軽 功


エピソード

中国武術でいう気功には、身体を鋼のように硬くする「硬功」、身体を柔らかくする「軟功」、身体を空気のように軽くする「軽功」などを挙げることができます。この中でも武侠小説やカンフー映画のワイヤーアクションでお馴染みの「軽功」は習得が難しいといわれていますが、体を軽くして空中に浮くような技なんてあるわけないと考えるのが普通ですよね。とことが、2002年、中国山東省の青島に滞在中の時、ふと目にした新聞(半島都市報)に驚くべき内容の記事が載っていました。
その内容は、河北省で100歳を超えるおじいさんが軽功を習得したというものでした。記事によると、軽功の修行のため数十年間山にこもって修行したところ、竹の木の天辺に立ったり、枝から他の竹の枝へ猿のように自由に飛び移ることができるようになったとのこと。そんなばかげた話があるだろうかと妻に話すと、妻の実家の村に軽功ができる人が実際にいたというではないですか。
また、こんな話も残っています。日本の植民地時代に日本軍に囲まれてどうすることも出来なくなったある達人が、両脇に怪我をした二人を抱えながら日本軍の頭上を飛び越えてそのままピョンピョンとはねるようにどこかへ去っていった話が伝えられています。
普通こんな話を聞いたら信じるより先に、こんな話をする人に呆れてしまうのではないでしょうか。でも、有名な新聞にも出てるし、妻の実家の村で実際に軽功を見た人が何人もいるということを聞くと、調べたくなってくるものです。もし、実際に軽功が存在していて練習方法が明らかにされたなら、すごいことになりますよね。実際に見たことがないので信じるのは難しいですが、あって欲しいという願いと武術に対するロマンに馳せるのは僕だけでしょうか。

ということで、軽功の事実を探る手掛りとして、まずは妻の両親に実家の村について詳しく聞くことにしました。

乳山市西トンリン村

僕の妻の実家は山東省威海乳山市の西トンリン村にあるのですが、ここは妻の姓と同じ「姜」氏が多く住んでいるところです。話によると皇帝の警備を任されていた姫氏が皇帝の怒りを買う大きな失敗を犯し、一族すべて処刑する刑を言い渡されたため乳山へ逃れて住み着くようになったのですが、皇帝の追っ手に見付かるのを恐れ、「姫」の字の「女」偏を残し、姓を「姜」としたとのこと。これが「姜」氏の由来だそうです。そして、姫氏に伝わる武術はそのまま後世に受け継がれ、発達しました。
この村では武術ができないものは男と認められなかったため、ほとんどの男は武術をたしなみ、“西トンリン村的狗会三手”(西トンリン村の犬も多少の武術ができる)という言葉があるほど武術の盛んな村だったそうです。

義父によると、村には姜天佑と姜林典という有名な武術の達人がいて二人とも軽功ができたとのことです。文化大革命(1966年〜1976年)の時期の話ですが、姜天佑は多くの村人の前で村の中学校の校長を片手に抱えながら家の屋根から飛び降り、校長を抱えたままどこかへ去って行ったのですが、飛び降りる際に、飛ぶように空中を数歩歩いてからゆっくりと地面に降り立ったとのことです。この校長は性格が良く村人に好かれる人物でしたが、国民党の所属だったため文化大革命の際に共産党の迫害を受け、何も知らない姜天佑はそれを見兼ねて逃亡するのを助けたとのことでした。
一方、姜林典の方は1970年代に胃癌をわずらって胃の摘出手術を受けたのですが、退院した時に武術の実力が落ちたかどうかを試すため、家を背にした状態でジャンプして屋根に飛び乗った話が残っているそうです。

武術の練習はとても厳しく、農業をするのに武術は必要ないとの理由で武術の練習する若者が著しく減り、ついには誰にも武術を伝承しないまま姜天佑は70年代に亡くなってしまいました。姜天佑の死後、武術の伝統がなくなることを懸念した姜林典は、姜氏以外でも習いたい者には誰にでも教えると弟子を募りましたが、その努力は報われず90年始めに亡くなってしまい、今では武術を伝承するものがいなくなってしまったのことです。

