インタビュー ここから「田んぼから走り出した夢〜中嶋悟」 2014.05.03

(エンジン音)
日本のモータースポーツ最高の舞台…
レーシングカーを見つめる元F1レーサーの姿がありました。
中嶋悟さん。
還暦を過ぎた今も車と向き合い続けています
中嶋さんは自動車レースの世界最高峰F1に日本人として初めてフル参戦。
小柄な体で世界の強豪と渡り合う姿が共感を呼び日本にF1ブームを巻き起こします
ほんとにねあの世界がね。
その冒険への入り口はふるさとの田園風景の中にありました。
少年時代のある出会いが中嶋さんを世界で活躍するレーサーへと導いていきます
エンジンっていうものがあってねちょっとしたこうあれで自分の持てる力よりも相当なものが出るって事には多少の憧れっていうか…。
あっ接触!
ひたすら夢を追い続け一歩一歩切り開いた未来。
その軌跡をたどります
三重県の鈴鹿サーキット。
かつて中嶋さんがライバルと激しいたたかいを繰り広げた舞台です。
今も中嶋さんは自ら立ち上げたカーレースのチームの監督として最前線に立ち続けています
車の音すごいじゃないですか。
このエンジンの音聞くとどんな?まああの〜これが好きでやっていたんでやっぱり現場に入った時にそういうノイズ…ノイズと言ったら怒られるけどもこの音がですねやっぱり何気にかきたててきますよね。
じゃよろしいですか?はい。
この日レースを控えた中嶋さんにチームのピットを案内してもらいました
どうぞ。
おじゃまします。
私初めてピットに入ったんですけれどもパソコンがこう並んでますけどこれどういうふうに使うんですか?これはですね車にいろんなコンピューター積んであって走行して帰ってきた時に…そうですねもうほんとに四半世紀近くといいますか40年ぐらい通ってるわけですけども…始まりもあり終わりもあり。
そういう意味ではほんとに…
現役時代中嶋さんは国内で圧倒的な強さを見せレーサーとしてのステップを一歩一歩上っていきました。
そして34歳の時自動車レースの頂点F1でデビューを果たします
中嶋さんの走りでファンを魅了したのが「大外刈り」です。
舞台は鈴鹿サーキットの第1コーナー。
ここで先行する車を追い抜く時多くのドライバーはコーナーの内側のルートをとります。
しかし中嶋さんはあえて困難な勝負を挑みます。
外を大きく回って前の車を抜き去ったのです
ほんとに力の違いみたいなものを感じながらたたかってたと。
もちろんそうですね。
並み居る強豪とレースに臨んでいて…だからたくさん相手はいますけども…と思ってやってましたよね。
いつもいつ何時も。
残念ながら。
はい。
達成ってたたかう事はできます。
でも…
当時カーレースの世界ではヨーロッパ勢の強さが群を抜いていました。
現地では幅広く市民から親しまれていたモータースポーツ。
その伝統の違いが選手の力の差として表れていました。
日本からの挑戦者は経験も実績も乏しい新参者としてのたたかいを強いられました
難しいんだけど多分。
お手本がいないから。
好きな事をひたすら追い求める強い意志が過酷なたたかいの中走り続ける原動力だったのです
中嶋さんにとって車はプライベートでも欠かせないパートナーです
やっぱりこういうとこ車がいいわけですね。
(笑い声)
中嶋さんと車との出会いの舞台は意外にもふるさとの田園風景でした
中嶋さんが生まれたのは愛知県岡崎市の農家です。
中嶋少年にとって田んぼや畑が専ら遊びのフィールドだったといいます
一番最初に…車のきっかけと言えるかもしれません。
乗った触った経験があると僕伺いましたがこんな感じのもの用意しました。
ハハハハ!あのね50年前はうちの農家はね残念ながらこんな立派なものはなくてですね。
大変なもの用意しましたね。
いや〜そうですか。
中嶋さんどんなのだったんですか?どちらかと言うと耕うん機って感じですよね。
後ろに荷物を積むもの引っ張ったりそれからこういう鋤に取り替えて畑田んぼの中こう…ハンドルというかねあって。
四つ輪じゃないのね二輪なの。
二輪だったんですね。
俗に言う耕うん機って呼んでましたけどね。
トラクターっていうそんなぜいたくなものそんなのが入れるサイズの田んぼもあんまりなかったかも分からない。
その耕うん機をいじってみたりという事もあったわけですか?そうですね。
運転はしてないけど。
荷車の方に乗って。
後ろにね座った記憶ありますけどね。
やっぱり力強さでしょうね。
