(カセットデッキからの音楽)漫才師・太田光が耳を傾けるのは26年ぶりに見つかった幻のテープ。
(太田)わ〜「オセーボだぜ!」すごい。
「君だけが『風に吹かれて』をほめてくれたのでお礼にこのTAPEを贈る。
忌野」。
5年前の今日58歳でこの世を去った…30代半ばから社会を歌う事に強くこだわった。
アルバムは発売中止。
挑発的な歌詞は波紋を呼んだ。
・「Hey世の中が悪くなっていく」希代のロックスターの分岐点。
そんな清志郎とかつて運命的な出会いをしていたという太田。
今社会とどう関わるべきか葛藤していた。
なぜ清志郎は変わったのか。
新たに見つかった手記。
創作の苦悩がつづられていた。
はじめまして。
どうも。
今清志郎なら何を歌うのだろう…?人にはその生きざまが凝縮された究極の日々がある。
あの日。
東京・青山に4万を超える人々が詰めかけた。
・「どうしたんだHeyHeyBaby」一人のロックスターとの別れを惜しむために…。
・「いつものようにキメてブッ飛ばそうぜ」・「Oh雨あがりの夜空に輝く」日本を代表するロックバンドRCサクセションのボーカルとして時代を駆け抜けた。
・「寝ころんでたのさ」日々の喜びややるせない気持ちを独特の飾らない言葉で歌にした。
・「タバコのけむりとてもあおくて」・「ずっと夢を見て安心してた」晩年はがんと闘いながらもステージに立ち続けた清志郎。
多くの人々に勇気を与えた。
その不屈のラストデイズ。
彼は何を見据えていたのだろうか。
・「DayDreamBelieverそんで彼女はクイーン」それは清志郎が亡くなる10年前。
彼と忘れられない出会いをした男がいる。
漫才師の…いわくつきの対面だった。
あの〜清志郎さんが俺が書いた文章に対して文句があると。
だからちょっと…当時気鋭の社会派漫才コンビとして活躍していた太田。
そんなわけねえだろ!牛歩戦術で全力疾走するわけない…。
うるさいよお前は!時事問題をウイットの効いた笑いに変え人気を集めていた。
きっかけは当時の政治を皮肉った太田のコラム。
「若者は投票に行かなくてもいい」。
そんな誤解を生みかねない過激な文章だった。
そのコラムを読んだ清志郎が突然太田に対談を申し入れてきたのだ。
当時そういう事いっぱいあったんで俺は。
ああまたかっていう感じで何か気に入らなかったのかなという。
天下の忌野清志郎ですからそりゃもう弱ったなぁという感じで。
わりと気が重いあれでしたけどね。
その席で清志郎は言った。
清志郎は30代半ばから社会へのメッセージをストレートに歌う事にこだわり始めていた。
その分岐点は1988年のアルバム「COVERS」。
洋楽のメロディーに乗せた痛烈な歌詞は賛否両論を巻き起こした。
あまりに直接的な表現に太田は違和感を感じていた。
かつての清志郎の歌に惹かれてきた太田。
こう反論した。
「トランジスタ・ラジオ」じゃないけど授業をさぼって陽のあたる場所にいたんだぜ〜ってさ。
屋上でタバコ吸ってるってそれどう考えたってルール違反な事だけどそれを軽〜く歌ってる歌の中にああ楽しい…聴いてる方は楽しいな〜とかかっこいいな〜とかって。
でも実はそこにはやっぱりドロップアウトしてる人間とか深く考えていきゃあですよ。
授業なんかやめちゃえよと。
議論はかみ合わないまま対談は終わった。
太田には一つの疑問が残った。
アルバム「COVERS」を境に大きく変わった清志郎。
その原点は一体どこにあるのか?10代の清志郎が通った東京の郊外にある都立日野高校。
未来の清志郎…。
こんにちは。
(学生たち)こんにちは。
(笑い声)田中死んじゃってさ。
(笑い声)
(笑い声)忌野清志郎の母校だって知ってた?そうですそうです。
ああそう。
当時の同級生たちが清志郎が好きだったという場所に案内してくれた。
変わってないすか。
(安斉)変わってない。
授業を抜け出し一人屋上にいる事が多かったという。
こっち?へえ〜!あ〜そうか!あれを屋根にして…。
(犬塚)そうそうそう!日常の中にある小さな心の動き。
清志郎はその思いを歌に紡いだ。
・「Woo授業をさぼってYeah」・「陽のあたる場所にいたんだよ」・「寝ころんでたのさ屋上で」この上なんですね。
・「タバコのけむりとてもあおくて」授業をさぼってここでタバコ吸ってたら確かに気持ちいいやね。
ハハハハハ。
いいよ。
学校になじめずかといって先生に反抗するでもない少年だった。
遅刻の常習犯。
ノートにはあとどれだけ休めるかを細かく記していた。
かわいいでしょ?そこにいるんだ?
