ケネディ暗殺
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ケネディ暗殺と宇宙中継
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2009/11/03(火)再確認(OCN Cafeに問い合わせ)
2009/07/11(土)盗作?(最下段参照)
2004/04/25(日)決定稿完成
2004/04/17(土)大幅追加、訂正
従来掲載していた文章に対して、前田治郎様から疑問点のご指摘を受け、大幅な内容の追加・訂正を行いました。適切なコメントおよび貴重な資料をご提供いただいた前田治郎様に感謝申し上げます。
2014年3月12日、前田治郎さん(まえだ・じろう=毎日放送元国際室長)、呼吸不全でご逝去(享年85歳)。心よりご冥福をお祈りいたします。
2002/01/20(日)初出
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ケネディ暗殺と宇宙中継
日米間のテレビジョン衛星中継は1963年(昭和38)に始まった。その時の実験放送で飛び込んできたのが、ケネディ米大統領暗殺という衝撃的なニュースであった。なお、当時は衛星中継ではなく、“宇宙中継”と呼ばれていた。
ケネディ暗殺さる
1963年(昭和38年)11月22日、アメリカ中部標準時間(CST)午後0時30分、 米国大統領ジョン・F・ケネディ(JFK)は、テキサス州ダラス空港からオープンカーで市内の演説会場に向かう途中、何者かに狙撃され病院に運ばれたが30分後に死亡した。事件がおきたのは、アメリカ東部標準時間(EST)午後1時30分、日本時間では23日(土)午前3時30分のことであった。
当日(23日)の国内における新聞記事(縮刷版)を確認すると、朝日新聞東京本社<朝刊12版>第一面トップにおいて、大統領狙撃事件が起きたこと(事件発生時刻記載なし)、そして、大統領は日本時間午前4時に死亡したことを報じている。
ただし、この時の記事はこれのみで、本格的な報道は<夕刊>からとなっている。なお当日23日は、日本では勤労感謝の日(国民の祝日)にあたり休日であった。
週間文春1963年12月9日号P.14によれば、事件の第一報はUPIで、入電は23日午前3時40分、ついで、同50分までに、AFP、ロイター、APが続いた。その後も刻々と情報が入り、“ついに大統領死亡”が伝えられたのは午前4時30分であった。すでに新聞の都内版締め切りは過ぎており輪転機が廻り始めていた。各社ともそれをストップしてほぼ三分の一程度を刷り直したという。
日米間初のテレビ宇宙中継成功
実はちょうどその日の朝、すなわち、日本時間23日朝(米国時間では22日夕方)、通信衛星を使った日米間初のテレビ宇宙中継(実験)を行うことで、政府間の正式合意(11月19日)が成立していた。
この時の実験放送は、米国から日本に向けて電波を送信するものであった。そして、この計画の推進役であったケネディ大統領から日本へのメッセージをはじめ、すべての番組はあらかじめ録画されていた。
その実験放送で、遠く太平洋を越えてリアルタイムで送られてきたのは、なんとケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースであった。
11月23日(土)の実験放送は2回行われた。
第一回:午前5時27分42秒~同48分(20分間)
第二回:午前8時58分~9時15分(17分間)
実験放送には通信衛星リレー1号が使われた。この衛星は、約3時間で地球を一周する低軌道衛星であったため、日米双方から「見える」20分程度が中継の限度だった。
第1回目の内容
アメリカ航空宇宙局のあるカリフォルニア州モハービー砂漠の風景などが送られてきた。実はこの1回目の実験では、あらかじめ録画してあったケネディ大統領から日本へのメッセージが送られるはずであった。
しかし、大統領はこの時すでに暗殺されていた。実験開始直前の5時14分、NASAからの宇宙無電で、「実験は予定通り行うが、大統領が映っている分の放送は取りやめる」という連絡が入っていた。
