明治期の殖産興業を象徴する群馬県の富岡製糸場が周辺の絹産業遺跡と合わせて、ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界文化遺産に登録される見通しになった。近代の産業遺産では国内初だ。

 1872(明治5)年の創業時には世界最大の製糸工場だった。電気や鉄、コンクリートが普及する前に建てられた木骨れんが造りの工場建屋や乾繭(かんけん)倉庫などが奇跡的に保存されていた点がまず評価された。

 富岡は、生産技術や管理のシステムなど「工場という制度」を丸ごとフランスから移植し、日本の伝統製法も加味したイノベーションを先導した。それが世界の製糸産業に大変革をもたらす。

 変革の鍵を握ったのは、「学び」の努力という今は形に残っていない営みだ。工女にも読み書き算術を教えるなど学習を重視したことが、西洋技術に独自の工夫を加える素地となった。当時の様子を地元の研究家が解明したことは、ユネスコの理解を得る決め手になった。

 技術移転などの産業政策だけで独自の経済発展が起きるわけではない。むしろ先進国の仲間入りができるのは例外だ。技術や資金が容易に動く現代でも、新興・途上国が自律的な発展軌道に乗るのは難しい。

 この限界を破るには、政策を担う官僚も、経営者や労働者も、それぞれモデルとなる知見を十分に消化吸収する「学び」の努力が大切だ。その点で富岡の経験を掘り起こし、世界に伝える意味は大きい。

 模範工場を目指した富岡だったが、事業としては競争に敗れ、20年余りで民間に払い下げられた。1939年に業界最大手だった今の片倉工業が譲り受け、87年まで操業した。

 閉鎖当時の柳沢晴夫社長(故人)が「売らない、貸さない、壊さない」と決断し、富岡市に移管するまで18年間、毎年1億円かけて保存に努めた。「日本の近代化を支えた建物を1社の判断で軽々に壊せない」という経営判断だった。

 遺産が継承された背景には、こうした資本主義精神の成熟があることも心にとどめたい。

 富岡の「当確」で、他の明治以降の産業遺産の登録にも期待が膨らむ。だが、鉱山や重工業の多くは昭和に入って軍国・帝国主義との関わりを一段と深めた負の歴史がある。朝鮮や中国から徴用した人々の強制労働には未解決の問題が残る。

 ここでも、今は形に残っていないものへのまなざしが、世界から問われよう。