(犬塚)その辺に…。
ほんとに?もう真面目一本やりですよ。
真面目っていうか…へえ〜…。
清志郎は実の両親の顔を知らずに育った。
3歳の時母親と死別。
その後はおば夫婦に引き取られた。
そんな清志郎がのめり込んだのが音楽だった。
・「職員室がきらいなのさぼくの好きな先生」高校2年の時RCサクセションを結成。
活動を始めた。
・「劣等生のこのぼくにすてきな話をしてくれた」太田は10代の自分に思いをはせていた。
高校時代クラスの誰ともなじめなかった太田。
孤独を抱えながら3年間を過ごしたという。
親ともしゃべってないし。
自分って何なんだろうとかっていうさ。
世の中となんかそりが合わないというか居場所がないというか。
みんなと同じ事できないし。
無口でおとなしい少年はやがて時代の寵児へと駆け上がる。
(歓声)・「ガガガガガガガガ!ガタガッ!」・「よォーこそ」・「昨日はクルマの中で寝た」80年代初頭。
RCサクセションは日本を代表するロックバンドへと成長した。
コンサートのチケットは軒並み完売。
日本武道館での単独ライブも成し遂げた。
生活も一変。
風呂なしアパートからマンションに引っ越した。
高級車も手に入れた。
頂点へと上り詰めた清志郎。
次第に居心地の悪さを感じるようになる。
多い時には年間100本近いコンサートをこなす過密なスケジュール。
バンドの人間関係にも不協和音が響き始めた。
清志郎の心と体は悲鳴を上げていた。
一体何を歌えばいいのか?清志郎は分からなくなっていた。
こんにちは。
こんにちは。
あ〜びっくりした。
当時RCサクセションの宣伝担当だった…清志郎のある変化に気付いた。
1987年の暮れ。
コンサートで思いがけない曲を歌い始めたという。
で年明けに…。
ワーオ!「近藤に捧げるSONGS88」。
清志さんの手紙も。
ワーオ!「オセーボだぜ!」すごい。
「君だけが『風に吹かれて』をほめてくれたのでお礼にこのTAPEを贈る。
オセーボだぜ!忌野」。
洋楽の名曲に日本語の歌詞を付けて歌う。
後に痛烈な社会批判で物議を醸すアルバム「COVERS」の原形がそこにあった。
・「どれだけ遠くまで歩けば大人になれるの?」・「どれだけ金を払えば」声が…ちょっと違うような。
(近藤)これ自宅で生ギター弾いてとってるから。
いわゆる客前の声とはちょっと違いますよね。
へぇ〜。
いやもう最高ですからこれ作りましょういきましょうって。
俺88年デビューなんですよ。
よぉく覚えてるんですあの年の事は。
当時駆け出しの漫才師だった太田。
ライブハウスで時事問題を皮肉った過激なコントを演じていた。
80年代に調査が始まった中国残留孤児。
1986年に起きたチェルノブイリ原発事故に触れた事もあった。
世の中の話題といえば原発だったですよねあの時。
どれだけ反発があるかっていうのは俺は実際そのネタもやってますしいかにそれがテレビでできなかったかっていうのも分かるし。
その中で唐突にここのど直球どストレートに来るっていうのはあんなに言葉の幅を持ってる人がなんでこんなストレートな事をやっちゃうの?