実験そのものは大成功だった。
朝日・毎日は感動の瞬間を次のように伝えている。
午前5時27分42秒、モニターテレビに濃淡の模様が出た。続いてNASAの模様入りテストパターンが表示され、27分50秒、はっきりとした映像がブラウン管に飛び込んできた。映し出されていたのは、広漠とした米カリフォルニア州モハービー砂漠(米側電波発信基地)の模様で、一本の木、草まで細かく写っている。国内のテレビ放送と何らかわりはない。
“ドキッ”とするようなあざやかな画像
国内放送かと耳を疑うようなハッキリした声・・・
それは宇宙時代の新しい夜明けを知らせるファンファーレでもあった
第2回目の内容(前田治郎さんの日本語ナレーション入り)
ケネディ大統領暗殺というショッキングなニュースが飛び込んできた。
ありし日のケネディ大統領の元気な姿が映し出された。
大統領に選ばれた直後(2年10か月前)の演説会の模様である。
テレビは、新聞スタンドに群がる人々、半旗を掲げたビルなど、悲しみと興奮に包まれたニューヨークの生々しい表情も伝えてきた。
これらの映像にナレーション(日本語)を入れた日本人がいる。前田治郎さん(当時35歳、毎日放送ニューヨーク特派員)である。前田さんは貿易商社から毎日放送に入り、アナウンサー、プロデューサーを経て、1963年2月からニューヨーク支局の駐在員となっていた。
事件当日、彼は仕事のためバスでマンハッタンからニューヨーク市郊外に向かっていた。翌年4月から開催されるニューヨーク世界博の工事現場を視察するためで、他の日本人記者14~5人も一緒であった。
ハイウェイ入口の料金所で係員がバスのドア口から叫ぶ。”ケネディ、デッド”。皆の不安は的中した。実はバスに乗る前に、「ケネディが撃たれたらしい」と、市民がささやきあっているのを小耳にはさんだ記者がいたのである。
ハイウェイではバスはUターンできない。一旦会場までいかざるを得なかった。市内へ引き返した前田さんは、当時業務提携をしていたABC放送の国際部門に駆け込んで、このニュースを日本に送るための資料集めをしていた。そこへ、ABCの広報担当者から思いもかけない提案をうける。
「午後7時(現地時間)から2回目の宇宙中継実験が行われる。君が日本語でこの大事件のニュースを送ってみないか」
ABC国際部門のコイル社長は、当日の実験担当であったNBC放送に電話をかけ、日本に実験電波を送るテレビ映像と音声の回線を設定した。約1時間後 (日本時間午前9時ちょうど)、前田さんの声(日本語)は、そのとき全米で放送されていたNBCのテレビ映像にのせて日本に送られた。
日本に届いた映像は、NHKの全国ネットワークと民放全局を通じて日本全国に流された。「これは輝かしい日米テレビ中継の2回目のテストであります。その電波にのせてこのような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います」。前田さんの第一声である。
前田さんはコイル社長のデスクに座り、目の前にあるテレビに映るNBCテレビの映像を見ながら<電話>で話をした。映像そのものは、ケネディの就任演説の模様など回顧場面がほとんどであった。
前田さんは、テレビ画面とは別に次々と入ってくるニュースも生で電波に乗せた。その内容は、そばに座っていたABC国際部門のスタッフがメモに書いてよこしたものである。
- ケ大統領の遺体は、いまちょうどワシントンのホワイト・ハウスに送られました。
- ジョンソン副大統領が、飛行機の中で宣誓を行って大統領に就任しました。
突然のことできちんとした原稿をつくる時間はほとんどなかった。“それこそアドリブでレポートしました” とはご本人のお話である。前田さんの出演(13分12秒)はこうして無事終了した。
コイル社長がABCの東京事務所に国際電話(当時12回線しかなかった)をかけ、日本のテレビで確かに放映されたことを確認する。社長と前田さんはウイスキーを手に中継の成功を祝ったという。
以上の前田リポートについては、朝日新聞縮刷版の他、前田治郎様ご本人からご提供いただいた資料(およびコメント)を大いに参考にした。
プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)
プロジェクトX~挑戦者たち~
第160回「衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継」
11月30日(火)21:15~22:00放送(2004年)
プロジェクトX~挑戦者たち~(NHK)という番組がある。非常におもしろく興味深い番組である。第160回"衝撃のケネディ暗殺 日米衛星中継"をちょうどテレビで見ることができた。(なお、当時は衛星中継ではなく“宇宙中継”と呼ばれていた)
東京オリンピック(1964年)開催が決定したのは、その4年前の1960年のことである。オリンピックを成功させること、それによって戦後復興した日本の姿を全世界にアピールすること、そのためには、何としてでも世界初のオリンピック映像生中継を成功させたい。国をあげての目標は明確であった。
しかしその当時、大陸間におけるテレビ画像中継技術は何も確立されていなかった。例えば我が国では、ローマオリンピック(1960年)の時、短波を使用して1コマ1コマの画像を連続送信する実験を行った。しかしその出来栄えは実用には程遠いものであった。
ちょうどその時、1961年(昭和36)、ケネディ・アメリカ大統領が、電波を<送>受信できる「通信衛星」を打ち上げることによって、ヨーロッパとアメリカを電話や映像で結ぶ計画を発表した。ところが、日本は実験の対象とはならなかった。技術力が低いとみなされたのだ。衛星からの電波はわずか10兆分の1ワットで、アメリカで灯した電球の熱を日本で感じ取る、というようなレベルの技術力が必要であった。
日本の技術者たちは、手探りの開発を続けながら、日本独自の通信アンテナである"カセグレンアンテナ"(直径20mの大パラボラアンテナ)を完成させた(1963年11月)。そして直ちに、日米政府間で実験に関する合意が成立した(11月19日)。日本も実験の正式なパートナーとなったのである。実験開始予定日の4日前のことである。
アンテナの設置場所は、国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町、現在のKDDI茨城衛星通信センター)。技術責任者は、宮憲一(みや・けんいち)国際電電宇宙通信研究部長(当時49歳)。宮憲一さんは、その後KDD副社長を務めた後、2004年04月09日死去(89歳)。
さて運命の日、1963年(昭和38)11月23日、世界初の太平洋横断衛星中継の実験当日を迎えた。予定では、衛星中継を祝う日本国民に向けて、ケネディ大統領のメッセージが送られてくることになっていた。しかし、送られてきた映像は、衝撃のニュース・「ケネディ暗殺」だった。
プロジェクトXのゲスト3人のうち2人は、技術者の方(宮憲一さんの部下)であった。そしてもう一人のゲストが前田治郎さん(当時35歳)で、毎日放送ニューヨーク特派員としてケネディ暗殺事件当時アメリカに駐在していた。前田さんは、アメリカから送られたケネディ暗殺という衝撃的ニュース映像に、アメリカで日本語のナレーションを入れる機会を得た人物である。
以前から、我がHomePageでもケネディ暗殺についてほんの少しだが書き留めていた。その文章に対して、前田治郎さんご本人から"事実と異なる"とのメールがあった。そしてその後、郵便、FAXや電子メールで数多くの資料およびアドバイスをいただき、文章を完成することができた(2004/04/25)。
その前田治郎さんご本人をテレビで初めて拝見して感慨深いものがある。
国葬のもよう
11月26日(火)には二度目の実験放送が行われた。
午前4時から15分間
容疑者オズワルドが射殺される瞬間の映像
葬儀参列のため渡米した池田首相、大平外相を出迎えるラスク国務長官
など
午前7時50分から15分間
ワシントンで行われた国葬の模様(録画)が放送された。
ケネディ前大統領の葬儀は、現地時間25日正午からワシントン市内の聖マシューズ教会で国葬として行われ、ミサの後、遺体はアーリントン国立墓地に埋葬された。
実験成功の意義
