰く、自分は王都でも名の知れた商人だから自分に任せておけば間違いない。
 寡聞にして叔父が商人であることなど知らなかったセリーナはこの提案を一蹴する。
 どこから見ても財産目当てのハイエナにしか見えなかったからだ。事実そのとおりであったろう。
 法的にセリーナの主張を覆すことが不可能であることを知った叔父は薄汚い罵り声をあげてサバラン商会を後にした。
 あんな人間の屑に騙されるほど自分は愚かでもか弱くもない。セリーナはそう信じていたが、わずか数日後セリーナは自分が叔父の屑さ加減を見誤っていたことを思い知らされることになった。

 「小娘が。おとなしく従っておけば娼館に売り飛ばすくらいですませてやってものを」
 「悪いけど私の男の理想は高いんよ。豚の相手はお断りするわ」

 油断していた。
 父から商会を継いだばかりで焦っていたということもあるだろう。
 得意先から大きな商談だという話を持ちかけられてホイホイついて行ってみれば得意先からの使いは真っ赤な偽物でごろつきを侍らせた豚がいやらしい笑みを浮かべていた。

 「こないな真似をして露見しないとでも思っとるんか?」

 無駄だとは思っていたが念のためセリーナは叔父を脅しておく。
 営利目的殺人は死刑だ。セリーナを殺せば叔父に疑いが行く可能性は高かった。

 「両親を亡くした娘が世をはかなんで身投げする―――というのはよくある話だ。溺れ死ねば証拠など残らんしな」
 「けっ外道が」

 これは私も父さんと母さんに説教かな………まだ諦めるつもりはなかったがここが自分の死に場所となる確率は高い、とセリーナは覚悟した。
 豚一人ならともかくごろつきの数は8人で、しかもそのなかには明らかに何度も人を殺したことのある凶相の男が二人もいたのである。獣人族が多少身体能力が優れているとはいえ敵う相手でないのは明らかだった。
 が、そのとき―――――。


 『可愛い童によってたかってせごす(いじめる)でねえ………』

 その場にいた全員が驚いて振り向くとそこには可愛らしい小さな男の子がいた。
 彼が何を話したのか、異国の言葉らしく誰も理解することはできなかったが、豚たちを罵倒しているのだということだけは雰囲気でわかった。

 「この餓鬼………!」

 普通に考えれば彼は事件に巻き込まれてしまった犠牲者だ。
 しかしセリーナは男の子の目を見た瞬間、なぜか自分が助かったということを確信した。
 獅子や虎を見ればわかるように、強者にはその瞳を見ただけでわかる強さがある。
 特に獣人族はその感覚が鋭敏だった。

 「おい、殺せ。あの世で己の迂闊さを呪うんだな」
 『なんや、お前ら命いらんのか?ゲンクソ悪い……』

 セリーナよりも小さな身長の少年である。
 取り押さえることも命を奪うことも造作もないとゴロツキは思ったのだろう。
 ニヤニヤと卑しい嗤いを張りつかせて少年を捕まえようとすると同時にまるで雷光のように少年が動いた。
 まさに電光石火。一番近いゴロツキの懐から刃物を奪うと微塵の躊躇もなく喉元に一突き、そしてさらにもう一人の心臓を突き刺すとその男が装備していた剣を奪う、と同時に刃物を投擲して接近していたゴロツキの一人を倒す。
 少年の身体には不釣り合いに思える長い片手剣を準備体操のようにブンブンと振って見せると少年は不敵に嗤って豚たちを挑発した。

 『ちいとつれえがまあいい。やろいな、ほうけもん』
 
 少年が浮かべた明らかな侮蔑の表情を豚たちは見逃さなかった。
 明らかに強者が弱者に見せる優越を含んだ表情。
 社会的に人を見下し見下される立場の彼らがこの手の表情を見間違うことはありえなかった。

 「こ、こ、この餓鬼!早く殺せ!殺してしまえ!」

 このとき少年が只者ではないということを凶相の男たちは少年の身にまとう死の空気から敏感に感じ取った。だが見た目でしか少年を推し量ることのできないゴロツキは仲間の仇とばかりに気勢を上げて殺到する。すると少年の小さな身体がかき消えたかのように地面スレスレに沈みこんだかと思うと、気がつけば三人の足が脛から下を斬り飛ばされていた。

 「ぎゃあああああっ!」

 利き足を斬り飛ばされて立っていられる男はいない。
 激痛に悶絶する男たちには目もくれず、少年は豚に向かってナイフを飛ばした。

 「ひっ………ひいいいい!」

 思った以上に近くで豚の悲鳴を聞いたセリーナは思わず身体をのけぞらせる。
 どうやら自分を人質にするつもりでひそかに近づいていたらしかった。
 どこまでも下種な男だ。

 「お前らには高い金を払ってるんだ!いいか?必ず殺せ!」

 ゴロツキとは全く別格の殺気をまとった殺人者が少年の前に歩を進めた。
 だがそれでも涼しげな少年の佇まいはいささかも変わらない。
 殺人者が自分より弱い相手としか戦ってこなかったことを本能的に感じ取っていたからだ。

 (これなら母御殿のほうが何百倍も恐い)

 少年は躊躇しなかった。
 無人の野を歩むかのように無造作に殺人者に接近する。
 なめられたと思ったのか殺人者はゴロツキどもよりはかなり洗練された動きで斬撃を放ったがそれだけだった。
 剣を滑らせるようにして懐にもぐりこんだ少年はそのまま男を腰にかつぎあげるようにして地面に転がした。同時に踵に体重を乗せて男の喉元に落とす。「グゲッ!」と肺から空気を絞り出すように呻いて男はそのまま動かなくなった。
 もう一人の男は少年が自分から一切目をそらさずに無言で相棒を踏み殺したという事実に全身を冷や汗に濡らしていた。
 ―――――勝てない。それなりに腕に覚えのある自分たちを虫けらのように踏み殺す相手になど勝てるわけがない。
 男の目の片隅で、雇い主がしょうこりもなく娘に近づいていくのが見えた。
  
 「いいのか?娘の命が無くなるぞ?」

 言い捨てると同時に男はわき目も振らずに駆けだした。
 少年の注意が娘にそれた瞬間に、すでに男は剣の間合いから3歩は抜け出している。
 そのままスピードに乗って走りだすと男は自分が絶体絶命の危機から逃れたこと信じた。
 
 ガツン

 『石打ちでもまま人は死ぬけえ、なあ?』
 
 男の後頭部を穿ったのは河原に落ちているようなやや平べったいごく普通の石だった。
 どこにでもある石が少年にかかっては人の生命を奪うに足りる武器になってしまうらしい。
 昏倒して倒れた男の頭から大量の血が地面を濡らして流れ出た。男の生命の火が消えたにせよ消えかかっているにせよ、生きて男が立ち上がることはないだろう。

 「う、動くな!」

 少年の動きに見惚れていたセリーナは豚が性懲りもなく自分を人質にしようとしていたことを思い出した。愚かな、今逃げ出していれば命だけは助かったかもしれないものを。

 「剣を捨てろ!この娘がどうなってもいいのか!?」

 全く見ず知らずの、言葉も通じない少年に人質の意味はあるのか?とセリーナは思ったが頭に血の登った豚には理解できないらしかった。

 『お前が娘を殺すよりワエがお前を殺す方が早いけ』
 「剣を捨てろと言ったぞ!聞こえ………」

 ヒュンと何かが風を切って飛ぶ男が聞こえたかと思うと、豚は最後まで言わせてもらえずに額にざっくりと剣をめりこませて絶命していた。
 自分でも何が起こったか理解できたかどうか。セリーナにも少年が剣を投げつける動作は全く捉えることが出来なかった。
 なるほどこれでは人質の意味などあるまい。

