歴史に対する憧れと深い知識を持ったアイドルの養成所。
それが日本史研究の殿堂高橋歴史女学館である。
日本史研究の殿堂高橋歴史女学館へようこそ。
館長の高橋です。
ここは日本初の歴史アイドル養成学校です。
皆さんは日本史を暗記科目だと思っていませんか?違います。
歴史を学ぶ上で最も大切な事。
それは時代を推理する事です。
これをモットーに歴史アイドルを目指す我が女学館の生徒諸君。
(3人)はい!中学校の時ですが弥生時代についてはどんな時代だったと習ったかな?はい。
はい。
日本に稲作が伝わってお米が主食になった時代です。
そのとおり。
米は食べ物というだけではなく日本の文化にとっても大変重要なものです。
それがこの時代から始まったという事なんですね。
ではここで今回学ぶべき重要ポイントを見てみよう。
今回の時代は…稲作が伝えられると縄文時代の社会の仕組みが大きく変わっていきました。
その変化は日本列島に何をもたらしたのでしょうか。
今回押さえるべき「三つの要」は…この3つから弥生時代を推理していきましょう。
今日はこんなものを用意致しました。
これ何だと思う?え?何だろう。
女子高生だったら一日1回以上は使用するかな。
実はこれ…鏡です。
(向井地込山)えっ?
(向井地)すご〜い。
鏡。
映ってる。
こちら…
(向井地込山)三角縁…。
神獣鏡。
神獣鏡。
私素手で持ってます。
つまりこれはレプリカです。
心配しないで。
ちょっと触ってみますか?ほら。
よく映りますよ。
(3人)映ってる〜。
あ〜すご〜い。
青銅というのは…こういった金属器が大陸から伝わってきました。
それまでになかったものが伝わり社会の仕組みが変わっていく。
それが弥生時代という訳なんですね。
それでは「三つの要」に沿って見ていこう。
今からおよそ2,500年前大陸から北九州に渡ってきた人々によって稲作とその技術が伝えられました。
佐賀県唐津市の…日本最古の水稲耕作が行われた水田跡です。
板やくいで水路を造り隅々まで水が行き渡るように工夫されていました。
この遺跡で発見された焼けて炭になった米炭化米です。
ここで米作りが盛んに行われていた事がうかがえます。
米作りの農具も伝わりました。
木を磨製石器で削って作った鍬や鋤です。
これらを使って土を耕しました。
稲が実ると石包丁で刈り取り脱穀して食べました。
やがて大陸からは鉄器も伝わりました。
鉄器によって磨製石器よりもはるかに効率よく農具が作れるようになりました。
こうして水田の開発が加速されていったのです。
また同じ頃青銅器も伝わりました。
鉄とは違い祭り事の道具に使われたと考えられています。
稲作が始まると竪穴住居のほか米を蓄える高床倉庫が造られました。
集落は小さな山々から平野の方へと移っていきます。
これまでの社会が大きく変わったのです。
稲と鉄これが伝わった事で縄文時代の社会が大きく変わっていったと考えられているんですね。
(土保)でも館長。
前回縄文時代は自然が豊かで食料も豊富だったと習いました。
(込山)そんな豊かな時代が何で変わったんですか?いい質問ですねぇ。
こちらを見て下さい。
縄文時代は平均気温が現代よりやや高かったんです。
しかしおよそ4,000年前から気温が下がり始めました。
平均気温が1.5度下がるというのはどういう事か想像できますか?