現在では世界のいかなるところで起きた事件でも、即座に茶の間のテレビで見ることができる。<衛星によるリアルタイムでの国際ニュース>があたりまえの時代なのだ。そのような国際報道のあり方の一大転換点となったのが、この宇宙中継の成功であった。そしてそこで流されたのはケネディ大統領暗殺という世紀の大事件であった。
ケネディ大統領こそ、このような宇宙開発計画を強力に推し進めた人物にほかならない。当日第一回目の放送では、大統領自ら日本国民に当てたメッセージ(録画)が放送される予定であった。しかし、悲報のためそれは取り止めとなった。
ケネディ大統領は、暗殺という自らの歴史的悲劇でもって、国際報道の革命的瞬間の主役となってしまった。自分自身が推進していた計画の成功にこのような関わり方をするとは、何という皮肉であろうか。
映像の配信、今昔物語
2004年4月15日(木)、イラクで武装グループに人質にとられていた日本人3人が、8日ぶりにバグダッド市内で無事解放された。この人質事件の第一報は、アルジャジーラ(中東カタールのアラビア語衛星放送)によって全世界に発信された。そのときの映像は武装グループがアルジャジーラに送りつけたDVDからとったものだという。
さて、ケネディ暗殺事件当時は、国際ニュースといえば、航空便で届く数日遅れのフィルムの時代であった。私にも次のような思い出がある。
思い起こせばローマオリンピック(1960年、昭和35年)の時、私は中学1年生であった。水泳男子400m自由形決勝では、日本の山中毅がマレー・ローズ(豪州)と対決し、前回のメルボルン大会同様敗れ去った。前年の日米対抗で一度雪辱を果たしていたのだが、オリンピックではとうとう勝つことができなかった。
この時のテレビ放送でもフィルムの空輸が行われた。「ただ今、日航機でフィルムが到着しました」というような予告があって放送が始まったことがあるように覚えている。
宇宙中継の仕組み
- 1957年10月4日(旧ソ連)、スプートニク1号(人類初の人工衛星)
- 1962年7月10日(米国)、通信衛星テルスター1号
(初の送信機搭載通信衛星)
米国→フランス、イギリス(初のテレビ大陸間中継に成功) - 1962年12月13日(米国)、通信衛星リレー1号
(送信電力を増大するなど各種改良)
ケネディ大統領の暗殺を伝える - 1964年8月19日(米国)、通信衛星シンコム3号(真の静止通信衛星)
東京オリンピックの模様を全世界に伝える
日米間初の宇宙中継は、米太平洋岸モハービー地上局(カリフォルニア州)から発信された電波を、地上一万kmの上空を飛ぶ(移動している)リレー衛星によってキャッチ中継するというものであった。
リレー衛星は、自分の現在位置を知らせるビーコン電波を流している。そこで日本側では、まず、追尾用パラボラアンテナでその位置を確認し、次に、大パラボラアンテナ(直径20m)で微弱な電波を拾っていった。
日本側の受信施設となったのは、国際電信電話会社宇宙通信実験所(茨城県多賀郡十王町)である。そして、宇宙通信実験所が「リレー衛星」から受け取ったテレビ信号は、NHKによってまず東京まで運ばれ、そこからNHKや民放の電波となって日本全国に放送されたのである。
実験は、国(郵政省)、日本電電、国際電電、NHKの4者の共同作業で行われ、技術責任者は宮憲一(みや・けんいち)国際電電宇宙通信研究部長(49歳)であった。なお、米国側ではNASAが実験を取り仕切っていたようである。
十王町から東京まではNHKによって次のような手段で送信された。まず、実験所で受け取ったテレビ信号を、NHKの中継車からマイクロウェーブとして送り出す。次に、無線で石尊山~日立製作所日立研究所屋上(日立市)~電電公社無線中継所(筑波山)~東京統制無線中継所テレビジョン中継センター(東京・麻布)へ送られる。ここから有線でNHK放送会館に送られ、民放にも同一画面が配信された。
ケネディ暗殺中継(実験放送)に使われた通信衛星リレー1号は、約3時間で地球を一周する低軌道衛星であった。そのため、日米双方から「見える」20分程度が中継の限度となる。