 「お、おおきに………」

 セリーナは少年に頭を下げ感謝の意を示した。
 おそらく大丈夫だとは思うが、少年の言葉が理解できない以上余計な刺激は慎むべきだろう。だがそんなことを考えるよりも早くセリーナの足がカクンと膝から折れて腰から崩れるようにセリーナは座り込んだ。
 よく見ればガクガクと足が震えている。
 殺されそうになっていた事実に理性よりも本能が先に反応していたらしかった。

 「ふえっ?」

 温かい手で頭を撫でられていることに気づいたセリーナの口から間の抜けた声が漏れた。

 「ええ~と、ごめんなさい、怖がらせたかな?」

 ばつが悪そうに苦笑する少年の顔は、先ほどまでの鬼神のような殺気の人物とは同一人物とは思えない。
 安堵からか涙ぐんでしまっているセリーナの機嫌を必死に直そうと慌てる少年の様子にセリーナは泣きながら嬉しそうに笑った。

  「それじゃ、これ、舐めてみてくれ」
 「えらい少ないなあ………」
 「試作品に贅沢言うなよ」

 セリーナはバルドに差し出された茶色い玉をヒョイと口のなかに放り込む。
 独特の深みのある甘みがたちまち舌先に溶けだすと、セリーナは蕩けるように目を細めた。

 「んん~~~!甘味サイコー!!」

 商会を差配するセリーナといえど砂糖はそう簡単に口にできる品ではない。
 高価であることも理由のひとつだが、そもそも流通する絶対量が足りないのだ。

 「どうだ?」
 「その人の好みにもよるやろうけどうちはこっちの砂糖のほうが美味しいわあ」
 「っしゃ!」

 そう言ってバルドは右手で握りこぶしをつくって肘を引く。
 たまにバルドはこういう意味不明の動作をするが、とにかく喜んでいる気配は伝わった。

 「伯爵領うちの特産にしたいんだが育てること自体は簡単だからな。いずればれて真似されるだろ。だから次のステップのための資金稼ぎと割り切って作付を拡大する予定だ」
 「それで販売はうちに任せてくれるんやな?」
 「そう、だからそろそろその耳に触らせて………」

 毛並みの良い耳へと手を伸ばすバルドの手の平をつねってセリーナは悪戯っぽく笑う。

 「うちはそんなに安い女やないんよ」

 獣人族にとって耳を触らせるのは心を許した男性のみだ。
 内心ではバルドになら触られてもよいと思っているセリーナだが、こんな風にふざけた態度で触られるのはごめんだった。
 もっとも一人の女性として愛してくれるというならば触れされるのもやぶさかではない。

 「………残念。でも販売を任せるというのとはちょっと違うかな?」
 「………ほう」

 バルドの言葉に言外の意味を感じ取ってセリーナは目を細めた。
 助けられたときの雰囲気もあるが、セリーナ自身バルドを見た目通りの9歳の少年とは思っていない。特に楽しそうに悪戯っぽい笑みを浮かべているときはそうだ。

 「正直、看板を貸して欲しいんだよね。もちろんいろいろな実務はセリーナにお願いせざるをえないんだけど、僕は僕の考えで金を動かしたいんだ」
 「………どこまで自分が口を出すんや?」
 「基本的な方針だけだよ。何を買う。何に投資する。全額か?半額か?あとはセリーナの才覚に任せるさ」
 「うちのメリットは?」
 「看板代に利益の1割でどう?」

 セリーナはずい、と身を乗り出して鼻息荒くバルドを睨みつけた。

 「うちを安く見すぎや、3割」
 「資金は全部僕が出すんだからそれは暴利でしょう。1割5分」
 「何を売るにしろいくらで契約するにしろうちの才覚なしには絵に描いた餅やろ?それに自分うち以外に頼める人間おるんか?3割」

 想像した以上に頑ななセリーナの姿勢にバルドは困ったように頭を掻いた。
 セリーナ以外にこんなことを頼める知り合いもいないというのも確かなことである。
 投資信託を基準にどうせリスクのない仕事なのだからと軽く考えすぎていたらしい。
 
 ………ここで譲歩するのは簡単だが3割となればどれほどの金額になるか………惜しいっ身が切られるほどに金が惜しい!しかしセリーナ以外に頼るべき人間がいないのも事実、ならば…………。

 「………それじゃ耳触らせてくれたら3割でいいよ」
 「んぐっ!?」

 思わぬ切り返しに今度はセリーナがのけぞった。
 正直最初はバルドの思い通りにいかせるのが癪に障っただけのことだった。
 間違いなくバルドの発明と商品は巨万の富を生むであろう。
 バルドに選択肢がないのは承知だが、万が一ここでバルドとの接点を失えば損害が大きいのはセリーナのほうである。
 ここで本気で断るということはセリーナはもちろん考えていない。
 3割というニンジンとこれを好機にバルドとの関係を一歩前進させたいという欲求にセリーナは顔を真っ赤に染めて逡巡した。

 「す、少しだけ、特別やで?」

 つい先ほどそんな安い女ではないと言ったのも忘れてセリーナはペタリとしおれた耳を差し出した。
 ―――そうだ。これは3割の報酬のため。決してバルドに触って欲しかったわけでは……。

 「ふにゃっ?」

 バルドの指先が毛並みのよい耳の先端を擦るような感覚にセリーナの口から奇声が漏れた。こそばゆいような、それでいて心の奥が満たされていくような感覚にセリーナは無意識のうちに目を細めた。
 プルプルと震える肩に怯えるようにぺったりと伏せ耳になったその姿はバルドにとって煽情的ですらあった。
 バルドの脳裏に厨二病を患っていた岡雅晴の記憶がよみがえる。
 犬耳萌え――――それはケモナーの至高にして正義の伝承であった。
 (こ、このモフモフ感はたまらんっ!)

