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二十一世紀日陰者小説

2012.10.16(Tue)

『ドン・キホーテ』の折り畳み傘 ――『中二病でも恋がしたい!』と『涼宮ハルヒの憂鬱』と

中二病でも恋がしたい!  (1) [Blu-ray]

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ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈前篇1〉 (岩波文庫)

「いやはや、なんとたわけたことを!」と、ドン・キホーテがひきとった。「検閲官によって認可され、国王陛下の勅許を得て印刷された書物、大人も子供も、貧しき者も富める者も、学識ある者も無知な物も、平民も貴族も、つまるところ、その地位や境遇を問わず、ありとあらゆる人びとがひとしく喜びを覚えながら読み、褒め称える書物が嘘いつわりであるはずがござろうか?」

ミゲル・デ・セルバンテス『ドン・キホーテ』前編(三)、319頁、牛島信明訳

 『中二病でも恋がしたい!』*1、二話まで観た。これは、『涼宮ハルヒの憂鬱』の痛烈な(セリフ)パロディ、あるいは自虐的な痛々しさを伴った批評である、と言うことはもうすでにいろんなところで百万回ぐらい言われているはずだが、それでも言う。小鳥遊六花はハルヒであると。そしてそれ以上に、ドン・キホーテであると。


 言うまでもなく、フィクション(小説)は二種類に分けられる。「『ドン・キホーテ』のような小説」と「そうでない小説」(つまり「騎士道物語」)である。『ドン・キホーテ』のような小説とはどういう小説か。主人公が小説を読んでいる小説である。『ボヴァリー夫人』のような小説である。『はてしない物語』のような小説である。そして、『中二病でも〜』のような小説である。

 ミゲル・デ・セルバンテス、『ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ』とともに近代小説は始まった。それは同時に、前時代の「騎士道物語」の否定でもあった。

 五十歳になろうかという郷士、ドン・キホーテは《暇さえあれば(もっとも一年中たいてい暇だったが)、われを忘れて、むさぼるように騎士道物語を読みふけったあげく、ついには狩りにでかけることはおろか、家や田畑を管理することもほとんど完全に忘れてしまった》(『ドン・キホーテ』前篇(一)、44頁)。

 超人的に強く、勇敢なヒーローである騎士が、巨竜や巨人といった「悪」を傷つきながらも打ち倒し、美しい姫君の心を射止めるといった「騎士道物語」に惹かれるのはなにもドン・キホーテだけではないだろう。そのような、一切のリアリティなど皆無な、しかし、だからこそ爽快で愉快で、メタ・フィクションも構造主義もなにも考える必要なく読める小説を喜んで消費する人々が大勢いたからこそ、「騎士道物語」は何百年も存在し続けられていたし、現在においても「ライトノベル」や「少年漫画」「少女漫画」と名前を変えて読み継がれ続けているのだ。

 ドン・キホーテは騎士道物語を読みあさり過ぎた結果、完全に妄想の世界に沈み込んでしまう。正気を失い、物語の世界が現実だと思い込んでしまう。《彼の頭は本のなかで読んだもろもろのこと、例えば魔法、喧嘩、戦い、決闘、大怪我、愛のささやき、恋愛沙汰、苦悩、さらには、ありもしない荒唐無稽の数々からなる幻聴でいっぱいになってしまった。つまり、書物のなかで展開される、こうした仰々しい、雲をつかむような絵空事が彼の想像力の首座を占め、その結果、騎士道物語のなかの虚構はすべて本当にあったことであり、この世にそれほどたしかな話はないと信じこんでしまったのだ。》(前篇(一)、46頁)。つまり『ドン・キホーテ』は、「騎士道物語」的なものを認識し(つまり「参照」し)、否定し、超克したところから物語が始まっているのだ。

 「騎士道物語」を「肯定」してしまえば、そこですべては終わる。騎士道物語を肯定した小説というのは、「騎士道物語」であるに決まっているからだ。騎士道物語を否定しない限り、小説は「騎士道物語」以外の小説になりえない。

 「なぜ「騎士道物語」以外になんかなる必要がある?」と、ドン・キホーテなら、あるいは小鳥遊六花なら言うだろう。「素晴らしく面白い「騎士道物語」だけを永遠に読んでいればいいではないか!」。たしかにそういう人々もいるだろう。そしてそのような人々は、ライトノベル(現代の騎士道物語)やその他のフィクションを好んで受け入れる人々の数を見るに、とうてい一部の少数派だとは思えない。リアリティ*2というものがまったく存在しない物語を、むしろリアリティが存在すると怒り出す読者*3が多数派ですらある物語で充足できる読者にとってはそうだろう。しかし、そうでない人間もいる。そして、そうでない人間のために初めて書かれた小説が、『ドン・キホーテ』なのだ。

 なぜ我々は「騎士道物語」を楽しめないのか? それは、とりもなおさず、「騎士道物語」にはあらゆる意味で「リアリティ」がないからだ。なぜ我々は『ドン・キホーテ』を求めたのか? そこに初めて我々の「本当の現実」が描かれたからだ。

