2014-05-02
アニメ批評は存在しない・3 物語論という檻 ― 山川賢一『成熟という檻』書評
作品評論には、論者独特の切り口から思いもよらぬ解釈を引き出すことをめざしたものもあれば、論者の個性をなるべく抑えて、作品のスタンダードな解釈を築くことを目的とするものもある。本書は自分なりに後者の評論をめざしたものだ。(p196)
「おわりに」の冒頭でこのように記されているように本書は一般的な批評とは異なり、「作品のスタンダードな解釈を築くこと」を目的としている。このような手法を用いたのは「はじめに」で言及しているように、斎藤環『戦闘美少女の精神分析』や宇野常寛『ゼロ年代の想像力』のような「乱暴な議論」(p10)を避けたためであろう。この批判には若干の物足りなさを感じるものの山川氏がそれらとの差別化を図り、『魔法少女まどか☆マギカ』をテクスト論的に論じてその独自性を導き出そうとしている点は評価できる*1。
- 作者: 山川賢一
- 出版社/メーカー: キネマ旬報社
- 発売日: 2011/08/10
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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さて、このエントリでもまた「アニメ批評は存在しない」という観点から読み解くことにしたい。本書は『まどマギ』関連の資料が数多く参照されており、そのような資料が無視されがちな従来のアニメ批評のアンチテーゼとなっている。しかし、それら資料は脚本を担当した虚淵玄に関するものばかりであり、監督である新房昭之への言及は一箇所しかない。その箇所もまた「当初、プロデューサーの岩上敦宏と監督の新房昭之が虚淵玄に期待していたのは、魔法少女たちに『フェイト/ゼロ』のような、ハードな異能力バトルを行わせることだった」(p34)というものである。そう、本書は『まどマギ』の脚本にのみ焦点を当てた批評なのだ。実際、本書はJホラーやSFとの関連性を論じることが多い反面、他のアニメ作品はあまり挙げられていない。よって、本作がなぜアニメというジャンル(媒体)で描かれる必然性があったのか、というアニメ批評的な問いには答えられていない。
この欠点が顕著に表れたのがループ構造に関する記述であろう。山川氏は「ここ一〇年くらいのマンガ・アニメ・ゲーム・ライトノベル」でタイムループのモチーフが数多く使われていることから評論家の一部に『まどマギ』は「近年はやりのパターンをくっつけただけの作品」(p117)と批判されていることに言及し、次のように述べる。
もっとも、エンタテインメントはおなじモチーフを何度も流用するものであり、作り手の技量はむしろそれをどう料理するかにあらわれるのだから具体的にどの作品とどこが似ていて、どのようにオリジナリティがないのかを言わないかぎりこの手の批判はナンセンスである。(p118)
この批判は概ね同意できる。一部の評論家は過去の作品との類似性を指摘した上で新規性がないと批判することがあるが、それだけではその作品を批判したことにはならない。ところで、山川氏は具体的に誰が『まどマギ』を批判したのかには触れていないが、おそらくここでは東浩紀のことを指しているだろうと推測できる。彼はUstreamの配信において『まどマギ』が『Ever17』や『CROSS†CHANNEL』といった過去の美少女ゲームの焼き回しに過ぎないと明言し、一部で話題になった*2。確かにこの配信だけ見ると、東浩紀が単にループ構造という共通点のみを指摘しているに過ぎないように見える。ただ、東の批判にはもっと深い意図があったのではないだろうか。
それを考えるために東の「萌えの手前、不能性に止まること―『AIR』について」(『美少女ゲームの臨界点』→『ゲーム的リアリズムの誕生』所収)という論考について考えてみよう。ここで東は美少女ゲーム『AIR』を論じる際、頻繁に「批評的」という言葉を用いていた。そして、最後になってこの言葉の意味を解説している。
筆者がここで「批評的」という言葉にこだわるのは、「批評的=臨界点」(critical)とは、本来、明示的な批判や非難を指すのではなく、文学でも美術でもアニメでもゲームでも、とにかくなにか特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう、そのようなアクロバティックな創造的行為一般を指す形容詞だったはずだからである。(「萌えの手前、不能性に止まること―『AIR』について」)
東にとって『AIR』は「特定のジャンルにおいて、その可能性を臨界まで引き出そうと試みたがゆえに、逆にジャンルの条件や限界を無意識のうちに顕在化させてしまう」作品であり、それを「批評的」という形容詞で表現していた。すると、東にとって『Ever17』や『CROSS†CHANNEL』もまた「批評的」な作品だったのではないだろうか。実際、『ゲーム的リアリズムの誕生』において『Ever17』が美少女ゲームの特性を活かしたトリックを用いていると論じている。しかし、『まどマギ』に対してはアニメというジャンルの条件や限界を顕在化させてしまうような「批評的」側面を見いだすことができず、単に美少女ゲームの物語構造を援用しているように見えないからこそ批判したのではないだろうか*3。
そう考えると確かに『まどマギ』のループ展開をアニメで行う必然性を『成熟という檻』では説明されていない。その点、東に対する批判の応答と仮定した場合に十分な回答とはいえないだろう*4。やはりアニメとしての『まどマギ』を論じる場合、物語論だけでなく表現論やメディア論からの検討が欠かせないのではないか*5。東のアニメに対する批判は今のアニメ批評が「批評的」な作品を見つけ出せていないことに向けられているように思えてならない。
シリーズ「アニメ批評は存在しない」
1 「アニメ批評というフロンティア」と本シリーズについて
2 音声の表現史として ― 細馬宏通『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』書評
参考文献
- 作者: 東浩紀
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- 発売日: 2004
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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)
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- 作者: 斎藤環
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- 作者: 東浩紀
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- 作者: 東浩紀,北田暁大
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- 作者: 荒川 弘
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*1:評論家自らが構築した理論や方法論を伝えるには「同じモチーフがどの作品でも必ず同じ意味を持っている」(p9)と仮定した方が便利であり、その点を批判してもしかたがないだろう。また、斎藤や宇野はそれらが「乱暴な議論」であることに自覚的であり自身の理論を援用して、個別の作品を論じることもある。
*2:その配信は動画として残っており現在でも視聴可能である。 contectures 05/08/11 10:22AM
*3:ただし、東は初めからアニメに対して批判的であったわけではない。1996年に発表された「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(『郵便的不安たちβ』所収)において『新世紀エヴァンゲリオン』を高く評価していた。先の動画でも「エヴァンゲリオンはやっぱり壊してるもん。前のアニメとかなにかを。[……]『まどマギ』は全然壊してないよ」と発言しており、彼にとって『新世紀エヴァンゲリオン』は「批評的」な作品にカウントされていたと考えられる。
*4:テレビアニメの特性を活かしループを用いた作品にとして『涼宮ハルヒの憂鬱』シリーズの「エンドレスエイト」を挙げることができるであろう。ボクは本作が「批評的」な作品と呼ぶに値すると考えている。
*5:黒瀬陽平は「キャラクターが、見ている」(『思想地図 vol.1』所収)において、「語られる物語の構造を抽出することで、比較的容易に抽象的な概念について議論する」物語論と「ジャンルが要請する固有の表現」を議論する「表現論」を対比的に論じ、マンガ表現論の代表例として夏目房之介や伊藤剛を挙げている。しかし、ジャンルの固有性は表現論によってのみ分析されるものではない。例えば、泉信行は「マンガにおける視点と主体を巡って」(『ユリイカ 2008年6月号』所収)において自身のアプローチが夏目や伊藤のアプローチと混同され「表現論」と呼ばれることに反発し、あくまで「メディア論」であることを強調している。