(近藤)これってみんな表現者の人とかミュージシャンはみんな持ってるものであの手この手で…考えてると思うんですよ。
一つの表現形態なのかなって僕は思ったんですけど。
社会へのメッセージをストレートに歌う。
実はこの頃清志郎のその後を大きく左右するある出来事があった。
35歳の清志郎はロンドンにいた。
初めてのソロアルバムのレコーディングを行っていた。
参加したのは70年代から社会風刺を独特のユーモアで歌ってきた先鋭的なロックバンドのメンバー。
ハロー。
ミッキージョニーハロー。
ナイストゥミーチュー。
キーボードとギターを担当したミュージシャンに当時の清志郎の様子を聞いた。
清志郎とは楽しい思い出がたくさんあるよ。
兄弟みたいなもんさ。
互いの文化は違うけどロックンロールを通じて心はすぐに深くつながったんだ。
どんな深刻な話題でも歌にしてきた彼らとの共演は清志郎に大きな刺激を与えた。
当時イギリスではサッチャー政権の下で大量の失業者が生まれていた。
更に紛争や核戦争の危機。
イギリスのミュージシャンたちはごく自然に時代を歌にしていた。
僕らのいる世界ではどんな事を歌ってもいいのだと清志郎は気付いたんだと思うよ。
イギリスには僕らよりももっと政治的な事を歌うバンドもあったしそういう自由な音楽を気に入っていたよ。
清志郎さんがあなたたちに会った事で確実に悪影響だったと思います。
(笑い声)そんな事ないよ!清志郎は日本では見つけられなかった何かをこの国で見つけたんだと思うよ。
ロックの本場イギリスでの出会いは清志郎の心を大きく揺さぶった。
アルバム「COVERS」のレコーディングが始まった。
その歌詞には清志郎ならではの社会的メッセージが込められていた。
これまでにない意欲作。
多くの友人たちに参加を呼びかけた。
しかしそのコンセプトに違和感を感じた者もいた。
その一人…あれは不思議なアルバムだわな。
不思議ですよね。
原発がテーマの「サマータイム・ブルース」。
・「日本の原発は安全です」泉谷はその歌詞があまりに直接的だと感じたという。
泉谷さんもめたんですか?もめましたねやっぱりちょっと。
やっぱ文化人になっちゃ駄目よな。
いわゆるな。
あくまでもいたずら小僧でいないといけないしめちゃくちゃやるような人でないといけないと思うんだよね。
ファンはそこが好きなんだから。
だから…政治の事口出すなって言ってんじゃないよ。
口出してもいいのよ。
ただもっとおちょくってほしいのね。
でも参加したんだ。
それは参加しますよ。
そういう気分は分かるから。
ああ…矛盾を抱えながら。
そうそう。
「サマータイム・ブルース」という気分は分かるから。
原発がなんであるんだっていう気分は分かるから。
だからそれを参加しないからどうだっていう問題ではなく参加しつつでもそういう方向にはあんまり行かない方がいいんじゃないの?とは言ったよね。
清志郎の古くからの盟友RCサクセションのギタリスト仲井戸麗市も戸惑ったという。
それでも清志郎は「COVERS」にこだわり続けた。
ちょうどその頃清志郎は古びたアルバムを受け取っていた。
幼い頃死に別れた母の数少ない遺品。
初めて見た母の顔。
その人生は波乱に満ちていた。
母は結婚間もない夫を戦争で亡くしていた。
「帰らざる人とは知れどわがこころなほ待ち侘びぬ夢のまにまに」。
かなわない帰宅を待ち続けた母。
その無念を短歌につづりアルバムに残していた。
ああすごい…うわ〜。
その当時の清志郎の手記が最近になって見つかった。
母の遺品を受け取った数日後にもペンを執っていた清志郎。
戦争に翻弄された母。
その人生に思いをはせていた。
新たな道へ踏み出そうとしていた清志郎。
母との出会いがその背中を押した。
なんかすごくね偶然とはいえすごいなんか血のつながりというかね感じましたあの頃は。
やっぱりそういう事も歌ってかないとなって思いました。
レコーディング開始から1か月後「COVERS」完成。
デビューから18年。
清志郎がたどりついた一つの答えだった。
しかし先行シングル発売の2週間前。
清志郎は都内のホテルにレコード会社の責任者から呼び出される。
おもむろに言われた。
理由を問うても「発売中止」の一点張り。
清志郎は怒りをぶつけるように灰皿を床に投げつけたという。
清志郎の思いは打ち砕かれた。
・「日はまた昇るだろうこのさびれた国にも」・「いつの日にかいつの日にか自由に歌えるさ」・「いつの日にかいつの日にか自由を」
(歓声)しかしその後…。
謎のバンドザ・タイマーズが出現。
あくまで新人だと言い張り各地のイベントなどに乱入した。
・「冗談のひとつもいえねえ」・「替え歌のひとつにもいちいちめくじらを立てる」・「いやな世の中になっちまったもんでござんすねぇ」・「えぇお客さんよどうなんだい」清志郎はあくまで歌という手段で社会を問い続けた。
・「義理も未練もありゃしねえぇ」今年49歳の太田もまた分岐点にいた。
一本の長編映画を作るという新たな挑戦に乗り出そうとしていた。
表現者として社会とどう関わるべきか葛藤していた。
クリエーターとしてはちゃんと考えて言葉をオブラートに包んだり何かに例えたり要するに作品性を高めてやってる事の方が表現者としては真っ当だと思うし。
だけど時々そんな事やってられないよという時もあるわけだよね。