耕うん機もそうだし例えば脱穀機だとかいろんなものを動かす発動機?いろいろなベルトをつなげてね脱穀するでしょ稲を。
そういった時の発動機のガソリンのにおいとか動いてる力強さ。
いろんなものを動かすわけですからそういうのは感じましたけどね。
でもまあ原動機付きの乗り物という意味ではある意味同じですよね。
それの最初みたいなものですね。
そこからレースカーにどうシフトしていったんですか?直接は関係ないですけどもやっぱりそういう原動機の付いたものって動くっていうか走るっていうかやっぱり自分の力足腰だけの力じゃないところで動くもの。
そこら辺すごく興味を持ちました。
学校でも小柄な体格だった中嶋さん。
原動機の力強さに魅せられました。
高校生の時モータースポーツの登竜門レーシングカートで走り始めます
おじゃましてます。
こちらは岡崎市の近くにあるサーキット。
今では各地にカート用の施設が設けられていますが中嶋さんの時代には走る場所を探す事から始めなくてはならなかったそうです
中嶋さん一番最初にレースを始める時に乗ったのってこんな感じのカートですか?こんな立派なのじゃないよ。
かなりかなりかなり。
もっと遊園地…ゴーカート。
こんなスピード出ないですね。
愛知県には一つもまだ僕がやってる頃にはなかった。
僕はそれを高校生になった時に横浜まで行ったんだから。
それを体験しに。
やりにね。
横浜まで行ってたんですか?愛知県から。
ないから。
横浜のカート場行ったり八王子のカート場行ったり琵琶湖のカート場行ったりしてやってたんですから。
ほんと競争人生が始まってきたわけですね。
そんなに大層な思い込みはないですよ。
ない。
楽しいだけ。
動かしてる事が楽しいだけ。
それと競争する楽しさ。
動かす事の楽しさと競争する…。
勝てばちょっと優越感あるじゃん。
「勝てば」とおっしゃいましたけど結構勝ってたんですよね。
そうそう負ければやめる。
多分やめた。
通用しなきゃやめたと思う。
じゃあ逆に言うと勝ち続けてたわけですね。
勝ち続けるってもちろん負けもあるんだけど何らかの問題があって負ける事はあってもそうでなければ勝ってるわけだから。
勝ちを1位ばかりというか2位も3位も仲間に入れてあげるかどうかは別にしてもとりあえずそういうエリアにいたという事ですよね。
中嶋さんがレーサーとしてのキャリアをスタートさせた当時大きな悩みが資金の確保でした。
中嶋さんら若い選手たちには周囲を説得し経済的な協力を得る事が必要でした
当時ってまだレースというものがあまり一般の方々には浸透していなかった時代だったかと思うんですけどそういう中で周りの方々が援助してくれたというのは今思うと何だったと思いますか?何だったんだろう?う〜ん…。
普通の人とは違うほどそれに入れ込んだ表現してたんじゃないですかね。
ひょっとしたら。
「入れ込んだ表現」?だから俺はこれがやりたいと。
やりたいと。
もうそれしかないわけですから。
そういう意味で職業的なドライバーになる道もないわけではなかった。
非常に狭かったと思うけどもね。
ただそこまで考えてやってたんじゃなくてとにかく速く走る事車を操る事が面白くてあわよくばみたいなね。
あわよくば何かあるかなみたいな。
でも「自分はレーサーになる」って言ったって誰も「え?」みたいな事なんですよね。
だからなかなか…。
例えばねお医者さんになるための学校へ行くならこういう予算とか何かあるじゃないですか。
どっかの会社の従業員になるのであればこういうラインがあるわけ。
ましてレーシングドライバーのラインない。
ないものをやるからうそもつけたかも分からないね。
うそって言うと言葉悪いね。
簡単に言うとね。
相手が分からないんだから。
自分も分からないけど。
自分も確固たるものはないんだけれども夢みたいなものを話すわけでしょ。
例えばHondaトヨタ日産のメーカーとの契約ドライバーになれるとか可能性がゼロではないとかね。
中嶋さんは国内での圧倒的な強さが認められ24歳でイギリスでのレースに参戦を果たします。
この時同時に行われていた世界最高峰F1の華やかな光景が中嶋さんに明確な目標を与えました
24歳の時に見たイギリスの光景というのは今でも覚えてらっしゃいます?覚えてますね。
ほんとに華やかに見えましたよ。
華やかだし速いし何か違ったんですよね。
