時論公論 「問い直される責任 水俣病最高裁判決」2013年04月17日 (水) 

飯野 奈津子  解説委員

<イントロ>
水俣病の患者認定を巡る裁判で、最高裁判所は、行政の審査で認められなかった、熊本県の女性を、水俣病と、認める判決を言い渡しました。行政の患者認定の在り方が、厳しく問われたことになります。今夜の時論公論は、最高裁判決の意味と今後の課題について考えます。
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<水俣病の歴史>
公害の原点ともいわれる水俣病が、公式に確認されてから半世紀以上たちますが、問題は今も解決に至っていません。なぜ、ここまで長引いたのか。それは今回の判決とも大きくかかわります。その判決を理解する上で、水俣病の長い歴史を知っておく必要があります。
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水俣病は、熊本県水俣市にある、化学メーカ・チッソの工場排水の中の有機水銀が魚介類に蓄積し、それを食べた人が有機水銀中毒を起こしたものです。
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水俣病が公式確認されたのは、1956年。それから公害と認定されるまでに12年もかかりました。
被害者への本格的な補償が始まったのは74年。この時に、国が決めた「認定基準」をもとに、行政が審査して患者と認定された人に、原因企業が補償する仕組みができました。
その3年後、国は新たな認定基準を出します。ところがその基準を満たせずに、認定から漏れる人が相次ぎ、救済を求める裁判が各地で起こります。
その混乱を収めようと、95年、患者と認定されなかった被害者に、一時金などを支払う政治解決が実施されますが、最終決着とはなりませんでした。
2004年に、最高裁判所が国などの責任を認めたことをきっかけに、再び救済を求める裁判などが相次いだからです。
国は2009年に二度目の政治解決として、特別措置法を成立させます。患者として認定されなかった被害者に一時金などを支払う新たな救済策を示し、そのための手続きが現在も進められています。

<問題が長引いた原因>
このように水俣病の歴史は、患者の認定を巡って紛争が起きるたびに、国が解決策を打ち出し、また紛争が起きる。その繰り返しでした。その根底には、患者かどうかを決める行政審査に対する、被害者側の不満があります。
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これは、被害者を補償・救済する枠組みをしめしたものです。
これまでに患者と認められたのはおよそ3000人です。1000万円から1800万円の範囲内で一時金などが支払われました。
1995年の政治解決で救済された被害者はおよそ1万1000人。260万円の一時金などが支払われました。
特措法の救済策では、210万円の一時金などを支払うことになり、6万5000人余りが申請しています。

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国は、ここに線をひいて、患者と被害者をわけてきました。患者と認定する国の基準は、代表的な症状とされる手足の感覚障害や運動失調といった複数の症状の組み合わせが、ある場合です。組み合わせがなくても「総合的に検討する」としていますが、ほとんど認められたケースがありません。感覚障害だけの人は、患者ではなく被害者とされてきたのです。症状があるのになぜ患者と認めないのか。水俣病でなければ何の病気なのか。そうした思いで、被害者は、これまで戦い続けてきました。

<裁判の争点>
さて、今回の裁判です。
感覚障害がありながら、患者と認められないまま亡くなった熊本と大阪の二人の女性の遺族が、患者として認めるよう求めました。最大の争点は、国の基準に基づく行政審査が妥当どうか、ということです。

<最高裁の判断>
行政審査の妥当性について、2審の判断はわかれていました
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福岡高等裁判所は、「国の基準だけで判断するのは不十分」として熊本の女性を水俣病と認定した一方、大阪高等裁判所は、「基準は医学的見解からみて妥当で手続きに誤りもなかった」として大阪の女性を認めませんでした。
最高裁の判決は、国の認定基準について「迅速な判断をするための基準として一定の合理性がある」とした上で、「症状の組み合わせがない場合でも総合的に検討して水俣病として認定する余地はある」と指摘しました。そして熊本の女性を水俣病と認め、大阪の女性については、大阪高裁に審理のやり直しを命じました。

<最高裁判決の評価>
では、この判決をどうみればいいのでしょうか。
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行政が水俣病と認めなかった女性を、裁判所が認定したことに、大きく二つの意味があると思います。
▼ひとつは、行政審査で認められない場合でも、裁判を起こせば、水俣病と認定される道が広がる可能性が出てきたこと。もうひとつは、これまでの行政の患者認定の在り方が硬直的だったのではないかと厳しく問われたことです。そのために、これまで、本来認定されるべき被害者が切り捨てられてきた可能性もあるということです。
しかし、裁判で認定される道が広がったといっても、被害者が裁判を起こすのは大きな負担です。そうなる前に、行政自ら、認定の在り方をより柔軟に改めていくことが強く求められると思います。認定制度は患者切り捨てのためではなかったはずです。その原点を思い起こす必要があります。

<今できることは?>
では、認定のあり方を改めれば、水俣病の問題は解決するのでしょうか。
先週、水俣を訪れて感じたのは、そう簡単ではないということです。
不知火海の海はきれいで、かつて水俣病の問題を引き起こしたことなど想像もできませんでした。しかし一歩地域の中に足を踏み入れると、国に救済を求める被害者がいる一方で、原因企業であるチッソがつぶれると困るからこのまま放っておいてくれという声もありました。地域の人たちの思いがますます複雑になっていることを痛感して、正直切なくなりました。ですがだからといって問題の解決に向けて何もしないわけにいきません。今からでも、できることはあるはずです。
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▲たとえば、不知火海全域の住民を対象に健康調査を行って、潜在的な被害者を掘り起こすことです。これまで被害の全容を一度も調べずにきたために、何が水俣病かという根本も、十分明らかになっていないからです。
▲特措法による救済策の見直しも検討が必要ではないでしょうか。住んでいる地域や年齢によって対象を限定している今の線引きは妥当なのか。救済の対象外とされた被害者の間に、新たな裁判を起こす動きも出ています。すでに申請は締め切られましたが、救済策を恒久化することはできないでしょうか。今なお偏見や差別、原因企業であるチッソとの関係を心配して、手を挙げられない被害者もいるからです。
▲そして、水俣病の被害者が、地域で暮らし続けることができるよう、福祉を充実することです。病気や障害を背負い、差別や偏見にさらされた被害者にとって、補償金を受け取っただけでは本当の幸せにつながらないからです。障害があっても働ける場を地域に確保し、必要な介護を受けられる体制にすることが、被害者とその家族の安心を支えることになると思います。

<まとめ>
水俣病は、戦後日本が高度成長を始めた時期に、成長の犠牲を強いる形で起きました。多くの人が、すでに過ぎ去った昭和史の中の事件と考えているかもしれませんが、発生当初からの対応の遅れもあって、半世紀以上たった今も問題が続いています。そのことから目をそむけずに、被害者の思いに寄り添って救済に手を尽くしていくことが大切なのだと思います。

(飯野 奈津子 解説委員)