4月17日、転覆し、沈んでいく旅客船の近くに集まった韓国海軍の海難救助部隊の隊員たち=韓国・珍島沖(AP)【拡大】
一方日本の側は、伊東自身が武士道の実践者であった。丁に書信を送る。
《僕は世界に轟鳴する日本武士の名誉心に誓い、閣下にむかいて暫く我邦に遊び、もって他日、貴国中興の運、真に閣下の勤労を要するの時節到来するを竢たれんことを願うや切なり。閣下、それ友人誠実の一言を聴納せよ》
伊東は丁に対し、捕らわれても後に軍功を立てた幾多の先例を示しながら「活躍の場が必要とされる清國再興の時節到来まで、日本に亡命し待ってはどうか」と「武士道に誓い、友人の誠から」切々と訴えたのだった。丁は深く感じ入るも、丁重に断り服毒自殺を遂げ、北洋艦隊は降伏する。
極限でこそ見える国柄
伊東の武士道は尚続く。丁の棺が粗末なジャンク船で帰国すると聞くに至り、伊東は鹵獲した清國側輸送船を提供し、丁の亡骸の後送に充てる。葬送の日、聯合艦隊各艦は半旗を掲げ、松島は弔砲を撃ちて弔意を表した。タイムス誌が「丁提督は祖国よりも却って敵に戦功を認められた」と報ずるなど、伊東の武士道は国際が絶賛する。
清帝は丁の財産を没収し、葬儀も許さなかったのだ。予期したかのように、丁は降伏に臨み「将兵らを赦し、郷里に帰還させてほしい」と要請。祖国ではなく、伊東の武士道を信頼している。