また一つ伝統武術が無くなってしまったと残念がっていると、西トンリン村に燕という、ある達人の娘が今も実在するという情報が入りました。彼女は市場で野菜を売って生計を立てているのですが、野菜を売っている時にいちゃもんをつけてきた8人の男をあっという間にやっつけてしまったとのこと。言うまでもなく、それ以降だれも彼女にちょっかいを出すものはいなくなったそうです。彼女の父親は既に亡くなりましたが、村で有名な武術の達人で、彼女が小さい時に少しだけ武術を習ったことがあるそうです。ということは、どこか知らないところでこの村の伝統武術が伝承されている可能性が出てきますね。また西トンリン村に伝わる武術とは一体何なのかについても興味深深。

というわけで、機会を見て現地調査する予定でいます。

宮宝田

乳山市をもっと調べてみると、宮宝田という八卦掌の達人が青山村の出身であることが分かりました。彼は軽功の使い手としても有名でした。まずは宮宝田の紹介をしましょう。

宮宝田は1871年に貧しい家庭に生まれ、家計を助けるために13歳の時に北京のある米屋に勤めることになります。そこで八卦遊身連環掌の始祖、董海川の弟子である尹福(字秀朋)より武術を学ぶのですが、上達が早く熱心な姿に感服した尹福は、彼を自分の師である董海川に紹介します。董海川の下で八卦秘宗を習得した宮宝田は、後に八卦遊身連環掌の第二代目伝承者となります。

宮宝田はよほど強かったのでしょう。そのうわさが紫禁城まで届き、1897年に宮中警備の責任者に任命されます。そしてその働きが認められ、四品(一品から九品までの位があり、一品が最も位が高い)の位を授与されると、皇帝の絶大なる信頼を得ていた宮宝田は宮中での刀の携帯を許されます。当時の宮中では武器を身に付けることが禁止されていたため、宮宝田がいかに皇帝から信頼されていたのかがよく分かります。こうした実績が評価され、慈禧太后と光緒皇帝の身辺警備を任されるようになり、後に清朝最後の宮内武林総轄官となります。
1900年、八国聯軍が北京に侵入すると宮宝田は慈禧太后と光緒皇帝を西安へ撤退させ、1901年に北京に戻って来ます。光緒皇帝は宮宝田の肝の大きさと一見識を褒めたたえ、黄馬褂(最高の礼服)を与えますが、清朝の腐敗と無能さに失望した彼は官職を放棄して故郷へ帰ります。

宮宝田は故郷で17年を過ごしますが、世捨て人にでもなったのか、家に閉じこもることが多くあまり外へは出掛けなかったといいます。その性格は至って謙虚で柔和。決して人前で武術の腕前をひけらかすことはせず、村人の要望で青山村や海陽郭城(威海)の一帯で八卦掌の基本を教授していたそうです。しかし、運命の神様は宮宝田をこのままにはしておきまん。1922年に奉天軍閥の張作霖の強い願いで彼の護衛を任されることになり、再度故郷を離れることになります。

張作霖は宮宝田と初めて会うなり、彼がうわさの武術の達人なのか懐疑心を抱きました。なぜなら、背が低く痩せ型の体格だったからです。その心地を察した宮宝田は張作霖に試合を申し込みます。試合といっても拳銃vs素手の対決、宮宝田が不利なのは火を見るより明らかです。宮宝田が20歩退いたところで「撃ってください」と合図すると、100歩離れた線香の火を射る腕を持つ張作霖の右腕の拳銃から、宮宝田の肩をめがけて2発撃ち放たれます。どうしたことか、宮宝田に命中したはずなのに当たった形跡はなく、すがすがしい顔をしています。焦った張作霖がもう一発撃とうとすると、すでに宮宝田の姿がなくなり、「その気になれば大帥が振り向く前に命を頂戴することができますよ」と背後から宮宝田の声。宮宝田は一瞬にして張作霖の背後へ移動したのです。

張作霖は彼の実力を認め、東三省(黒龍江省、吉林省、遼寧省)の巡閲使と奉天軍聡教練を兼任させます。後に張作霖は、日本人による数々の陰謀から何度も宮宝田に命を救われることになります。