 「ん……ふきゅう…」

 子犬のような鳴き声がポツポツと漏れだすがセリーナが決してそれを厭がっていないことは盛大に揺れ動く尻尾が雄弁に告げていた。
 長年の望みが叶ったバルドは執拗に毛皮を堪能したに飽き足らず、敏感な耳裏の皮膚を揉みしだき、暴走する欲情の命ずるままに頬擦りしようと身を乗り出した、がしかし………

 「調子にのんなやあああああっ!」
 「ぐはっ!」

 セリーナの小さな頭を抱えこもうとしてがら空きになった腹に渾身の一撃を食らってバルドは3mほど吹き飛ばされた。
 武芸を嗜んだバルドに反応する隙も与えぬ見事なボディブローであった。

 「す、少しだけ!少しだけって言ったやないか!しかも初めてやったのに遠慮もせえへんで…!」

 顔を真っ赤に染めて涙ぐんでいるセリーナの様子にバルドは正しく自分がやりすぎたのを理解した。モフモフは正義だが、女性の涙は正義すら覆すのだ。

 「私が悪うございました」
 「こ、今回は特別なんやからな?次はもっと優しくせんと許さんへんで?」
 「やった!苦節1年ついにモフモフ権ゲットォォォォォォ!」
 「う、うちが許可したときだけやからな?」
 
 「…………さっきから二人で何をしているか聞いてもよろしいか?」
 「「えっ?」」

 呆れた顔でちょっぴり頬を赤く染めている番頭のロロナがいるのに気づいてバルドとセリーナは羞恥に沸騰するように顔を湯だてて絶叫した。

 「「いやあああああああ!!」」



 「………まったくいい年齢……というわけではありませんが会頭は年上でしかも一国一城の主なのですから、もう少ししっかりしていただかないと………」
 「返す言葉もないわぁ」

 腹心の叱責に本気で肩を落とすセリーナであった。
 ロロナは父母が将来の幹部候補として育てていたサバラン商会の古参である。
 といってもまだ26歳の乙女で、結いあげた美しい黒髪にメリハリの効いた魅惑的な肢体の大人の女性である。言いよる男は数知れないのだが、いまだに浮いた噂一つない彼女にセリーナは他人事ながらもったいないと思わざるを得ない。

 「余計なお世話です」
 「うち何も言ってへんよ!?」

 決して無能ではないセリーナではあるが、まだまだロロナには頭が上がらない。事実上サバラン商会の実務はロロナの際立った事務処理能力に負うところが大きいのだった。

 「バルドぼっちゃま、何か面白いことをなさるようですが当商会といたしましても参入をお許しいただけるなら報酬は2割でよろしゅうございますが」
  「いいんですか?」
 「上客に仁義を欠くような真似はいたしません」

 まるでバルドの考えなどお見通しだ、と言わんばかりにロロナは微笑む。
 実際にお見通しなのだろう。よく考えればバルドは別にサバラン商会と取引しなければならない義務はない。普通に考えれば父コルネルウス伯爵の伝手でサバラン商会などよりよほど大きな商会をあっせんしてもらうことだって可能なはずなのだ。
 その貴重な金蔓を利に聡いセリーナやロロナが不義理を働くはずがなかった。
 きまり悪そうに頭を掻くと、バルドは脱帽してロロナに向かって頷いた。

 「そういうことならパートナーとしてこれからもよろしく」

 ニヤリと不敵に笑ったロロナは、いま思いついたとでも言うように「そうそう」と呟いた。

 「代わりと言ってはなんですが会頭の耳を弄ぶのは慎んでくださいませ。獣人族にとって耳を触らせるというのは身を任せてもよいと思った異性のみ。バルドぼっちゃまが公私ともに会頭をパートナーとしたいのならば別ですが」

 「うえっ?」
 「……………マジですか?」

 首まで真っ赤に染まって奇妙な悲鳴をあげるセリーナに、バルドは自分がどうやらとんでもない地雷を踏んでしまったらしいことを自覚した。

 「もっとも会頭はまんざらではないようですけれど」
 「も、もう!これ以上は怒るで!ロロナ!」
 「………さしでがましいことを申しました」

 なんというか完全にロロナの貫禄勝ちであった。
 バルドの前ではお姉さん然としたやり手のセリーナだが、子供のころから知っているロロナの前ではやはり分が悪いらしかった。

 「それじゃさっそく砂糖を王都で捌いてくれるかな?そのお金で……買えるだけ買ってきてほしいのがあるんだけど………」


 「バルド!いったいどこまでほっつき歩いていた!?」

 夕刻、屋敷へと戻ったバルドを出迎えたのは玄関に仁王立ちした父の怒号であった。
 見るからに煌びやかな衣装を身にまとい香水の香りを漂わせた父の様子にバルドは「あっ」と失念していたことを思い出した。

 「そう言えば…………今日は夜会でしたか………」
 「急いで着替えろ!全く……今夜はお前が主役なのだからな!」
 「すいません、急ぎます」

 母上が朝からあんまりいつも通りにしごくものだからすっかり忘れていた。
 ………もしあの訓練で傷を負ったらどうするつもりだったのだろうか……?それでも気にしなさそうだな、あの母上なら。

 「名誉の負傷だ。いいからとっととパーティーに出ろ」

 とか言いそうだ。父上が胃を押さえる様子が目に浮かぶ。
 そんな母上に惚れてしまった父上の自業自得とはいえ憐憫の情を禁じえない。
 さて、せめてこれ以上父上の胃に負担をかけぬよう準備するとしよう。
 早足で私室に戻るとそこにはセイルーンが暗い笑みを浮かべて待ち構えていた。

 「……お早いお帰りですね、バルド坊っちゃま」
 「うっ…ごめんなさい………」

 これはまずい。
 氷の棒を背中に突っ込まれたような悪寒を感じてバルドは必死に頭を下げた。

 「お屋形様や奥方様に坊っちゃまの行方を聞かれて私がどれだけ恥をかいたかご存じですか?」
 
 恨みます、と言わんばかりのジト目で見つめられてバルドは平身低頭して謝罪するしかなかった。両親は決して暴虐な領主ではないが、ほかの領内であれば下手をすれば暇を出される可能性すらある話だ。
 バルドはセイルーンに甘えすぎていたことに気づく。
 やはりバルドにとってセイルーンはメイドではなく姉がわりであり、幼なじみでもある存在なのだ。
 彼女の存在がなければバルドが今こうして人格の同一性を保つことができたかどうかは疑わしい。
 素直に頭を下げバルドは心から謝罪した。

 「――――本当にごめん。これからはセイルーンにも話すよ」

 正直セイルーンに内緒で話を進めるのも限界であったところである。
 うまく説得して、彼女をこちらの仲間に引きこんでしまおうという判断もある。
 バルドから見てもセイルーンはメイドである以上に優秀な補佐役であった。

 「もう二度とこんなことをなさらないようにお願いしますね。それじゃ、早くお着替えを急いで」

 可愛い弟分から頭を下げられるとこれ以上セイルーンとしても怒る気分になれない。
 まったくバルド坊っちゃまには弱いわ、と苦笑しながらセイルーンはパーティー用に仕立てたバルドの礼服に着替えさせるため彼の手を引いていくのだった。
 まるで仲の良い姉弟のように。





 コルネリアス伯爵家の嫡男バルド・コルネリアスが公式の場に姿を現すのは今夜が初めてのこととなる。
 通常嫡男のお披露目は5歳程度のころに行われるため、ここまでその時期がずれ込んだ理由はバルドが病弱であるためというのがもっぱらの噂であった。
 好むと好まざるとにかかわらず、次代のコルネリアス家を担うものの力量がどれほどのものであるかということは近隣の貴族の間でも重大な関心事である。
 王都の宮廷貴族はともかく、軍部と辺境の貴族たちにとってコルネリアス家はそれほど軽視できる存在ではなかったのである。
 ハウレリア王国との西部国境の要こそがコルネリアス伯爵領であり、和平が結ばれたとはいえ関係が改善されたとは程遠い状況にある現状コルネリアス伯爵が国防に果す役割は大きいのだ。
 とはいえ一介の傭兵を正室に招き貴族の血を穢したと言われるコルネリアス伯爵家が貴族間で評判を落としていることもまた確かなことであった。
 そのため今日の夜会に招待したのはコルネリアス家の身代を考えれば非常に少ないものだった。

