お久しぶりです。
お久しぶりです。
こんにちは。
こんにちは。
今日はよろしくお願いします。
自然体の女優と変幻自在の俳優。
演技の道を探求する2人が大切な音楽を持ち寄り語り合います。
「侍として本懐を遂げました」。
26歳でハリウッドデビュー。
女優として一躍脚光を浴びます。
「お気持ちだけは…」。
一方私生活では俳優の松山ケンイチさんと結婚。
2人の子どもを育てています。
仕事と私生活を両立させながらしなやかに自分らしく生きる姿は多くの女性たちの共感を集めています。
そんな小雪さんの青春時代を支えた音楽とは?「最大風速100mの突風が吹き荒れる富士山頂」。
「松風工業」。
「プロジェクトX」のナレーターとして一世を風靡。
「絶縁体碍子」。
実は俳優歴32年。
出演作品は200本を超えどんな役も演じるカメレオン俳優の異名を持ちます。
しかし落ち着いたイメージとは裏腹に型破りな人生を歩んできました。
アングラ演劇にのめり込み大学を中退。
官能的な劇画を描いた20代。
・「Onlyyou」衝動に駆られ突如始めたパンクバンドでの過激なパフォーマンス。
青春時代に出会った音楽が彼の人生を激しく揺れ動かしました。
「ではなぜ私の父と母が選ばれたんですか」。
「自分で立候補したんだよ」。
さまざまな映画やドラマで共演しお互いをプロフェッショナルと認め合う2人が語り合います。
「彼らに酒をやめさせるっていうのはとても難しいんですよ」。
感じるままに自分の道を突き進んできた女優。
迷える魂を演じる事で発散してきた俳優。
めっちゃ前向きですね。
ハハハッそうかもしれないですね。
僕今自分の人生を思い直してめっちゃ後ろ向きだなあと。
そうですか?はい。
演技の世界に生きる正反対の男と女。
大切な音楽を通して見つめる青春の物語です。
1976年12月雪の降る日女の子が誕生しました。
雪のちらつく日に生まれた事から付けられた名前は小雪。
4つ上の兄と年子の姉。
末っ子の小雪さんはイタズラばかりする好奇心旺盛な女の子でした。
そんな彼女の幼い時代を象徴するのがこの歌。
ご自分もおてんばだったと。
おてんばだったですね私は。
小さい頃そばかす私もあったので結構それでいじめられてた事もあったのでちょっと記憶に残ってるっていう。
貿易商の父。
ブティックを経営する母。
共働きで忙しくても一家団らんを大切にする家庭でした。
両親もすごく仲良かったのでいつも絵に描いたように円卓円いテーブルで食事をする。
円だとよく見えるので会話が生まれるっていう母の信条があって。
ホントに家を出るまではずっとそのテーブルで食事をするっていうのが決まりの家庭だったんですよね。
へえ〜。
相当理想的な環境ですね。
一方日本が高度経済成長期を迎えていた1957年。
田口トモロヲさんは東京・吉祥寺で誕生しました。
父親は銀行員。
3つ上の姉と一家4人社宅暮らしの少年時代。
僕は小雪さんの「キャンディキャンディ」みたいにやんちゃだとかそういう印象が全くないんですよね。
静か〜で。
でも絵を描いたりするのは好きだったみたいですね。
それで一人遊びをするような子で。
そうなんですか。
そのぐらい印象が薄い…。
育てやすい。
羨ましい。
あっそれ実感ですね今の。
いいですね。
物静かな田口少年が最初に出会ったのは大好きな母がいつも聴いていた越路吹雪さんのこの歌。
メチャメチャアダルトですよね。
ホントだ。
思い出深いんですか?そんなに音楽が流れてるような環境の家庭ではなかったんで。
たまたま母が好きで。
越路吹雪さんが好きで持っていた1枚。
・「夢のようなあの頃を」・「思い出せば」・「サン・トワ・マミー」もううちはホントに極めて平凡な普通の中流のサラリーマン家庭でしたね。
極めて普通。
ただ平凡だからこそそうじゃなくなりたいっていう願望があったのかもしれないですね。
なるほど。
スポーツが大好き。
小雪さんはバリバリの体育会系少女でした。
高校ではバレーボールに夢中。
強豪のチームに入りインターハイを目指す日々です。
打ち込んでた思い出って結構シビアなもんですよ。
その当時は実際虐待とかいう言葉も無かったから普通に蹴られたりもしてたし。
はあ〜。
努力した人にしか見えない世界みたいな何かそういうのをその当時無我夢中で運動してた時に培ったんじゃないかなと今となっては思いますね。
寝ても覚めてもバレーボール。
音楽なんて全く耳に入らない毎日。
しかし高校2年の終わり椎間板ヘルニアを患いバレーボールができなくなります。