これに対して、 静止衛星シンコム3号の打ち上げによって、日米間で24時間自由に衛星中継をすることが可能となった。東京五輪の映像は、このシンコム衛星を使用して世界中に中継された。
参考資料
- 朝日新聞東京本社(夕刊)1963年11月23日、3版11面
日米間のテレビ中継成功、暗殺ニュースも生々し、劇的な悲しみを報ず
- 毎日新聞(夕刊)1963年11月23日
ケ大統領暗殺、悲報のせ宇宙中継、前田特派員(毎日放送)が報道
遺影もあざやかに、沈むニューヨークを刻々、衛星TV
- 朝日新聞東京本社(夕刊)1963年11月26日、3版11面
一瞬、静まり返る、”宇宙電波”に哀悼の視線
- 週間新潮1963年11月号P.23
日米中継のぶっつけアナウンス
”悲報”を伝えた日本語放送
衛星から送られた画面と前田特派員(写真キャプション)
- 週間文春1963年12月9日号P.14
新聞パトロール(特集、ケネディ暗殺)
新聞街に暁の緊急招集、世紀のニュースは締め切り直後にきた
海外特派員(毎日放送前田ニューヨーク特派員など)の活躍
- 文藝春秋1986年10月号P.181
日米新時代、30年の30人
38年、ケネディ暗殺を”実況”した日米TV中継の日
前田治郎(毎日放送国際室長)
- 朝日新聞1993年11月23日(関東版)
JFK暗殺こう伝えた、30年前の「その時」報道は-
日米初の衛星実験中継、飛び込んだ特派員、社長室で電話放送など
- 朝日新聞(夕刊)2003年1月15日
茶の間の奇跡(7)、ケネディ暗殺、「リアルタイム」の衝撃
63年11月22日宇宙中継の実験が本番に
ABC国際部門社長室でリポートした前田治郎。ぶっつけ本番だったが、アナウンサーの経験が生きた。(写真キャプション)
- Herald Asahi, Mar.17,2003
50 Years of TV in Japan
Tragedy in Dallas reported in Japan via satellite
2004/04/17削除部分
「この実験放送は、TBS(東京放送)が業務提携先である米CBSテレビの協力を得て成功させたものである。当時のTBSアナウンサー、榎本勝起(えのもと かつおき) 氏は、ケネディ暗殺宇宙中継の第一報をアドリブで45分間担当したそうである。なお、当時は衛星中継ではなく“宇宙中継”と呼ばれていた。」
内容が事実と異なる(業務提携先の件)、あるいは不明(榎本氏のアドリブの件)と判断したため削除する。なお、この文章はTBSのホームページを中心にまとめたはずだが、現在はそれらの文章はTBSホームページ内には見当たらないようである。
ちなみに、「世間の出来事」
http://page.cafe.ocn.ne.jp/profile/minonaoki/diary/200311
に、以下のような文章がある。私の文章と瓜二つの段落があるなあ(赤下線部分)・・・・・
私の文章中に、空白(半角)が二つあり、その内の一つは自分でも今まで気がつかなかった箇所のものである。その空白も含めて忠実にCUT&PASTE(盗用)していただいたようである。(前半部分も現在の形に書き換える前の文章によく似ているような・・・)
(2009/07/11追記)
(以下、「世間の出来事」からの引用部分)
日米間のTV宇宙中継受信実験に成功。ケネディ米大統領暗殺のニュースを受信(1963年)
1963年(昭和38年)11月22日午後0時30分、米国ケネディ大統領(ジョン・F・ケネディ、JFK)がテキサス州ダラスでパレード中、何者かによって射殺された。日本時間23日午前2時30分のことである。
ちょうどその日の朝、日米間で初のテレビ宇宙中継(実験放送)が行われることになっていた。遠く太平洋を越えて送られてきたリアルタイムの映像に映し出されたのは、なんとケネディ暗殺直後のショッキングな場面であった。
この実験放送は、TBS(東京放送)が業務提携先である米CBSテレビの協力を得て成功させたものである。当時のTBSアナウンサー、榎本勝起(えのもと かつおき) 氏は、ケネディ暗殺宇宙中継の第一報をアドリブで45分間担当したそうである。なお、当時は衛星中継ではなく“宇宙中継”と呼ばれていた。
(以上、引用ここまで)