万延元(1860)年3月3日、桜田門外において、水戸浪士たちが、登城中の 大老井伊直弼を襲って殺害しました。いわゆる「桜田門外の変」です。
この時、井伊大老の首級が密かに水戸に運ばれたという、井伊大老首級水戸 携行説があります。水戸市見川の妙雲寺境内にある
「大老井伊掃部頭直弼台霊 塔」は、その首級水戸携行説に関連した、井伊大老の供養塔です。
「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」は、昭和43(1968)年に、三木啓次郎氏によって建てられました。 碑陰に建碑者・三木啓次郎氏の「大老井伊掃部頭直弼台霊供養塔由来」の文 章があります。 そこには、桜田烈士の一人広木松之介が、大老の御首級を密かに水戸に持ち 返り烈公のお目にかけたこと、烈公から「これは浪士のなしたること、御首級は其の方に預けおく、懇に御供養申し上ぐべし」との仰せがあり、墨染の衣を用意して、「今死んではならん、命存えよ」と仰せがあったこと、松之介は「密かに大老の菩提を弔う為加賀に赴いて僧と成り、やがて越後を経て鎌倉の日蓮宗上行寺に身を寄せ、ひたすらに大老の霊に仕え供養すること三年、同志の徒が相次いで処刑されるのを聞くに及び、従容として自ら刃に伏して果て」たこと、「時に松之介は二十五歳、文久壬戌二年三月三日の事であ」ったこと、「以来春風秋雨百有余年、この大老の御首級を彦根の井伊家に御返し申し上げたいというのが長年に亘る私の念願であ」るが、「昭和三十七年以来再三に亘る交渉にも拘らず、井伊家の御返事は、水戸の浪士が苦労して持ち返ったのでありますから、水戸の地に留めおく様にとの事であ」ること、「明治百年の記念すべき年を迎え、私の念願が愈々切なるを覚えるのであ」るが、「桜田門外の露と消えました大老の御首級を密かに御守りしている事は、井伊家並びに烈士各霊に対して申し訳」ないので、「松之介の菩提所妙雲寺墓地内に萬人が自由に参拝出来る様な施設を講じて、大老の御台霊を慰め申し上げた」いと思う、という内容が記されています。
碑陰の日付は「昭和43年3月3日」、終わりに「発起人 桜田烈士奉讃会々長 勲五等 三木啓次郎」と刻してあります。
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