(3人)そんなに変わらなそう。
変わらない?とんでもないんです。
日本列島の自然特に森林は大きな影響を受けました。
樹木の種類が変わったり木の実の量が減ったり大きな変化が起きたんです。
豊かな自然の恵みに支えられていた生活は危機にさらされたこういう訳なんですね。
そこで当時の人々は大陸で行われていた米作りや金属器を受け入れて農耕社会これを作っていったんですね。
するともっともっと大きな変化が起こってしまうんです。
ここで「三つの要」その二を見てみよう。
稲作によって食料の余剰が生まれ蓄積ができるようになると貧富の差が生じ身分の区別が起こってきました。
集落では水田作りなどの共同作業を指導するリーダーが現れます。
同時にリーダーは稲作の儀礼をつかさどり次第に人々を支配するようになったと考えられています。
また水や土地を巡ってほかの集落との間で争いが起きるとリーダーは戦闘の指揮を執りました。
日本海に面した…紀元前2〜3世紀にかけて続いた集落跡です。
ここからおよそ100体分の人骨が出土しました。
人骨には刀や弓矢による傷痕が残っていました。
これは女性の頭蓋骨です。
額に穴が開いています。
この人骨は子供の骨盤で青銅の鏃が刺さっていました。
この時代の戦いの様子を今に伝えています。
およそ40haという弥生時代の日本最大級の集落跡です。
集落を囲むように深さ3m以上の堀が掘られていました。
防衛のために堀で囲まれた集落を環濠集落といいます。
戦いに勝った集落は敗れた集落を従えやがて国になっていきました。
この時代の日本列島に住む人々を知る手がかりが中国の歴史書に残されています。
当時人々は「倭人」と呼ばれていました。
歴史書によると紀元前1世紀ごろ倭人は100余りの国に分かれ大陸へ定期的に使いを送っていたといいます。
また150年ごろには「倭国は大いに乱れ国々が互いに争った」と伝えています。
農耕社会へと移り変わった当時の日本で起こった大きな変化。
それは国ができ始めたという事だったんですね。
ちょっとこちら見て下さい。
これが縄文時代に使われた石鏃です。
こちら鉄の鏃。
この時代狩猟の道具から武器に変化していったという事がこの遺物からは想像できますね。
(向井地土保込山)はい。
当時の日本これは「倭」と呼ばれていました。
その中で国同士の争いがあったといいます。
そこで「三つの要」その三を見てみよう。
2世紀後半ごろから倭の国々の間で争いが激しくなりました。
3世紀初めになって卑弥呼という女性を王に立てる事によって争いは収まりました。
卑弥呼は邪馬台国を治める女王でした。
この事について書かれた中国の歴史書「魏志倭人伝」です。
卑弥呼は呪術が得意で1,000人の召し使いに身の回りの世話をさせたと記されています。
邪馬台国を中心としておよそ30の国々を支配しました。
「魏志倭人伝」には卑弥呼が中国に使いを送り倭の王と認められた事が書かれています。
その時中国の皇帝は卑弥呼に銅鏡100枚を与えたと記されています。
当時鏡はとても貴重なものでした。
卑弥呼への贈り物として外交にも使われたぐらいですからね。
館長どうして鏡はそんなに貴重なものなんですか?もしかするとですね鏡今とは違う使われ方をしていたのかもしれません。
これについて調べてくれたのは…。
はい。
私が調べてきました。
せ〜の。
(3人)どどん!やって来ました!行ってきま〜す。
訪ねたのは京都市にある…こんにちは。
はいこんにちは。
古代の鏡を調べに来ました。
今日はよろしくお願いします!こちらこそどうぞよろしく。
村上先生は三次元プリンターという装置を使って三角縁神獣鏡の復元モデルを作る事に成功しました。
形や金属の成分などほぼ完全な姿に仕上がったといいます。
これが復元した鏡の表です。
あれ?自分がきれいに見えてます。
そうでしょう?鏡だから。
もっとぼんやりしたような…ちょっとうっすらとか感じかと思ったら。
裏側の文様も見て下さいよ。
模様がすごく細かいですね。
細かいし真ん中がとても高い。
そんなにあるんですか。
こういう所ってすごく薄いと思いません?薄いですね。
厚さどれぐらいだと思います?ないんです。
1mmもない?