 「久しぶりだなイグニス」
 「変わりなさそうでなによりだ。マティス」

 がっちりと右手を握りあい二人の男は肩を抱き合った。
 貴族の嫌われ者イグニス・コルネリアスにとって数少ない親友と呼べる男、マティス・ブラッドフォードは先年の戦役におけるイグニスの戦友である。
 今は王国の北西部でブラッドフォード子爵家を継いでいるが戦役中は国軍の蒼炎騎士団に所属していた。
 コルネリアス家ほどではないが尚武の武門として知られており、その戦力は決して侮れるものではない。

 「テレサ嬢も大きくなったな」 
 「叔父様こそお変わりなく。ところでバルドはどこかな?久しぶりに会いたいのだけれど」
 「今ちょうど着替えていてね。もうすぐ来ると思うが」

 テレサとよばれた赤毛の似合う活発そうな美少女は莞爾と笑った。
 
 「今夜はさすがに我慢するけど明日こそはバルドから一本とって見せるから覚悟してくれ叔父様。僕もあれからだいぶ腕を上げたんだから!」

 これはいったいどういうことだ、という親友の無言の問いかけにマティスは諦めたように頭を振った。
 美しいその容姿に似合わず、この数年でテレサは貴族としてはいささか活発すぎる少女に育ってしまっていた。
 このままではイグニスの妻マゴットのような女戦士になると言い出しかねないので、マティスとしてはバルドにこの娘の高い鼻をこの際へし折ってもらい、出来れば恋の相手になってくれないものかと埒もないことを考えていたところであったのである。
 娘の嫁ぎ先としてコルネリアス家の嫡男であれば申し分ない相手であることもあるが。
 見目にはせっかく可愛らしい容姿をしているだけにマティスには残念ではならない。
 しかし父の期待には悪いがテレサにとって自分と同じ年齢であるバルドが母マゴットに激しい稽古をつけられているのを見たあの日から、バルドはいつか追い越すべき目標なのだった。
 どうしてそんなに固く思うのか自分でもわからないがバルドには絶対に負けたくないと感じる自分がいるのである。
 
 「イグニス卿にマティス卿も息災で何よりでございますな。ご嫡男も立派に成長されたようで老体もうれしく思いますぞ」

 「こ、これはラミリーズ将軍!ようこそお越しくださいました!」

 慌ててイグニスとマティスは丁重に腰を負った。
 爵位こそ持たぬがラミリーズ将軍こそは現在の王国軍でもならぶもののない武勲をもつ重鎮であるからである。
 マティスにとってはかつての直属の上司でもあった。
 60才を超えながらがっしりと広い肩と厚い胸板はいささかも衰えていないように見える。
 髪こそ白く艶を失っていたが、鋭い眼光と赤銅色に焼けた肌はいまだ彼が現役の武人であることを明確に告げていた。

 「マティス卿が当主を継がれたのは蒼炎騎士団にとっては残念なことでありました。できれば騎士団長としてあと数年ほど勤めていただきたかった」
 「非才の身にあまる光栄です」

 本当に心から恐縮してマティスは身を折る。
 平民であるからへりくだった話かたをしているがラミリーズが本気を出せば今の年齢差があってもマティスは勝てる自信がないのである。
 戦場の鬼神と言われたラミリーズの戦いぶりを知るイグニスもマティスと同様到底頭を高くしてなどいられなかった。

 「おおっじい様、まだくたばっていなかったか」
 「はっはっはっ、銀光殿ももう少し奥方らしくなったかと楽しみにしてきたのだがな」
 「これでもいつもはおとなしくしてるさ。だが今さら体裁を繕う仲でもあるまい」
 「………正直今でも信じられんよ。お転婆がイグニス卿の奥方をしているということが」
 「それは私もそう思うぞ」

 マゴットはからからと笑って硬直した夫の背中にきつい張り手を食らわせた。

 「何をぼやっとしている。早くじい様を案内しないか」
 「あ、ああ………」

 傭兵であったころからマゴットとラミリーズの間には何かの関係があったことはイグニスも知っている。親族の反対に会いなかなか結婚出来ずにいるイグニスとマゴットの結婚を国王が認めてくれたのにはラミリーズの助力があったのではないかとイグニスは睨んでいた。
 爵位を受け取らず平民のままのラミリーズにそんな政治力があるというのは不思議な話なのだが軍を率いらせたらラミリーズの手腕に匹敵する人間は国内に一人もいない。
 この宝石より貴重な老人の頼みであればあるいは国王も黙って聞くほかないかもしれなかった。
 
 「ところでじい様、後で息子の腕を見てやってくれないか。あれはそう遠くないうちに私を越えていく戦士になるだろうからな」
 「………お転婆でなければ親馬鹿もいい加減にしろと思うところだぞ」

 そういいつつもラミリーズの瞳の色は剣呑である。
 ラミリーズの知るかぎり個人レベルの戦力でマゴットに匹敵するのはイグニスやマティスなど数えるほどしかいない。
 しかも戦場での戦勘となればマゴットはラミリーズの知る最強の戦士であった。
 そのマゴットの才能を超える者がいるとすればそれは決して放置できるような話ではなかった。
 
 「槍はともかく私は魔法と剣は我流だからね。じい様の意見が聞きたかったのさ」
 「それはこちらからお願いしたいくらいだ」

 イグニスの跡継ぎの才能は王国にとっても大きな利害がある。
 実のところハウレリア王国はマウリシア王国への侵攻を諦めていない。
 そのハウレリアの圧力をまともに受けているコルネリアス家は森林地帯という防御効果の高い領地を有しているとはいえ明らかにその戦力より過剰の脅威にさらされ続けてきた。
 万が一無能な領主が有効な対策をとることができなければたちまちコルネリアス領はハウレリアによって蹂躙されてしまうはずであった。
 実のところ国王自身からラミリーズはバルドの人となりをよく見てくるように内密に命じられている。場合によっては今すぐどうこういうことはないだろうが、下手をすれば国王自身がコルネリアス家の家督継承に介入することすらありえた。
 バルドが跡継ぎに相応しい能力を持っているというのであれば何も問題はない。
 しかしその才能が両親をすら超えるというのであればまた別な選択肢があるかもしれなかった。
 老練なラミリーズを驚かせたことにマゴットは満足したようで、ドレスを翻して夫のもとへ行った。



 廊下から青いドレスに身を包んだセイルーンがまるで招待客の令嬢のようにしずしずと現れるのを見て、イグニスはバルドが準備を終えたことを知った。

 「どうやら準備が整った様子。それでは皆様広間にて杯をお取りあれ」




 バルドは気恥ずかしげに白いタキシードのような正装に身を包んだ自分を眺めた。
 セイルーンはその出来に満足しているようだが、どうにも装飾過多のような気がしてならない。
 岡左内も婆沙羅な装束を好んだ面があるが、それはあくまでも戦場のことであり戦場を離れればむしろ質素な格好が常であった。
 また岡雅晴の前世から考えればほとんどコスプレをしているような感覚である。
 庶民のごく当り前な高校生であった雅晴の正装と言えば学生服と相場が決まっていた。


 「…………仕方ない。これも貴族の義務だ」

 バルドは大きくため息をつくと、出席の来賓が見守るステージへ覚悟を決めて歩き出した。

 「本日は当家のために足をお運びいただき大変にありがたく思います。ささやかながらこうしてパーティーを催しましたのは、嫡男バルドをご紹介申し上げるためであります。どうかよろしくお付き合いを賜りたい」

 当主イグニスの合図を待ってバルドはバルコニー状になった二階席の舞台に進み出た。

 「………コルネリアス家が一子バルド・コルネリアスと申す者。非才の身なれど武門の名を辱めぬよう一朝ことあらば身命を賭して王国の盾として父とともに領民を守る所存。ご列席の皆様には決して不甲斐なき戦いぶりは見せぬことをお誓い申し上げる」

 ふと気付くと、ポカンと父が間抜けに口を半開きに開けてこちらを見ている。
 しまった。緊張しすぎて左内の口調が表に出てしまったか。
 母マゴットがあからさまに指をさしてこちらを見て笑っているが、母よ息子にその仕打ちはないのではあるまいか?

