社説:集団的自衛権 改憲せず行使はできぬ

毎日新聞 2014年05月03日 02時30分

 日本の平和と安全は、二つの柱で支えられてきた。平和国家の原則を示す日本国憲法と、軍事抑止の装置である日米安保条約だ。

 憲法9条によって、日本は戦争を忌避し、軍事に抑制的に向き合う平和主義の国、というイメージを国際社会に浸透させてきた。

 一方、日米安保条約は、巨大な基地と補給拠点を米国に提供することと引き換えに、外国からの侵略を防ぐ役割を果たしてきた。

 9条の理念を、安保のリアリズムが補う。一見矛盾する二つの微妙な均衡の上に、日本の国際信用と安全がある。軽々しく崩してはならぬ、「国のかたち」である。

 ◇限定容認の先は何か

 安倍政権は、その憲法9条が禁じている集団的自衛権の行使を、政府の解釈を変えることで可能にする、という。条件をつけた「限定容認」であれば、憲法9条の枠は超えないだろう、という理屈だ。

 集団的自衛権とは本来、他国の要請で他国を守るため、自衛隊が出ていくことである。限定容認の先に何があるのか、私たちは深く、慎重に考えてみるべきだろう。

 自民党は憲法改正草案をまとめている。集団的自衛権の行使で、湾岸戦争の時のような多国籍軍への参加や、他国領土での戦闘参加が可能になるという内容だ。限定容認に踏み出せば、次はよその国と同じ軍隊になることが見えてくる。

 行使する対象国には、米国のほかオーストラリアやフィリピンなどが挙がっている。これは、北大西洋条約機構(NATO)の事実上の西太平洋版にあたる、新たな集団安全機構の構築を意味しよう。

 中国を包囲する形での、NATO的システムとなれば、日本とアジアの将来に大きな影響を与える。集団的自衛権の限定行使が、こうした軍事ビジョンを実現するための一歩であるなら、それが果たして地域の秩序を安定させる道筋なのかどうか、徹底的な議論が必要だ。

 集団的自衛権は、抑止力を強化するとする考え方がある。

 しかし、歴史を振り返れば、それを名分にした参戦と戦火の拡大が多いことに目を向けたい。

 100年前の第一次世界大戦で、日本は日英同盟を根拠に中国のドイツ領を攻め、21カ条要求で中国侵略の端緒を作った。米国が介入し泥沼化したベトナム戦争で、米国の派兵要請に応じた韓国の戦死者は、5000人近くにものぼる。

 米同時多発テロ後、NATOが集団的自衛権を行使し、米国とともに戦ったアフガニスタン戦争では、英国の450人をはじめ、加盟各国が多くの犠牲者を出した。

 9条が禁止してきた、さまざまな形での自衛隊の投入が、集団的自衛権を行使すればできるようになる。それは、日本を支える二つの柱から憲法を外し、安全を日米安保のみに依存することに等しい。

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