じろう丸の徒然日記

私こと、じろう丸が、日常の出来事、思うことなどを、気まぐれに書き綴ります。


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昭和26年12月に、関大尉の元上官によって書かれた一冊の本が出版された。

「神風特別攻撃隊」という本である。
著者は第一航空艦隊航空参謀猪口力平中佐第二○一航空隊飛行長中島 正中佐の共著となっている。
この本は発売されるやベストセラーとなり、関大尉特攻の命令が下される場面はとことん美化されて書かれてあったために、多くの人に特攻に関する間違った認識を植え付けたのであった。
この本では、関大尉は自分から望んで特攻隊指揮官を引き受けたことになっている。
関大尉は、夜中に寝ているところを起こされ、上官の元に呼ばれた。
第二○一航空隊の副長の玉井浅一中佐という人が、新任の第一航空艦隊長官から比島(フィリピン諸島)防衛「捷号(しょうごう)作戦」を成功させるため、零式戦闘機250キロ爆弾を抱かせて体当たり攻撃をするよう命じられた、と関大尉に言った。
玉井中佐はさらに、その指揮官関大尉が引き受けてくれないか、と涙ぐみながら関大尉にたずねたそうな。
関大尉は、唇をかたく結び、目をつむったまま俯いて沈黙したきり、しばらく返事をしなかった。
だがやがて顔を上げると、
是非、私にやらせて下さいと、少しの澱みもない明瞭な口調で言った。
玉井中佐もただ一言「そうか!」とだけ言って、関大尉の顔を見つめた。
急に重苦しい雰囲気が消えて、雲が散って月が輝き出たような爽々しい感じだった。‥‥と、「神風特別攻撃隊」はこの場面を感動的に結んでいる。
 
森氏も初めてこの本を読んだときは、この場面を事実だと思ったそうである。
だが、7年後にこれを覆す記録「神風特攻隊誕生秘話」が出た。筆者はサンケイ新聞出版局長をつとめる小野田 政という新聞記者。
小野田記者は、特攻隊誕生当時、同盟通信社社会部から海軍報道班員として、関大尉のいるマバラカット基地に派遣されていた。
小野田記者特攻隊指揮官を引き受けた関大尉を飛行場の後ろを流れるバンバン川の河原に連れ出して、心境をたずねた。
関大尉特攻隊指揮官を引き受けたときの状況を次のように語った。
玉井中佐「頼む、最初はやはり海兵出身者が指揮をとるべきだと思う。貴様が一ばん最初に行ってくれると大助かりだ。全軍の志気の問題だ」と言った。
関大尉「是非、私にやらせて下さい」とは言わず、
「承知しました」と無造作に言っただけだったという。
「まさか、自分が指名されるとは思ってもみなかった」とも、関大尉小野田記者にもらしている。
 
さらに、関大尉小野田記者に、次のような言葉を吐き出していた。
「報道班員、日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら体当たりせずとも敵母艦の飛行甲板に五〇番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある」

 
「ぼくは天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のケー・エー
(注:愛妻の意)のために行くんだ。命令とあれば止むをえない。日本が敗けたらケー・エーがアメ公に強姦されるかもしれない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだすばらしいだろう!」

 
関大尉
はここでハッキリと「命令」と言っている。
さらに彼は、飛行服の内懐から新妻の写真を取り出してキスをしたり、彼女との恋愛時代のノロケ話などを小野田記者に話して聞かせた。

 
「ぼくは二十五年の短い生涯だったが、とにかく幸福だった。しかし、列機の若い搭乗員たちはエスプレイ(注:海軍用語で芸者遊びの意)もしなければ、ポスる性の交りことも知らないで死んでいく。インテ恋人もいるだろうに‥‥」
 
これが最初特攻隊隊長関 行男大尉の真実の素顔だった。
彼に特攻を命じた者たちが、勝手に彼が自分から志願したかのような美談(いわゆる特攻神話)を捏造して広めたのだ。
関大尉沈黙部分など、そのあとの「是非、私にやらせて下さい」のセリフを効果的に活かすために創られた伏線だと考えた方が良い。
 
最後特攻隊長中津留達雄大尉については、次の記事で書く。

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