 「ふん、バルドのくせに生意気っぽい」
 「見習えとは言わんがあれが貴族の正しい姿だぞ、テレサ」
 「僕だって今ならあのくらい出来るのに……」

 テレサのお披露目は彼女が6歳のときだった。
 どうやら思っていた以上に幼なじみが立派に思えてしまったのを認めたくないらしい。
 ぷっくりと頬を膨らませて拗ねているその表情を見て、可愛らしいと埒もないことを思うとともに、マティスは子供の教育において親友に完敗したらしいことを自覚した。
 病弱と思われ、もしかしたら先天的な障害でも持って生まれたのではないかと噂されていたバルドの素晴らしい口上に広間は驚きのどよめきで満たされていた。
 だが参集した貴族たちのほぼすべては、バルドの口上が台本通りであることを疑ってはいなかった。
 いかに責任と自覚を求められる貴族とはいえ、あの口上は9歳の少年が口にすべきものではないように思われたのである。
  
 「なかなかに堂に入っておりましたな」
 「将来が期待できそうですこと」
 「コルネリアス家もこれで一安心でありましょう」

 幸い概ね客人たちの評価は好意的なようであった。
 しかしマティスともう一人の老人はバルドの言葉が決してイグニスの入れ知恵などでないことに気づいている。
 特にラミリーズはバルドがほんの一瞬垣間見せたある種の気に戦慄すら感じていた。
 長年を戦場で生き抜いてきたラミリーズだからこそ気づいたその事実に思わずラミリーズはマゴットを睨みつけていた。
 あの幼い少年に経験させるには早すぎる試練であると思ったためだった。
 すなわち、バルド・コルネリアス少年はすでに殺人を経験している!
 いかに表面上は少年らしくとも、態度に何も変化がなくとも、人が人を殺すときその内面は変化せざるをえない。人とはそういう生き物だ。
 決して愉悦のために殺人を犯す少年には見えないが、少なくともバルド少年の心には生涯消えることのない疵が深く刻まれたはずだった。
 武に生きる以上人を殺すということはどこかで経験しなくてはならない試練であり、人を殺せぬ人間はどんなに優秀な人間であっても武人になってはいけない。ゆえに貴族の一部では死刑の執行を行わせるという習慣があった。
 それにしても11歳の少年にやらせるなどという暴挙は聞いたことがなかった。

 「誓っていうが私はやらせちゃいないよ。あの子がいつ童貞を卒業したかは私も知らないんだ。どうも2年ほど前らしいんだが」

 ラミリーズの視線に気づいたマゴットは肩をすくめて悪戯っぽく笑った。
 2年前というとまだバルドのなかで岡左内と岡雅晴の記憶が混在していた時期である。その間に、おそらくは岡左内の人格が表に出ている状況で命のやり取りに発展する何かがあった、そうマゴットは想像している。
 実際セリーナを助けたときがそれにあたるのだからマゴットの想像は完全に正しかった。

 「仮にも母親なのだから息子がどんな理由で童貞を卒業したかくらいは気にかけておくべきであろうに」

 昔から変わらぬ規格外なマゴットの発言にラミリーズは深々とため息をついた。
 どこの世界に息子が殺人を犯して放置プレイの母親がいるだろう。

 「まあちょいとわけありでね。これでも息子の剣が曇ったかどうかはわかるつもりさ」

 微塵も悪びれずにマゴットは不敵に笑った。
 ままごと遊びならばともかくマゴットの修行は嘘や余裕の入るほど甘いものではない。
 息子が剣をふるったの理由が息子の正義に恥じないものであったこと、そしてその力に溺れず闇に囚われていないことをマゴットはすぐに確信していた。

 「………まったく、年寄りには毒な親子だわい………」

 同時に惜しいことだ、とラミリーズは思う。
 コルネリアス家の嫡男に生まれた以上バルドは辺境の一領主に甘んじざるを得ない。
 西部国境では比較的大領のコルネリアス家だが、王国の序列から言えば40位ほどの上流貴族内の中堅であり政治的影響力ではむしろ下位に属するだろう。
 バルドが次男であれば即日でも連れ帰って騎士団で英才教育を施すところだ。

 挨拶が終わったバルドのもとに群がるように小領主たちが押し寄せていく。
 噂と違い将来の期待できる少年であることが明らかとなったバルドは彼らにとって是非縁を結びたい存在であるからだった。

 「是非我が家にお越しください。当家では惣領様と同い年の娘がおりまして……」
 「我が家出入りの商人から貴重な槍を購入いたしましたので是非ご覧をいただきたく…」
 「今度自慢の庭園を見に来られてはいかがでしょうか?」

 序列40位とはいえ、そこは大貴族内でのこと。小貴族にとってコルネリアス家は十分すぎるほど魅力的な大家である。しかも傭兵のマゴットを正妻に据える貴族としては破格な家でもある。大貴族的には外聞が悪いが小貴族にとっては娘を正妻に娶ってもらえるかもしれない優良物件なのだ。

 「すまんがそこをどいてくれないか?」
 「ええい!今はそれどころでは……こ、これはブラッドフォード家のお嬢様……」
 「久しぶりの親友との会話だ。ここは譲ってもらえるかい?」
 「は、はい………」

 子爵家の令嬢の真っ向から反対するわけにもいかず、バルドに群がっていた貴族たちはしぶしぶその場をテレサに明け渡したのだった。

 「ふう、これで一息つけるな。ありがとうテレサ」
 「ちょっと会わない間にまたえらそうになったじゃないか、バルド」
 「えらそうって………そんな心算はないんだがな…」

 言葉自体は皮肉気だが、楽しそうに二人は顔を見合せて笑った。
 テレサとバルドが初めて会ったのはバルドがまだ三重人格に悩まされていた6歳のころに遡る。
 バルドの1歳年長にあたるテレサはその日父マティスに連れられて先の戦役の英雄、王国最強の番などと噂されるイグニスとマゴットに会うのを楽しみにしていた。
 コルネリアス家には年下の少年がいると聞かされていたが少々気難しい人物なので出来れば仲良くしてやって欲しいと言われていても正直テレサは失望しか感じなかった。
 英雄の子供が人格障害と言われては幻想に水を差すのも甚だしいではないか。
 しかしその不満もマゴットとバルドの訓練を見るまでのことだった。

 「どうした?休んでいれば死ぬぞ?」
 『……まったくなんちゅうおかんや』

 矢継ぎ早に繰り出されるマゴットの槍を少年は謎の言葉とともに紙一重で避わしていく。
 どれも一瞬でも判断を誤れば即死に繋がりかねない神速の連撃、銀光マゴットの名は決して誇張などではなかった。テレサの見るかぎりその速度は父マティスのそれを上回っているように思われたのである。それではそれを避わし続けるこの少年は何者なのだろうか?