ヘルニアになって立てなくなったから。
立てないし洋服自分で着れないしここまでやってここにいても場所がないなと思ってそこでやめたんですけど。
ヘルニアになってから初めてクラスの人たちとちょっとしゃべるみたいな。
例えば女の子であったら雑誌の事とかお洋服の事とか音楽の事とか。
初めてしゃべったなって記憶があるのが高校3年生の時で。
それまで音楽と無縁だった17歳。
少女の心にしみこんだのはTHEBOOMの「島唄」でした。
初めてコンサートに行ったのがTHEBOOMでした。
お〜そうですか。
はい。
宮沢さんの声質とそのたたずまいとこの「島唄」の印象がすごく強くてまだ覚えてますね。
歌詞にジェネレーションあまりなく広い範囲に対しての曲なので何か共感しやすかったっていうのもありますし沖縄の歌って自然とか人間とかとうまく融合した歌手の方が多いんじゃないかなって思って。
それを本能的にいいなあと思ってたのかもしれない。
スポーツやってる人って聞くと音楽って応援歌的なものだったりするじゃないですか。
あ〜そうですね。
逆ですよね「島唄」は。
あっそうですね。
ちょっとしみたのかな。
全然違う世界で。
バレーボールを諦めた少女は持ち前の好奇心から新しい世界の扉を開きます。
友達と出かけたモデルのオーディション。
皆さんすごくかわいい女の子たちがオーディション会場にいらっしゃって。
面接試験とあとなぜか水着も着るんですよ。
多分スタイルがよく分かるように。
で水着も着た事ないし持ってないからスクール水着でやったんですけど。
まあ逆にもはやお宝でございますけれどもね。
持ってないから。
水着着た事もないし。
で好きなモデルさんやら雑誌は見た事はありますかとかっていう質問にも答えられず。
見た事がないし「じゃあ今見て好きなモデルさん決めていいですか」みたいな事言って雑誌借りてこうやって見て「あっこの方が好きです」みたいな。
取って付けたようなそんな状態だったので。
すごいレアな子だったと思いますね。
美貌スタイル世間ずれしていない純真さ。
5,000人を超える中から見事グランプリに輝きます。
しかし小雪さんにとってモデルはあくまでアルバイト。
彼女にはしっかりとした将来のビジョンがありました。
私はやはり何かこう人と接してそれに対する反応がちゃんと自分で感じられる仕事をしたくて。
それは将来的なビジョンとして。
職業として。
で医療系の仕事興味があって。
でじゃあ私看護学校に行って看護婦の資格を取ろうっていう目的があり…。
そうですか。
看護婦さん。
出会ってみたいですね。
なので私は多分目標突進型なので。
目標が何かないと前に進めないタイプなんじゃないかなと今思いますね。
だからケガも理由であって次に行くための何かきっかけだったのかなと思いますね。
めっちゃ前向きですね。
ハハハッそうかもしれないですね。
高校を卒業し都内の看護学校へ。
モデルと看護学生という二重生活の始まりです。
朝5時の電車に乗り夕方まで学校で授業に実習。
夜からスタジオに入って撮影。
仕事は連日深夜まで及びました。
ただただすごく走ってたっていう記憶の方が何か正しいかなって思う。
すごい忙しくて私。
ひどい時は病院で自分で点滴うったりして。
それは役得ですね。
え〜!「ちょっとつらいんでうってきていいですか」みたいな。
何かそんな事やってた。
すごいですね。
でも今考えると何か看護婦の格好しながら自分の雑誌が病院にあるってちょっとおかしいですよね。
説得力ないなって今思います。
しかしあと半年で夢の看護師になれるというところで思いがけない挫折を味わいます。
初めての世の中の不条理に出会って。
いくら学校に出席してもテストで点数を取っても欠席しなくてもモデルの仕事をしてるから何かやっかまれるみたいな。
へえ〜あ〜そうですか。
そういうのがあってすごく生きにくかったのを覚えてますね。
やっぱり看護婦の仕事っていうのは世間的な見え方っていうのがあるので。
モデルをしている私はあの…不適合者みたいな。
だからいくら成績がよくても出席日数がよくても駄目なんだと。
…っていう納得のいかなさで日々を送ってて。
それを私すごい悩んでて…。
頑張っているのに評価されない。
身も心もギリギリの状態に追い込まれた時この切ないメロディーが胸に響きます。
それであまりにも悩んでる私を両親が見て「どちらか1つ選べば?」って。
なかなかあんまりそういう事を言ってくれる母じゃなかったし決めたら最後までやんなさいっていう教えだったので。
