揺らぐ憲法/立憲主義の本旨、再認識を
平和の枕詞(まくらことば)と共にあった憲法が大きく揺らいでいる。改正論議が活発化しているから、ではない。立憲主義の根本原理に「解釈改憲」の形で政治が切り込もうとしているためだ。
安倍政権は集団的自衛権の行使容認に踏みだす構えだ。戦後、長期にわたり、憲法9条に基づいて「権利はあるが、行使はできない」とされてきた集団的自衛権の解釈を閣議決定という方法で改めようというのだ。
集団的自衛権は、密接な関係にある外国(同盟国の米国など)への武力攻撃を、自国が攻撃を受けたものとみなし、実力で阻止する権利。ことは「必要最小限度」の実力行使を自衛権発動の歯止めとしてきた安保政策の根幹に関わる。その大転換を解釈を変えることで押し切ろうというのは乱暴にすぎる。
解釈で変更可能となれば、政策の安定性も保てまい。
当初、憲法改正の手続きを定めた96条を改めて改憲の障壁を低くしようとしたが、世論の支持が低迷、選挙公約の国家安全保障基本法制定も待たず、簡便な手法に乗り換えた経緯がある。姑息(こそく)のそしりを免れまい。
憲法を素直に読めば、自衛隊が国外の軍事行動に加われないのは自明だ。「戦争をしないニッポン」の評価が国内外に定着しており、覆すとなれば、戦争準備との疑心も生じよう。
当然、幅広い国際理解が要る。日米安保条約の相方、米国の「支持」だけでは足りない。
圧倒的だった米国の力が陰り、中国の軍備増強や北朝鮮の挑発的な動きという時代・環境の変化を受けて、政府は日米の役割分担の必要性を強調する。そうした事情を承知しつつ、「平和国家」に対する国際的信頼が国益を支え、「軍事によらない安全保障」に大きく貢献してきたことも見落とせない。
安全保障における軍事の役割は一面にすぎず、外交力や人的・物的交流も重要。周辺国との緊張をさらに高めることのないよう説明を尽くす必要もある。
集団的自衛権をめぐる問題は、容認の是非もさることながら、立憲主義の本旨と衝突する側面も軽視できない。事実上、政府の一存で「実質的な改憲」を行うならば、憲法自体への信頼性を深く傷付けよう。
憲法は強大な「国家権力」を縛り、国民一人一人の「権利」「自由」を守る最高法規だ。閣議で都合良く解釈を変更し、自衛隊の運用などは別途、法改正で対応するというのであれば、権力の暴走を招きかねない。
環境の変化には敏感でなければいけない。ただ、近代戦争の多くが「自衛」の名の下に起こされた事実を受け止め、解釈の拡大には慎重であるべきだ。
仮に集団的自衛権の行使を認めるというのであれば、憲法の改正が筋だ。国民にその必要性を時間をかけて説き、正規の手続きにのっとり、審判を受ければいい。そのための改正国民投票法の今国会での成立が確実視されているではないか。
憲法施行から67年。そのあり方、憲法観が問われている。
2014年05月03日土曜日