1928年春、張作霖の命令で彼の弟、張学良を護衛している際に、皇姑屯事件(張作霖爆殺事件、別名「奉天事件」)が発生します。張作霖が死亡したことで辞職し、宮宝田はまたもや帰郷することになります。
晩年は、牟平や烟台等で数十もの八卦拳の道場を開いて広く門下生を募り、たくさんの八卦拳の伝承者を輩出します。また、抗日戦争の際には東八路軍の武将を勤めた愛国者でもあり、門下生には武術の教授だけでなく精神鍛錬にも力を注ぎ、愛国心の重要性を説いたとされています。

彼の一番弟子である王壮飛は、建国後八卦拳の第三代宗師となり、最も愛したとされる劉雲樵(1909年2月12日 〜 1992年1月24日)は台北へ渡り、台湾正宗八卦拳大師となります。劉雲樵の弟子としては徐紀、蘇c彰、戴士哲、大柳勝が有名。
宮宝田は1943年6月27日、故郷の青山村で病死、享年73歳。

宮宝田の軽功(青山村)

その1

ある日、宮宝田と数人の老人が庭先でお茶を濁していると、一人の老人が言いました。
「宮宝田さん、あなたの武功はこの世の常識を超えていると聞いたが、少し私たちに見せてくれないか」
宮宝田は、まず大きな急須で皆の湯のみを満たしてから、左手に持った自分の湯のみにもお茶を満たし、「飲みましょう」とお茶を勧めました。
皆が同時にテーブルの湯のみを口に付けようとしましたが、お茶を飲むどころか口を開けたまま呆然としてしまいました。なぜなら、右手に急須、左手に湯のみを持った宮宝田がいつの間にか屋根の上に飛び乗っていたからです。
一人の老人が、こぼれるような声で「飲みましょう」と言うと、宮宝田は屋根から飛び降り、ゆっくりと元の自分の席に降りて腰を下ろしました。彼の左手を見ると、左手に持った湯のみいっぱいのお茶は零れることなくそのまま残っていたといいます。
これを目の当たりに見た老人たちは、皆いっせいに「神功、神功」と喝采しました。

その2

村の東の小川に高さ二丈はある一本のクヌギの木があり、木の天辺にはカササギが巣を作っていました。村の子供たちがカササギのたまごを取るために巣を棒で突いたり、石を投げたりしたもののうまく行かず困っていると、そこへ武術の達人、宮宝田が通りかかりました。
宮宝田の軽功は村で知らない者はいません。好奇心旺盛な子供たちは「宝田さん、カササギの巣を取るのを手伝って」とお願いしました。
宮宝田は「木から少し離れなさい」と言い、子供たちが木から離れたのを見ると鷂子翻身(一回転)しながら木の上に飛び上がりました。
子供たちが見上げると、そこには手の指ほどの太さの木の枝に立っている宮宝田の姿がありました。宮宝田は木の枝を歩いて巣のあるところまで辿り着き、巣を持ってそのまま子供たちの前に降り立ちました。そして、巣の中にたまごが無いのを子供たちに見せた後、また飛び上がって巣を元の位置に戻しました。するとその瞬間、ハチッという音がして枝が折れてしました。
子供たちは木から落ちる宮宝田を見るのが怖くて目を閉じました。しかし、地面に落ちる音が聞こえないので目を開けてみると、何もなかったように宮宝田じいさんが立っていたそうです。

その3

ある秋の日、宮宝田が近所の家に遊びに行くと、庭で若い娘と婦人たちがとうもろこしの種をむしっていました。彼女たちは宮宝田に気付くと何やらコソコソ話しを始め、その中の一人の夫人が宮宝田に話しかけました。
「田さん、あなたの軽功は鳥の羽よりも軽いそうですが、私たちに見せていただけないでしょうか」
宮宝田は微笑みながら庭にある空の大きなかごの箱(蓋がなく、ザルのように穀物などを収納するもの)を見ると、その端に飛び乗りその上を三週しました。この時かごは微動だにしなかったといいます。