「あっ選んでいいんだ」と思って。
決めたんだったら2つやり遂げなきゃいけないかなと私は思ってたんですけど。
あっなるほど。
どっちか選んでいいんだなって思ったらすごく楽になって。
このモデルの仕事に関しては「今はすごくアルバイト的な感覚でしか私努力してない」って思ったんですね。
もうちょっと深くちゃんと勉強したりプロとしてやる深さを見てみたいと思ってじゃあ決めようかなっていってこっちに決めたんです。
一方中学生になった田口トモロヲさん。
父親は転勤が多い銀行勤め。
都内で転校を繰り返します。
転校生っていじめられたりするんですよね。
新参者っていう事で。
それでちょっと学校とかあまり行きたくなくなって。
そうするとその当時は中学生とかが行ける場所って映画館の名画座がまだあった時代で。
150円とか200円ぐらいで見れたんで。
ちょうど時代はアメリカンニューシネマという映画のムーブメントの全盛期でそこで「明日に向かって撃て!」とかあと「俺たちに明日はない」とか「イージー・ライダー」ですよね。
そこにまあ現実逃避ですよね。
中でも少年の心に刺さったのが映画「マッシュ」。
アメリカンニューシネマの鬼才ロバート・アルトマン監督の出世作です。
舞台は1950年代朝鮮戦争さなかのアメリカ軍野戦病院。
ここに従軍する医者が巻き起こすハチャメチャな騒動を描いた反戦コメディーです。
(ドラムロール)「あ〜!」。
(歓声)戦争を題材にして戦争の悲惨さとかを非常にシニカルな形で笑い飛ばすっていう逆説的な映画で。
嫌な事やそういう事があったとしても目線を変えれば笑って過ごせるぜっていう生きるヒントみたいなのを…。
ホントだ。
ええ。
教えてくれて。
何かやっぱり学校教育で教えてくれない事をその当時映画館が教えてくれたっていう。
世界の本当の…。
本当かどうかは分からないけれども教育じゃ分からない事を世界をかいま見せてくれたっていう印象は非常にありましたね。
トモロヲさんを救った映画なんですね。
そうですね。
僕を救ってくれた映画の一つですね。
へえ〜。
そしてこの映画のクライマックス。
甘い旋律に乗せて歌われる主題歌のブラックでシニカルな歌詞に衝撃を受けました。
「自殺する事は痛い事ではない」っていう。
「いろんな事に変化を与えるだけさ」っていうのもすごい深いじゃないですか。
だから人生にとって死っていうのも生きる事の一部なんだなっていうふうに思わせてくれて。
それでこれアルトマンの息子さんが歌詞を書いてて。
マイク・アルトマンっていう。
その子が13歳とか14歳なんですよ。
そんな若くてこの詞が書けるっていうのが。
同世代なのにこんな詞書いてるんだっていうのも衝撃を受けましたね。
13歳でしょ?まだはな垂れてるかはな垂れなくなったぐらい。
そうですね。
まだ下手したらウンコとか漏らしてますからね。
田口さんが高校に進学した1970年代前半。
日本の音楽シーンでは吉田拓郎や井上陽水らが大ヒットを飛ばしフォークブームをけん引していました。
しかし田口少年の胸に響いたのは拓郎や陽水とは全く違うこの異端のシンガーの叫びでした。
「最後の最後の最後のサンバ」。
もう歌詞がざれ言なのか真面目なのかもう分からないその混乱のホントにこのリズムの洪水っていうのがメチャメチャかっこよくて。
あとシャウトですよね。
やっぱり声。
ほかは…はやってたフォークソングっていうのはスイートな感じだったんですけれどもその中でももうホントにハードパンチを繰り返すような繰り出してるようなもうちょっとほかに例がない。
あと歌詞がもう現代詩なんですよね。
「ひびけ電気釜!!」とか。
「オートバイの失恋」とか。
「オートバイの失恋」を書いた人って世界でこの人だけだと思うんですよ。
そういうシュールな。
あとはそのころってロン毛長髪が非常にはやってたんですけれどもこの人だけ坊主なんですよ。
へえ〜。
もうそこのビジュアルだけでも反逆的でしたし。
とにかく自分のこう…おとなしさとその真逆な何かどうしていいか分からない激しさみたいな青春の激しさみたいなものをこれを聴いた時に「あっこうやって叫んでもいいんだ」っていう。
自分の殻を破りたい。
破壊への衝動が高まっていった17歳の時優しかった母親が亡くなります。
母の事はすごく好きだったので母には迷惑をかけないようにっていう何か自分の中で抑えていたもののたがが外れたっていう感じはありますよね。
逆にちょっと楽になったというか。
