ストーリー:中国・ハンセン病「隔離村」(その1) 元患者、望郷の2万人
2014年05月04日
訪れたボランティアの学生と談笑する呉頂貴さん(左)。ハンセン病によって社会と断絶された人生は、若者たちとの交流を通じて、再びつながりを取り戻した=中国・広西チワン族自治区の浦北県山陂塘ハンセン病回復村で、隅俊之撮影
ベトナム国境に近い中国の果て。長く続く岩道を息を切らして登った。険しい渓谷の中にその場所はあった。粗末な長屋の扉を開くと、薄暗い部屋のコンクリート床の上に木製ベッドがただ一つ。老人がポツンと腰掛けていた。
黄文珠(こうぶんじゅ)さん(75)。突然の訪問者に、しわだらけの細い手で握手を返してくれた。声をかけても返事はない。不思議そうに私の方に向けた瞳はうつろだった。
「聞こえないんだ。目もよく見えない」。隣に立つ村長(64)が首を振った。靴下をはいた黄さんの右足の先は少し短い。ハンセン病で指先を失った。
中国・広西チワン族自治区の三合(さんごう)村。時折鳥のさえずりが聞こえる。静寂に包まれたこの村は、かつて200人のハンセン病患者が強制的に集められた「隔離村」だった。今も5人の元患者が身を寄せて暮らしている。
その一人、黄さんは1960年、自治区内の故郷から35キロ離れた別の「隔離村」に収容された。数年後に完治し、故郷に戻ったが、14年前に突然、故郷から50キロ離れた三合村にやって来た。病は治ったのになぜ。
「故郷では、彼が『隔離村』に住んでいたことを誰もが知っている。戻れば差別され、乗り合いバスにも乗れない。息子家族も一緒に住むのをためらった。『周りの負担になりたくない』と一人やって来たのです」
やはり元患者の村長がそう教えてくれた。黄さんは自分の故郷や家族のことをどう思っているのだろうか。高齢となり、耳が不自由となった今、何を聞いても答えは返ってこない。
中国政府は50年代後半からハンセン病患者の隔離政策を始め、人里離れた山奥や離島に「隔離村」を設置した。「ハンセン病院村」と呼ばれた。その数は中国全土に800カ所。隔離政策は86年に撤廃されたが、元患者の多くは差別を恐れてとどまった。「快復村」と呼び名を変え、現在も全国600カ所にこうした村が残り、約2万人が暮らしているとされる。
三合村には電気も水道もない。時折、食べ物や薬を届ける地元当局者やボランティアを除き、村を訪れる人はいない。感染力が弱く、仮に感染しても治療法が確立されている現在では、完治できる病だ。だが、人々の無知といわれのない差別は残り、元患者たちは遠く離れた場所で、外とのつながりを絶たれていた。<6面につづく>