やっぱり僕がカートを触ってる時もそうだし日本でレースやってるプライベートでやってる間もそうですけども職業とかその事が世の中に文化として認められてるような気があんまりしなかった。
当時?うん。
自分はね国内ではね。
だけどイギリスのレース場行ったら何かすごいたくさんもちろん人も来るけどじいちゃんばあちゃんも子供も大人も…皇族も来てる。
戦闘機が飛んできて展示飛行する。
僕が見たのは。
コースのとこブワーッと飛ぶわけで…。
そうそう。
ほんとグランドスタンドの屋根の横を飛んでいっちゃったりとか。
だからこれっていいなと。
ちゃんと認められた事なんだな自分たちがやってる事は。
ここではと。
ここではっていうのはイギリスでは。
僕が勝手にそこで「自動車運転手はここへ来ないと駄目だな」と勝手に思っただけだから自分が。
これいいじゃん。
ここ来て走る事が自分のやってる事の最後の舞台だろうなって。
逆にここへ来ないと何もなんないんだみたいな。
ここへ来ないと立証できないなみたいな。
自分のね車の運転がね。
中嶋さんはF1レーサーとして5年間世界のライバルとしのぎを削りドライバースーツを脱ぎます。
もがきながらも日本人として初めて切り開いたF1レーサーへの道。
以降レーサーを志す若者の道しるべとなりました。
引退後の中嶋さん。
車は楽しくて快適な乗り物であるとその魅力をさまざまな形で伝えています
昨年度には地元愛知県の交通安全キャンペーンリーダーに就任。
安全にそして楽しく車とつきあっていく事を訴えました
若者がモータースポーツに親しむ場を広げたいとも考えています。
自身の原点の地である鈴鹿ではカートなどを通し走る楽しさを伝えています
とにかくこういう乗る場所を安価でやりたい人に提供する事の方が先決なの。
その中で勝手にその気の人とその才能その他がある人は行くから。
だからその場があるかないかの方が重要な事だと僕は思ってたのね。
触れる場所が。
例えば今こういう立派なサーキット幸田サーキットがあるわけですけどこんなものはもちろんなかったんでね昔。
ここへ来てひょっとして子供がこれに初めて乗って「わっすごい!」と思ったらその次があるかも分からないじゃないですか。
だからそういう場を僕は提供する事の方が重要だと思う。
中嶋さんは今レーシングチームが主な活動の中心だと思うんですが残りはどうやって走っていきたいですか?走っていきたいってちょっとかっこよすぎますか?レーサーなので走って…。
いやいやいや。
あんまり速く走ると終わっちゃうといけないんで。
ほんとに今のある種ある程度確立された日本のモータースポーツの世界がねそんなに急がなくてもいいけども定着と少しの進歩っていうかな。
…があってその中に自分も徐々にクーリングダウンしながら子供たちが引っ張っていってくれるというかつないでいってくれればそれ理想ですよね。
そういう安定した世の中である事を期待しますけど。
いつかイギリスで見たみたいにあらゆる世代の人たちが見に来て歓声あげてもらえるような世界が来れば時代が来れば一番いいですね。
今それになりつつありますからね。
ふるさとの田園風景で見つけた夢。
中嶋さんはそれをひたすら追いかけてきました。
これからも車と共に走り続けます
収録終わり。
チェッカーフラッグ。
中嶋さんとのインタビュー終わりました。
終わりました。
2014/05/03(土) 06:30〜06:53
NHK総合1・神戸
インタビュー ここから「田んぼから走り出した夢〜中嶋悟」[字]

元F1ドライバー中嶋悟さんがモータースポーツを志すきっかけとなり、世界での戦いの日々を支えたのは、少年時代のある「感激の体験」でした。

詳細情報
番組内容
F1ドライバーとして世界で戦ってきた中嶋悟さん。中嶋さんがモータースポーツを志すきっかけとなったのは、少年時代にふるさと愛知県岡崎市でめぐりあった、ある「感激の体験」でした。最高峰F1という遠い夢を実現するまでの道のりで、そして、強豪たちとの戦いの日々の中で、中嶋さんを支えてきた思いをうかがいます。鈴鹿サーキットのピットでの迫真のインタビューも必見。
出演者
【出演】元F1ドライバー…中嶋悟,【きき手】比田美仁

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – インタビュー・討論

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