それで自由にそういう事を自分のやりたい事を追求してやってもいいんだっていう。
親元を離れ大学に進学した田口さん。
堰を切ったように青春の衝動を爆発させます。
ほとんど大学通わなくて。
僕とりあえず大学入って大学に4年間いたんですけどずっと1年だったんですよ。
新入生で。
新入生で。
いつも白紙の状態で。
すばらしい。
のめり込んだのはアングラ演劇。
気が付けば21歳になっていました。
ある時おやじに「来年卒業だな」って言われて。
「就職とかどうすんだ」って言われてまずいって思って。
これは何か手に職をつけないと。
やっぱり絵を描くのが好きだったんで漫画を描いていろんな出版社に持ち込んで。
「これは普通の漫画だから載せられないけれどもエッチな事を盛り込んできたら載せてあげるよ」っていうふうに言われてそれから官能劇画作家として活動して1年間で100万ぐらいためてそれで自立したっていう。
1976年のロンドンに登場したパンクロックのシンボルセックス・ピストルズ。
社会への怒りをシンプルで凶暴なロックンロールで表現し世界の音楽シーンに革命を巻き起こしました。
1980年代東京に飛び火したパンク・ニューウエーブ・ムーブメント。
無数のバンドがひしめく渦の中に田口さんも飛び込みます。
そしてひときわ異彩を放つこのファンキーなグループに打ちのめされます。
この「じゃがたら」っていうバンドはホントに日本語でかなりダイレクトなメッセージ性を持って踊れる音楽を提出してたんで自分の中でもうジャストフィットしたんですよね。
ほかもいろいろパンクバンドあったんですけれども英語で何か「やつらをやっつけろ」的な。
やつらって誰なんだみたいなそういうかっこいいパンクバンドにすごい抵抗があってこのじゃがたらを見た時にすごくもうすっと入ってきて腑に落ちて。
それで自分もやってみたいと思って。
田口さんが衝動に駆られ26歳で結成したパンクバンドばちかぶり。
選んだスタイルは地味なスーツ姿での過激なパフォーマンス。
楽しそう。
生き生きしてる。
アハハハハハ!やっぱり全部自分たちでできるっていう事がパンクの魅力でしたね。
まあアングラ演劇もそうですけれども。
ちょっと大げさな言い方するとそういうパンクムーブメントとか古いシステムを変えられるって思ってたんですよね。
若かったから。
大人が作った資本的な世界ではなくて自分たちでレーベルとか気の合う人たちと作って自分たちのやり方で自分たちの声を出せるって信じてて。
・「君のこと忘れない」・「いつまでも」一方の小雪さん。
モデルとしての活動はコレクションやCMにも広がっていました。
そして21歳ゴールデンタイムのテレビドラマに突然抜てきされます。
織田裕二さんの相手役でした。
しかし初めて飛び込んだ撮影現場では戸惑いばかり。
ここにいるのが恥ずかしいって思ってました。
何も知識のない経験のない私が「ここにいて恥ずかしい」と思う自分が恥ずかしかったから。
だって用語とかまるっきり分からないし。
あ〜。
「バミって下さい」とか「セッシュー」とか「何?」みたいな。
そうそう。
また知識もあったり興味があればねそういうところも何かこうかいま見れたりあったんでしょうけども全く畑の違う私がそこにいる事自体すごく不自然に感じてたしまあご迷惑をおかけしたくないっていうような気持ちの方が強かったですね。
自分がこの場所にいていいのか分からない。
しかし逃げませんでした。
難しいからじゃないですか?自分のできそうにない事にチャレンジした訳ですよね。
そうです。
モデルの仕事は洋服をメインで見せる事が仕事なのでまたそこに自分がどうっていう個性はそれほど必要ないんですけどだけど女優の仕事ってまた自分の体を使って表現していく難しさっていうのが…多分答えがないので続けてるのかなと思いますし。
そうですよね。
ホントに正解がない仕事ですもんね。
「答えを見つけたい」。
さまよう日々。
もがいた時代の記憶を呼び覚ますのはアンニュイなシャーデーのサウンド。
何かその時ね記憶に残ってるけど今でも聴きますねシャーデーは。
雨の日とかこういう日とか聴きたい。
でも今この女優の仕事もこんなに続けてるとは思ってなかった。
えっそうですか?そうなんです。
しかし実力は徐々に認められ23歳で映画デビュー。
「ではなぜ私の父と母が選ばれたんですか」。
「自分で立候補したんだよ」。
田口さんとも共演し女優としての階段を登り始めます。
「一人一人死んで頂く事に致します」。