(村上)こうやって復元する事によって当時の人の金属を使って物を作る物作りの技術が見えてくるんです。
なるほど〜。
次に先生が見せてくれたのは…。
これが本当の三角縁神獣鏡です。
何か信じられないですね。
オリジナルは3世紀末ごろの遺跡から出土した重要文化財の三角縁神獣鏡です。
完全な形で出土した事から復元のモデルになったそうです。
この鏡は古代の人はどうやって使っていたんですか?そこが一番問題ですよね。
はい。
重要ポイントですね。
ただ顔を映すだけだったんだろうか。
それだけでいいのかなって事ですよね。
実際に実はここで一番大事なポイントは…太陽?はい。
村上先生は太陽の光で鏡がある現象を起こすといいます。
そこで今回は太陽光と同じ光を出す特殊な装置を使って見せて頂く事に。
いきますよ。
あれ?模様が映ってますね。
(村上)これはね裏にいろいろ凸凹と文様がありましたよね。
あの文様が表のツルッとした鏡の面で太陽の光を反射する時にこういう形の文様を作るんです。
え〜!鏡の面を磨いていくと裏面の文様に応じて僅かな凹凸が出来ます。
太陽の光を当てるとへこんだ部分の鏡の面は光を集約して明るく突き出た部分は散乱して暗くなります。
こうして文様が浮かび上がるのです。
古代の光っていうのは太陽の光しかないでしょ?そういう強い気持ちをこういう鏡での反射に込めたんじゃないかと。
太陽って大事だったんですね。
太陽は大事ですね。
その大事さをよく彼らは理解してたんだと思いますし太陽の力を自分たちの権威の象徴にも使ってたと考えてもいいかもしれません。
それでは三角縁神獣鏡についてまとめました。
はい。
鏡に太陽の光を当てると反射した光に模様が映し出される事が復元から分かりました。
鏡は古代の人々の太陽信仰と関係があるのではないかと先生はおっしゃっていました。
また模様を映し出すため鏡はとても高度な技術で作られていた事も復元から分かりました。
こうした事から鏡はとても貴重なものだったという事が分かります。
土保君ご苦労さまでした。
我が女学館の特別講師尾先生です。
今日はどんなお話でしょうか。
今回はいわゆる邪馬台国論争についてお話ししたいと思います。
この図を見ながら説明します。
まず大きく畿内説と九州説とに分かれています。
もし邪馬台国が畿内にあったとすれば近畿から九州北部という広い範囲の政治的連合となり遅くとも4世紀に成立した大和王権にも直接つながる可能性があります。
一方九州にあったとすれば比較的小さい範囲の政治連合となります。
すると大和王権は九州にあった勢力が畿内に移動して大きくなったのかそれとも新たに出現した勢力が大和王権になって九州の地域を統合したという事が考えられるんですね。
ところで邪馬台国とも関わって近年注目されている遺跡があります。
奈良県桜井市にある…弥生時代末期から古墳時代初めにかけての遺跡でおよそ2km四方の広大な規模を持っています。
その特徴はまず3世紀前半のこの時期最大の建物跡が発見されている事です。
東西約12m南北約19mという大きさです。
また関東から九州北部に至る全国各地で作られたと考えられる土器などが数多く出土しています。
各地からここに搬入されている訳なんですね。
非常に広大な遺跡でまだ一部しか発掘されていません。
邪馬台国と大和王権が生まれるちょうどその間の時代の遺跡ですからこれからも期待が持てますね。
なるほど〜。
尾先生どうもありがとうございました。
(3人)ありがとうございました。
水や土地をめぐる対立や抗争に勝った集落は敗れた集落を従えやがて国が各地にできていった。
3世紀前半…2014/05/02(金) 14:00〜14:20
NHKEテレ1大阪
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詳細情報
番組内容
縄文時代の終わりごろ、大陸から水稲耕作が伝わった。さらに金属器の使用が始まり、弥生文化が成立した。土地や水などをめぐって争いが起きると、勝った集落は負けた集落を従え、規模が大きくなっていった。水稲耕作の伝来は日本各地で「国」の形成を促したのだ。農耕社会の成立から邪馬台国に至るこの時代の日本の様子を、3Dプリンターで作った三角縁神獣鏡の精密なレプリカから得られた研究成果を交えて紹介する。
出演者
【講師】高等学校教諭…尾