 「そうだ!槍を相手に引くのは自殺行為だ!避ける道は前だけにあると知れ!」
 『おいおい、無理ゲーすぎんだろ!チートよこせや!』
 
 まだ魔法もつかえないであろうに小さな身体ひとつでじわじわと間合いを詰めていく少年に容赦なく槍先がふりかかる。
 ようやく懐に飛び込めそうな間合いに近づいたかと思うと、これまで縦の動きしかなかった槍がまるで小枝のように横に薙がれて少年の身体を吹き飛ばした。

 「よし、今日はここまで!」

 満足そうに微笑むマゴットに少年はぶるぶると痙攣しながら親指を立てて見せた。

 たまたまそんな光景を目撃したテレサは男勝りと言われ、弟より武の才能があるとちやほやされて高くなった鼻をへし折られた気分だった。
 同時にバルドという少年に興味を抱いた。
 テレサにとって武芸に長けた同年代の友人を持つ機会は初めてだったのである。

 ――――――面白い。彼に出来て僕に出来ないという法はなかろう。

 以来テレサはバルドにとって唯一といって良い同じ貴族同士の友人となった。
 もっともマティスの期待に反してあくまでも友人の範疇を超えはしなかったが。
 というのも――――――。


 「やあセイルーン。しばらく会わない間にまた綺麗になったね。まだ僕のところに来てくれる決心はつかないのかい?」
 「お言葉はかたじけなくいただきますが私はずっとバルド坊っちゃまの侍女ですので」
 「つれないな………ならせめて今夜は僕とひと時の逢瀬を楽しもうじゃないか」 
 「お戯れを―――――」

 優雅な仕草でセイルーンは頭を下げると、そそくさとバルドの影に隠れた。
 盾にされた格好のバルドではあるが、こればっかりはセイルーンの味方をしないわけにはいかない。

 「僕の可愛い姉を盗らないでくれるかな?」
 「可愛っ………」

 茶金色の髪に顔を隠すようにしてセイルーンは赤く染まった顔を俯かせた。
 そんなセイルーンの様子をテレサは大仰に両手を広げて賞賛した。

 「照れた顔もまるで女神も恥じらう美しさだ。バルドなんかにはもったいない!」

 要するにこのテレサ、同性愛気質の非常に強い女性であった。
 セイルーンを欲望の赴くままに抱き寄せようと、ずいと進み出るテレサをセイルーンはバルドを盾にして必死で避ける。
 バルドを挟んでひどく間抜けな攻防が展開されていた。

 「ふふふ………そんなつれないところもとても魅力的さ」
 「ふぇぇ…バルド坊ちゃま!助けてくださいぃ!」




 「……まだ治っていなかったのか?マティス」
 「なんとかお前の息子に引きとってもらえんかなぁ」
 「さすがに今のままは問題があると思うぞ」

 怪しい趣味を持った貴族がいないわけではないが、傭兵を娶ったコルネリアス家同様同性愛者が世間で揶揄されているのも事実であり、それ以上にテレサがバルドに性的魅力を感じていないのならば結婚は躊躇するのが親心というものであろう。


 「…………まったく、立派に育ったバルド君がうらやましいよ」

 果して無事育ったと言えるかどうか。
 バルドの隠された本性をイグニスとマティスが知るまでにはまだしばらくの時間が必要であった。

 翌朝、普段通りの母との訓練に駆り出されたバルドの隣には、意気揚々と訓練着を身に付けたテレサと青いシャツに小手をつけただけなのに圧倒的な威風と暴虐な武の気配をまき散らすラミリーズの姿があった。
 してやったりと悪戯に成功したような表情を浮かべている母の顔が目にまぶしい。
 がっくりと肩を落としてバルドは呟いた。

 「………ていうかなぜに将軍………」

 見るからに殺る気満々なんですけど。あれ?字間違ってね?

 「ああ、ラミリーズ将軍はちょいとわけありの元上司でね。仮にも王都の将軍に胸を貸してもらえるんだ。わかってると思うがあまり無様を晒したらちょいと明日からの訓練がハードになるよ?」
 「全力を尽くします!お母様!」

 うん、これ以上ハードにされたら死亡する未来しか見えないしな。
 毎日が生き延びるのにギリギリって本当おれ、貴族のお坊っちゃんなのかしら。

 「その前に僕と勝負だ!バルド!」

 勝気に瞳を輝かせてテレサが修練場に進み出た。仕立てのよさそうな赤い訓練着がテレサの赤毛と相まってよく似合っていた。この性格さえなければ引く手あまたの美少女なのになあ、とバルドはこの古い友人のために残念に思わずにはいられなかった。

 「得物はその剣でいいのかい?」
 「師匠に言わせると槍より剣の方が向いているらしいよ」
 「う~ん、それじゃ僕も剣でお相手しようか…」
 「…むっ、バルドのくせに生意気……」

 戦場において槍のほうが主戦武器となるのは致し方ないが、最前線に立つ貴族は少数でありむしろ貴族のたしなみは剣にあるとされていた。
 当然バルドも母マゴットが槍の達人とはいえ剣の心得がある。手加減されているようで不満はあったがテレサもそれ以上文句をつけようとはしなかった。

 「用意はいいかい?二人とも。よし!はじめ!」

 マゴットの言葉を合図にテレサが先手必勝とばかりに打ちかかる。
 すり足ながらも突進力のある踏み込み、そして女性の膂力の弱さを補うようにうまく体重を乗せた袈裟がけ。なるほど師匠が剣の才があるというのは伊達ではないらしい。
 しかしマゴットの地獄の特訓を生き延びたうえに、武人岡左内の記憶を持つバルドには余裕をもって対処できる程度である。
 上体を傾けるだけでテレサの斬撃を避けたバルドは右足を軸に半回転してテレサの首筋に木刀を触れさせた。

 「それまで!」

 マゴットの腕が上がる。
 悔しそうにテレサは唇を噛むが、それでも礼を交わす程度には冷静さを失ってはいなかった。
 「………次は勝つ」
 「いや、すごく腕前あがってたよ、本当」

 なかなかに筋の良い太刀筋だった。よほど良い師匠にめぐりあえたと見える。
 本来は深窓の令嬢であるテレサにバルドのような死と隣り合わせの修行は不可能なのだから、それを考えれば十分すぎるほどにテレサの戦闘力は高いものだった。

 「…………生意気」

 口をとがらせてテレサはそっぽを向いた。
 間違いなくバルドは手加減をしていた、かつてはそれがわからないほどに腕の差が開いていたのだと理解したからだ。
 実力の差がわかる程テレサの実力も向上していたというところだろうか。
 それでも素直にそれを認めたくないのはテレサが精神的に不安定だった幼い日のバルドを知り姉代わりを自認しているからなのかもしれなかった。