そして2人は演技の世界で大きく羽ばたきます。
小雪さんは26歳で一気に世界の頂点へ。
ハリウッド進出です。
「行くぞ〜!」。
「オ〜!」。
「ラストサムライ」。
トム・クルーズ主演の超大作。
この壮大なハンス・ジマーのサウンドトラックが小雪さんに1年間かけた撮影の記憶を呼び覚まします。
はあ〜すごいですね。
規模が全然違いますね。
ねえ〜。
山買ったりしてますからね。
山買ってこっちに紅葉こっちに桜そっちに梅みたいな。
へえ〜。
四季全部撮れちゃうみたいな。
すごいですね。
だって山の山頂から麓のロングカットロングショットとか撮れるんですよ。
最初はオーディションみたいな形?あっちはオーディションですよね?あっ全部オーディションですね。
監督と普通に世間話をしていて。
へえ〜。
終始何もしないで終わったみたいな。
まだ覚えてるのが「ホントに日本が好きで一生涯のうちで日本の映画を撮れたら僕幸せだなって思ってるんです」って言ってて。
そういうふうに思って下さって日本人としてはすごくありがたいなってオーディション帰りに感じたのを今でも覚えてて。
そういう何か通じるものというかその瞬間を過ごせた人とはそういう仕事をするまでの縁があるのかなって思ったりしたんですけどね。
私あんまりこうガツガツしてなくて。
何事にも。
だからオーディションだからカチカチになるっていうタイプじゃなくて。
でも2回目の時にロサンゼルスのスタジオでトム・クルーズとカメラテストをする時はちょっと緊張しましたけど。
一方1980年代あらゆるジャンルのアングラ表現でやり場のない思いを吐き出していた田口さん。
30歳で初めて映画の主演俳優をオファーされます。
鬼才塚本晋也監督との出会いでした。
「あ〜…」。
「来いや〜!」。
「来いや〜!」。
塚本監督もCM会社にいらしたんですけれどもやっぱり自分の撮りたいものを撮ろうとして自主映画っていう形でやり始めて。
どんどん友達もいなくなるしスタッフもいなくなるというハードな現場の中でも最終的に1年半かけて完成させてっていう。
へえ〜。
何かそういう出会いがやっぱり自分の中では大きかったですよね。
何か何が何でも好きな事をやり通すっていう。
何か大きな熱量っていうかそういう人たち映画監督と出会ったっていうのは自分の人生の中で大きかったと思うんですよね。
同志と出会った時代胸に鳴り響いていた音楽はニューヨークのロック詩人ルー・リード。
さっきの小雪さんの話じゃないけどモデルさんと女優さんをどっちを選ぶっていった時に険しい方を選ばれたと思うんですよね。
だからやっぱり僕もこの曲に肩を押されて。
「もし2つ道があったとしたらワイルドな方を選べ」っていう。
とにかくこの曲は「ワイルド・サイドを歩け」っていう題名自体がすごく好きだしホントにロックの魔法にかけられたような気持ちで。
気が付いたら「あれ?またごはん食べてる」みたいな。
「あれ?呼んでないけど」みたいな。
「こいつだ!」っていう。
「新しい動物発見!」と思って。
「これに違いない!」と思って。
音楽でつづる人生の物語。
次回2人は新たな境地を目指して更にワイルドに加速していきます。
2014/05/01(木) 23:00〜23:45
NHKEテレ1大阪
ミュージック・ポートレイト「小雪×田口トモロヲ 第1夜」[字]
小雪&田口トモロヲの「人生の10曲」▽看護師を諦めた小雪の苦渋の決断▽いじめから逃避した田口が出会った運命の映画音楽▽越路吹雪/カーペンターズ/ルー・リードほか
詳細情報
番組内容
神秘的なクールビューティー・小雪と“プロジェクトX”ナレーションで知られる個性派俳優・田口トモロヲの「人生の10曲」 ▽看護師への道を諦めた小雪の苦渋の決断 ▽いじめから逃避した田口が出会った運命の映画音楽 ▽モデルから「ラストサムライ」でハリウッド進出へ! 成功の陰にあった小雪の知られざるプレッシャーの日々 ▽「島唄」ブーム ▽カーペンターズ/越路吹雪/ルー・リード ほか
出演者
【出演】小雪,田口トモロヲ,【語り】ヒロ寺平
ジャンル :
音楽 – その他
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
バラエティ – トークバラエティ
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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