だから「COVERS」が野暮だってのは俺が言えた義理じゃないんだけど。
それこそもっと俺の方が全然野暮な事はやってきてるから。
だからその気持ちも俺は分かるんだよね。
アルバム「COVERS」以降も自分を曲げる事なく歌い続けた清志郎。
何を考えどこへ向かおうとしていたのか?ワーッて学園祭か何かで暴れて。
若手のミュージシャンがむしろ怖かったと。
暴れる時は暴れるじゃないですか。
暴れるっていうのはアジったりなんかあと学校のものを壊しちゃったり。
そしたら楽屋に戻ってきたらスーッと静かに「はい次頑張ってね」みたいに言われてすごくガクッとなったと。
だからそこが清志郎さんなんじゃないか。
つまりそのテンションでステージ降りたら「君次出番頑張れよ」みたいな。
そこが清志郎さんのキャパのすごさというか。
ちょうど湾岸戦争の時にフセインの格好して出てきたんです。
へぇ〜。
なんかのゲストに出た時。
同じ事を繰り返してるだけで。
もう始まるの?・「Babyもうこれ以上俺を狂わせないで」・「Babyお願いだから」時に政治を歌い時に恋愛を歌う。
世の中にはまだ歌われていない事が山ほどある。
・「あふれる熱い涙」それを探す清志郎のラストデイズが始まった。
子供が生まれれば家族の歌を。
・「だけどよ昼間のパパはちょっとちがう」・「昼間のパパは光ってる」・「風の中に」自転車が好きになれば自転車の歌を。
・「サイクリング・ブルース」感じた事を感じたままに歌にした。
55歳で突然のがん宣告。
(歓声)その2年後の復活コンサート。
(歓声)観客たちが目にしたのは一人の不屈の男の姿。
(手拍子)・「夜から朝に変わるいつもの時間に」・「世界はふと考え込んで朝日が出遅れた」自分だけの歌を追い求めた忌野清志郎。
・「Ohもしかしたら君にも会えるね」・「JUMP夜が落ちてくるその前に」・「JUMPもう一度高くJUMPするよ」マイクを置いた。
あれから5年。
旅の終わりに太田には会いたい人がいた。
こんにちは。
あっ…。
どうもこんにちは。
太田と申します。
はじめまして。
はじめましてどうも。
清志郎の盟友RCサクセションのギタリスト…清志郎さんがあんなに若くしてね亡くなってなかったらその後のRCっていうのは…ほんと楽しみですよね。
それはねあの残念。
残念ですね。
清志郎のやっぱり60過ぎを見てみたかったしね。
なんだけどねそうなんだけどそれはほんと最近なんだけどそういう思い方ちょっとねやめるようにして。
清志郎君は58年のね…人生だったって。
清志郎君は58歳だったんだって。
若すぎるけどもうたっぷり58歳生きてやったんだみたいな事を友人としては思うべきかなと。
そうですね…。
ただ今痛感してるのは清志郎君は「RCをこうしたい」とかねすごくロマンっていうのがあったやつなのかなっていう。
今頃思って。
ははっ。
傷つきながらも走り続けた忌野清志郎。
その不屈のラストデイズから太田は何を受け取ったのか?やっぱもの作る人っつうのは鈍感になっちゃうといいもの作れないんだろうなって。
それは清志郎さんもそうだったろうしね。
ほんとに敏感に繊細に傷ついたりで優しいでしょ。
もうちょっと年とったら鈍感になりたいなって思ったんだけどそれは表現者としては落ちてくって事だよね。
表現を研ぎ澄ませていくんだったら敏感なままで子供のままで傷つきやすいまんまでいるべきだしね。
でもそれは苦しいだろうなと思うね。
うん。
今清志郎なら何を歌うのだろう。
・「お前を忘れられず世界はこのありさま」・「Oh何度でも夢を見せてやる」・「Ohこの世界が平和だったころの事」・「RCサクセションがきこえる」・「RCサクセションが流れてる」・「RCサクセションがきこえる」確かな事が一つある。
清志郎は他の誰にも歌えない自分だけの歌を歌っているはずだ。
・「RCサクセションが流れてる」・「RCサクセションがきこえる」2014/05/02(金) 22:00〜22:50
NHK総合1・神戸
ラストデイズ「忌野清志郎×太田光」[字]
忌野清志郎なら、いま何を歌うだろう?発売中止になった「COVERS」に至る道を爆笑問題・太田光が、新発見の手記や、仲井戸麗市、泉谷しげるなどの証言からたどる。
詳細情報
番組内容
キング・オブ・ロック“忌野清志郎”。彼の転換点のひとつは、社会問題を歌い突然の発売中止となったアルバム「COVERS」。彼は何を歌おうとしたのか?社会を笑いで斬ってきた爆笑問題の太田光が探る。RCサクセションの仲井戸麗市や泉谷しげるなどのミュージシャン、当時のレコード会社の担当者、写真家などに出会いながら思索を深めていく。さらに、新たに発見された清志郎の手記をひもとき、秘められた思いに迫る。
出演者
【出演】忌野清志郎,太田光,泉谷しげる,仲井戸麗市,【語り】西島秀俊
ジャンル :
音楽 – その他
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
情報/ワイドショー – 芸能・ワイドショー
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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