 「……………どうだい?」
 「正直この目で見なければ鼻で笑ったであろうよ」

 ラミリーズとマゴットはテレサ以上に実力の差を把握していた。
 テレサの斬撃が魔法による身体向上の恩恵を受けていたのに対し、バルドは完全に素の体力だけでテレサに完勝した。
 はたして騎士団の中にもどれだけ同じことが出来る者がいることか、そう思えるほどにテレサの剣は確かに鋭かった。
 女でなければ騎士団に迎えたいと思うほどだ。

 「…………槍ではマゴット殿には及ばぬゆえ剣でお相手いただこうかな?バルド殿」
 「お手柔らかに………」

 にこやかに笑う母の目がまったく笑っていないことにバルドは背中を冷や汗で濡らしながら剣を構えた。

 (まったく…………洒落にならん………)

 剣を向けられただけで肌を突き刺すような剣気が膨れ上がる。
 すでに60才の老境に達したラミリーズだが鋼のように鍛えこまれた筋肉は衰えを知らぬかのようだった。やや短躯でありながら丸太のように万べんなく鍛えられた肉体と戦場勘はいまだラミリーズを第一級の戦士にとどめていた。

 「ふん!」

 なんの予備動作もなく点のように見えていたラミリーズの剣が距離感を掴ませぬままにバルドの顔面に迫る。
 ほとんど勘だけでバルドはこの一撃を回避した。

 (ほう、これも魔法なしに避わすか)

 剣にも槍にも、対人戦で間合いを掴ませないための様々な技術がある。だが間合いというものは単純な技術であるだけではなく、心の読み合いを含んだ様々な経験の量が絶対に必要となる。
 そもそも勘とは思考ではなく無意識にまですりこまれた反射によって経験の引き出しを引き出すものであるのである。この年齢でそれが出来るということにラミリーズは驚き以上に同情にも似た想いをバルドに対して抱かずにはいられなかった。

 (………こんな小さい息子になんと銀光の容赦ないことよ)

 まだ11歳にしかならないバルドに無意識にすりこまれるほどの対人戦の経験があるのは武人であるラミリーズにしても行きすぎであるように思われたのである。
 だが、実際はその経験は膨大な岡左内の経験が含まれているためにだいぶ割り引いて考えなければならないのだが。

 「これは本気を出してもよいかの?」
 「勘弁してください、割とマジで」
 「なに、年寄りの本気など些細なものよ」

 そう言いながらもラミリーズは魔法を使わずにバルドに向かって打ちかかった。
 目にもとまらぬ速さで上下左右と容赦のない斬撃がバルドを襲うが、圧倒的に膂力に劣るはずのバルドはその斬撃のすべてを避わし、受け流すことで小さな身体を守り切った。
 だが懐にもぐりこまれてもラミリーズの斬撃は収まらない。短躯のラミリーズにとって至近距離は決して苦手な間合いではない。

 (くそっ!しくじった!)

 体格が全く違う以上接近戦にしか勝機を見いだせないバルドにとってラミリーズが接近戦を苦にしないのは予想外であった。さすがに将軍が接近戦を苦手にするとは思えないが多少なりとも手数が減るだろうと予想していたのである。
 この時点ですでにバルドは回避をほぼ勘に任せている。まともに思考して対応していたのでは間に合わないからだ。そして残った思考のすべてを打開策を練ることに費やしていた。

 (将軍は魔法の身体強化を使っていない。おそらく僕が使っても使わないだろう。とはいえ危なくなれば躊躇なく使う。魔力にも差がある以上それをやられたら最後だ)

 つまりラミリーズが油断しているうちに奇襲で一撃いれる。それ以外に地獄の訓練を逃れる術はなかった。

 「すごい………バルドがこんなに強くなっていたなんて……」

 自分であれば一合で弾き飛ばされそうな斬撃を凌ぎ続けるバルドは明らかに自分とは違うステージに立っている。その事実を不本意ながらテレサも認めないわけにはいかなかった。

 「うちの息子は年季が違うからねえ……テレサ嬢ちゃんには悪いけどそう簡単に追いつかれちゃ私の立場がないさね」

 テレサの才能はマゴットも認めるところだが、令嬢に多少腕のよい師匠がついたくらいで追い抜かれるほどマゴットの鍛えは安いものではない。あのバルドだから耐えているが普通であれば大の大人でも十人中九人は壊れているはずのものだ。
 幼くしてバルドをライバルと見定めたらしいテレサには悪いがこの先も追いつかせる心算はない。

 「いえ、むしろ倒し甲斐があるというものですよ」

 セイルーンを除けばおそらく自分しか知らないバルドの真実をテレサは知っている。
 非常識な強さを持ちながら、バルドは不思議なほどに他者との接触に怯える気弱な少年であったことを。それは今ではまったく見せることのなくなった人格の不安定であったころの世界そのものに怯えていた前世の記憶に振りまわされる幼いバルドの姿であった。
 いささか問題のある嗜好をもつテレサにして抱いた感情はもしかしたら保護欲であったかもしれないが、それは今となっては誰にも、テレサにすら分らぬ話である。

 「ちっ!」

 次第にさばききれなくなった木刀がバルドの肌に赤い擦過傷を作り始めた。
 一瞬の隙も許されない剣撃の応酬はバルドのスタミナをあっという間に奪い去ってしまっていた。

 (機会を待つことも許されんか)

 このままではジリ貧になる。
 そう覚悟を決めてバルドは身体に魔法を巡らした。
 ―――――身体強化。もっとも基本にしてもっとも汎用性の高い強力な魔法である。
 母マゴットはこの身体強化で速度に特化した高速戦闘により銀光の二つ名を名づけられるにいたった。

 (………ふむ、まずは見事な気の巡らし方だがさて…銀光の腕をどこまで受け継いでいるものか……)

 決して油断していたわけではないが、ラミリーズにはまだバルドの武を量ろうとするだけの余裕がある。そしていつでも身体強化を発動するだけの準備は出来ていた。
 わずか9歳にしてラミリーズの血を滾らせるバルドの武はさすがというほかないが、それでもなおラミリーズに身体強化を使わせるには届かぬであろう。
 もしもラミリーズに身体強化を使わせたなら、この勝負はバルドの勝ちだとラミリーズは考えていた。
 しかしバルドが銀光マゴットの速度に多少でも迫ることが出来るのならばさすがのラミリーズでも身体強化なしに凌ぐことは難しい。

 (どう足掻いて見せるかね、我が息子は)

 バルドは自慢の息子ではあるがバルドは決して銀光の後継者ではない。
 あれはバルド流としか名づけようのないものだ。
 ラミリーズがそのあたりを勘違いしていれば面白いことになるだろう。
 楽しそうにマゴットは疲労に滝のような汗をにじませたバルドの、まさに牙を剥かんとする男の顔に目を細めていた。


 「せりゃああああああああ!」

 バルドは怒号した。
 これから攻撃すると言わんばかりの絶叫だが、命のやりとりで相手に気をのまれないためには有益な手段である。何より岡左内の記憶がその効果を何よりも雄弁に物語っていた。
 受けとめるラミリーズもバルドの裂ぱくの気合いには驚愕を通り越して畏れすら抱いていた。間違いなく戦場を知るものの叫びである。
 自らの死は論ずるに足らず、ただ敵を屠る決意によって敵に気を飲むことを知る死人と化した戦士のみが発することのできる咆哮だった。
 技術がどうあれ、この叫びを発することのできる兵士が手強くあなどれないことをラミリーズは経験的に承知していた。
 ただでさえ小さいバルドの身体が地を這うように低く沈みこみ、さらに沈む力を利用した最速の斬撃が放たれる。
 しかしいくら優れた斬撃でもそれは歴戦の将ラミリーズに見せるにはあまりに素直すぎた。
 
 (なかなかよい一撃だが……いや、これほどの一撃を11歳で習得しただけでも十分に恐ろしいことか?)

