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憲法記念日に  解釈改憲は平和の土台崩す

 伊勢﨑賢治・東京外国語大教授は、国連平和維持軍に加わり、アフガニスタンなどで、軍閥の武装解除に取り組んできた人である。
 敵意が充満する現場へ丸腰で赴く。そこで当事者と粘り強く交渉すると、「日本人が言うなら仕方がない」と武器回収に応じてくれることが多い。戦争をしない、武器を輸出しない平和国家のイメージがあるからだという。その体験を踏まえ「憲法9条こそ世界のテロ戦争に風穴をあける最後の希望の星」だと語る。「平和外交に9条はまだまだ使えるのに、活用しきれていない、もったいない」

 揺さぶられる9条

 その9条が安倍晋三政権の下で大きく揺れている。従来の解釈を変更し、海外での武力行使に道を開く集団的自衛権の行使容認へと踏みだそうとしているからだ。
 連休明けにも、首相の私的諮問機関「安全保障の法的基盤の再構築に関する有識者懇談会」(安保法制懇)が報告書を提出し、政府・与党内の議論が本格化する。政府は夏以降の閣議決定を目指す。
 戦後69年。無謀な戦争で300万人以上の国民が犠牲になり、諸外国に多大な被害を与えた反省から日本は再出発し、平和主義の下で今日の繁栄を築いてきた。その平和主義の基軸となったのが、戦争を放棄し、戦力を持たないと宣言した9条である。
 矛盾を指摘する声があるのも事実だ。戦力を持たないとしながら日本は「必要最小限度の実力組織」として自衛隊を持ち、日米安全保障条約で守られてきた。冷戦後は国際社会や米国の要求に応えるため、国連平和維持活動(PKO)への参加や朝鮮半島有事を想定した周辺事態法の制定、アフガニスタン戦争などを通し、自衛隊の活動範囲を少しずつ広げてきた。
 それでも「海外での武力行使をしない」という一線は踏み外すことがなかった。「専守防衛」を国是とし、集団的自衛権の行使を認めてこなかったからだ。その歯止めがあればこそ、他国の戦争に巻き込まれることがなく、自衛隊は創設から約60年間、他国の人を殺さず、戦闘で死亡した隊員を一人も出さなかった。その事実を私たち日本人は誇っていい。
 集団的自衛権とは、日本が直接攻められていなくても、米国など密接な関係にある同盟国などが他国から攻撃された時に、自国への攻撃とみなして反撃する権利だ。国連憲章は、自国への侵害を排除する個別的自衛権とともに、主権国固有の権利として認めている。

 集団的自衛権の行使

 しかし日本政府は国際法上の権利としては認めつつ、行使については9条の制約から「国を防衛するための必要最小限度の自衛権の範囲を超える」と解釈し、できないとしてきた。それは、歴代政権が長年の議論を経て積み重ね、定着してきた憲法解釈である。
 その変更に、安倍政権は前のめりだ。法解釈を担う内閣法制局長官を集団的自衛権の容認派にすげ替え、首相の考えに近い「お友達」を集めた安保法制懇で行使条件などを検討させている。さらに国の自衛権を認めた砂川事件の最高裁判決(1959年)を持ち出し、学界の常識に反して集団的自衛権行使容認の論拠にしようとした。
 社会の変化などに伴い、法解釈が変わることがあるのは事実だ。しかし、国民の権利や国の将来像にかかわる問題では、おのずから制限がかかる。集団的自衛権のような戦争と平和の選択にかかわる問題を政府の身勝手な判断で自ら変更することは、あってはならないことだ。
 安倍政権が進めようとしていることは、政治権力の乱用を縛る立憲主義へのあからさまな挑戦であり、暴走というほかない。閣議決定で解釈を変更できるような軽々しい問題ではなく、堂々と憲法改正の手続きを踏み、国民投票を経て行うべきものだ。

 対等な同盟への志向

 安倍首相は集団的自衛権の行使を「放置すれば日本の安全に大きな影響の出る場合」などに限定する方針という。だが、いったん認めれば、解釈は際限なく広がり、9条が空文化する恐れが強い。自民党の石破茂幹事長は、自衛隊が「地球の裏側」で活動する可能性を排除すべきでないとの持論を繰り返し、公明党の反発を買った。
 「戦後レジームからの脱却」を目指す安倍首相は、60年の日米安保条約改定で日本防衛義務を米国に認めさせた祖父の岸信介元首相について、日米の双務性を高めるために行ったとし、自らの世代の責任を「日米安保条約を堂々たる双務性にしていくことだ」と語ったことがある。集団的自衛権行使に向けた執念の背景には、そうした対等な「血の同盟」を目指す国家観がある。東アジアの安全保障環境の変化だけが理由ではない。
 政治学者の故丸山真男氏は、憲法の平和主義の意義について「現実の政策決定への不断の方向づけ」にあると説いた(「憲法第九条をめぐる若干の考察」)。国際緊張を激化させず、緩和する方向に政策を積み重ね、全面軍縮への積極的な努力を不断に進める。
 その9条の精神を、遺産として未来へ引き継げるのか。私たちは大きな瀬戸際にある。

[京都新聞 2014年05月03日掲載]

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