 配下のなかにこれほどの攻撃が出来る騎士がどれほどいることか。
 だがやはり内心ではマゴットをして自分を超える才能の持ち主と言わせるバルドの実力を過大評価していたのだろうとラミリーズは感じた。
 そして低空を侵入するバルドの剣を肘をたたんで造作もなく打ち返す。

 「何っ?」

 利き足であり右足がにわかに大地に吸い込まれるのを感じてラミリーズともあろうものが不覚にも慌てた。

 (しまった!土魔法か!)

 身体強化と見せかけてバルドは斬撃と同時に土魔法を発動させていたのだ。
 これが火炎や水弾のような魔法であればラミリーズのような魔法剣士であれば解除は容易い。だからバルドは解除のできない大地に、剣を媒介とした崩落を即時発動させたのだろう。 
 ラミリーズの右足元だけを柔らかな砂に変換するだけなら無詠唱での発動が可能だ。
 咄嗟に左足でバランスをとろうとするが、すでに左足には剣を打ち払われたバルドがその力を利用して半回転しつつ小さな腕を伸ばしていた。
 そして巻きこむように左足のひざ裏を絡め体重を乗せる。
 組打術膝搦め――――戦国時代白兵戦において相手を組み伏せ、その首をとるために発達した徹底した実戦主義の無刀闘術である。
 現代戦と違い乱戦になりやすく、また手柄とするには相手の首をとらなければならなかった戦国時代を生き抜いてきた岡左内は当然のことその術の練達であった。
 ラミリーズが本気で身体強化をすればこらえきれないことはなかったかもしれないが、ラミリーズはこの期に及んで身体強化をするのは恥であると感じた。
 ぐらりとラミリーズの腰が揺れ、ズシンという大きな音とともに老将は仰向けに大地に倒れ伏したのだった。
 


 「参った!参った!まさかこれほどとはな!」
 「いや、将軍に身体強化さえ使わせることが出来ませんでした。まだまだ未熟です」

 かろうじて奇襲は成功したが二度と通じることはないだろう。
 あの最後の斬撃の瞬間、将軍がこちらを侮ってくれなければまずバルドの攻撃は通じなかったはずだ。
 もっともその事実を完全に把握していることはラミリーズのバルドに対する評価を高めこそすれ低くすることなどありえなかった。

 「崩落をあのように使うとは、こちらのほうこそ修行が足りん」


 魔法を戦闘に取り入れておきながら先入観に囚われていたことをラミリーズは恥じる。
 魔法は確かに便利ではあるが、魔法士が火球や氷槍で戦場の華であった時代は遠い過去の話であった。
 その原因はまず魔法というものが世界の理をゆがめるものであり、操者から離れると同時に著しく減衰するためである。
 操者の手を離れた魔力は距離に比例して減衰するため戦場で攻撃手段となりうる魔法士は相当に強い魔力を保有していなくてはならない。当然そんな魔法士の数はひどく限られてしまうことになる。
 もうひとつ、魔法の効力を解除する解除魔法キャンセラーが普及したためだ。
 本来世界の理を歪めている魔法を解除する術式であるためコストパフォーマンスがよく、1の魔力で3~5の魔法を解除すると言われている。
 また初歩の術式であるため魔力をあまり保有していない一般兵士も容易に使うことができこれにより急速に攻撃魔法はすたれてしまったのである。
 これに代わって台頭したのが身体強化を筆頭とする体内強化魔法である。
 人間はある程度魔力を生まれ持っており体内を循環する魔力は外からの魔力的干渉から身体を保護する機能を持っているため、体内には解除魔法が浸透しにくいという特徴があったことでこの魔法は爆発的に普及した。
 王国騎士団においても身体強化の魔法の習得は必須であり、限られた魔法をいかに早く、そしてどの部分を強化するかということに努力の大半が費やされることになる。
 銀光マゴットの名で戦場の華になったマゴットは反射神経とその筋肉への伝達を効率的に強化することにかけては天才だった。
 しかしこうした神経系統まで強化するためには本人の稀少なセンスが絶対に必要だった。
 下手に伝達系を強化して処理しきれずに身体不随になった例も決して少なくはないのである。
 そのため一般兵士は膂力やスタミナの強化に終わることがほとんどであった。
 今や放出型の魔法は宮廷魔法士のような突出した才能を持つものと、単純な便利さから生活魔法として細々と使われるのみであるというのが現状だった。

 だがバルドの使用した魔法はこうした放出型の魔法の復権を促すものだ。
 攻撃力が弱いというだけで省みられなかった魔法だが、むしろその可能性は無限大であると言っていいかもしれない。
 もっともそれをものにするためにはバルドのように優れたセンスが必要となるだろうが。
 ―――残念だが軍で一般化するためにはまずは研究から始めなくてはなるまい。
 
 「命拾いしたね、バルド」
 「ありがたく存じます!母上!」

 た、助かった…………。
 バルドは両手をついて座り込みたい脱力をかろうじて耐えた。
 どうやら明日以降もお日様を拝める生活は確保されたようだった。

 半眼でバルドを脅迫しているようにしか見えないマゴットだが、実はバルドの成長に目を細めているのである。不幸にもマゴットをよく知るラミリーズでさえまさかマゴットがそんなことを考えているとは思わなかったのはマゴットの日ごろの行いのせいなのだろうか。
 
 「だがまだ甘いよ。膝の裏をとったのは褒めてやってもいいがせっかくそこまで行ったなら金的を狙わなきゃね」

 …………日ごろの行いのせいだろう、間違いなく。

 それにしても、とラミリーズは思う。
 最初はマゴットの息子だから仕様がないと納得していた部分があったがそれでは説明がつかない部分が多すぎる。
 圧倒的に優勢なラミリーズに向かってきたあのバルドの裂ぱくの気合いは戦場を知るもののそれだ。夜会でバルドが殺人経験があることを察しただけでも十分に驚愕すべき話であったが、バルドが戦場経験があるなど考えられることではない。
 いや、マゴットが国境の小競り合いに身分を隠して息子ともども参加したという可能性も全く否定できないわけではないが………さすがにそこまで彼女が非常識ではないことを信じたい。
 そしてあの魔法に関する技量……明らかにマゴットが習得している加速とは異なる技法である。もしもあれを独自に考え出したのならバルドの才能は確かにマゴットをしのぐものと言わねばなるまい。
 不安定ながら平和である今はよいかもしれないが、もしも再び戦乱が王国を襲うなら、バルドという少年は伯爵家にとどまらず王国の軍事を左右する存在になるかもしれない。
 ラミリーズは嘆息とともにバルドの将来に思いをめぐらさずにはいられなかった。
 同時にこの少年を日々鍛えることもできるマゴットをうらやましくも思う。
 武人にとって雄敵とめぐりあうことと同じくらい、才能ある弟子を育てることは甘美な愉悦であるからだった。










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