 「騎士道物語」はなにからなにまで嘘だらけの詐欺だ。それは、現実には竜や巨人なんていない、というような表面的なレベルでの嘘ではない。もっと本質的な、根本的な誤りだ。「騎士道物語」はいつでも、いちばん大事なことを書いていない。まるでそれが見えないのか、あるいはそんなものがないかのようなふりをする。我々の世界に冒険というものはない。戦いも、勇気も、騎士も、幸福もない。それなのに騎士道物語はそういうものがあるふりをする。騎士道物語はいつでもいかにもフィクションであり、それまでに書かれたすべての騎士道物語を無意識に参照して書かれている。すでに高く積みあげられている「騎士道物語」という塔の一員として、ある騎士道物語の後ろには無数の先んじた騎士道物語がいて、それらなしにはその新しい騎士道物語は存在することすらできない。もし新しい騎士道物語の皮をむいてみれば、中になにも入っていないことがわかるだろう。騎士道物語は「騎士道物語である」という属性を除いてはなにも持っていない。騎士道物語が主張するのは「これは騎士道物語です」ということだけだ。にも関わらず騎士道物語は常に自分が「騎士道物語」でないふりをするのだ。

 普通の人間は、竜やら妖精やら魔法やらといった「騎士道物語」を「信じる」ことは普通の人間であれば、正気であれば、不可能である。それを現実のことのように、リアリティを持って感じ取ることは不可能である。だが、それを必ず信じる人間がいる。どんな大嘘でも、一部の疑問も逡巡も持たず受け入れてしまう人間がいる。それは「騎士道物語」の主人公(と登場人物たち)である。なぜなら、主人公が騎士道物語の「リアルでなさ」にいちいち引っかかっていては小説がスムーズに進行しないからだ。いや、むしろあっという間に終わりを迎えるかもしれない。正気の人間が騎士道物語の世界に放り込まれたとすれば、そこでできる唯一の理性的な行動は、我が正気を疑い、発狂するか自殺するかだけだろうから。

 正気の人間は「騎士道物語」を信じない。『ドン・キホーテ』でも、「騎士道物語」を現実のこととして信じ切っているのは、ドン・キホーテただひとりである。他の登場人物は、サンチョも、家政婦も姪も、司教も床屋も、ドン・キホーテの狂気に呆れるばかりである。それは『中二病でも恋がしたい!』においても同じで、「中二病物語」という「騎士道物語」を「信じきっている」*4のは小鳥遊六花だけである。――ああ、しかしドン・キホーテの村の住民に比べて、我々の「現実」に、なんと狂人の多いことか! 「リアリティ」のないフィクションになんの意味もないことがわからない狂人の多いことか!

 フィクションには二種類しかない。「騎士道物語」と『ドン・キホーテ』である。『ドン・キホーテ』とは、「騎士道物語」を嘘だと判断できる、正気の人間たちのために書かれた小説である。そのため(この文章には大いに語弊が込められているが――つまり「文学は退屈である」という言われもない誤解を増長させるかのようだが*5)『ドン・キホーテ』は「騎士道物語」よりも、耐えがたいほど退屈である。巨竜との死闘よりも、美しき思い姫とのロマンスよりも、うらびれた男が部屋で本を読んでいるという描写が退屈である、という意味においては、ひどく退屈である。――まさに『ドン・キホーテ』は、ドン・キホーテが自分の部屋で小説を読んでいるシーンから始まるのである。しかし僕にとっては、そのひどく退屈であるはずのシーンが、面白くてしかたないのである。どんな巨大で頑強な怪物との戦いよりも、どんな美しい美少女の描写よりもそれは興味深い。それは僕の現実だからである。ただひとつの現実だからである。そしてそのような現実は、誰もが日常経験している、それしか経験していないといえるほどである現実は、ほとんどフィクションでは描かれないからである。充実して楽しい虚構と、退屈で辛い現実のどちらを取るか? 選ぶまでもない。僕も、誰しも、始めは「騎士道物語」を楽しめていたのだ、子供のころは。しかしある時ふと気がつくのだ。「ここには本当に大事なことが書かれていないではないか」と。本当に大事なこと、例えば「なぜ俺はこんなに苦しんでいるのか?」ということ。「なぜ俺はいかなるもののなかにも幸せというものを見つけることができないのか?」ということ。「騎士道物語」にそれはない。「騎士道物語」には「苦しんでいる人」や「幸せを感じたことがない人」は出てこないからだ(出てくるのは「苦しみ」や「不幸」のステレオタイプだけ、クリシェならいくらでもある)。その答えを探して――もちろん答えなどあるはずがない。「苦しみ」や「不幸」を解消する答えなどというものを厚顔無恥に教授するなんて、宗教家ぐらいにしかできない。しかしそれでも我々はほんの一筋の光の予感のようなものに触れるために――、人は『ドン・キホーテ』を開くのだ。「騎士道物語」を卒業するのだ。それが、物語を鑑賞する上で「大人になった」ということの定義だ。僕は「子供」を憐れむつもりも、見下すつもりもない。世の中に「騎士道物語」は溢れているのだから――対して『ドン・キホーテ』のような作品はひどく少ない――、それでまったく問題などあるはずがない。子供でいたい、ずっと子供でいたい。大好きなおもちゃに囲まれて。

 『ドン・キホーテ』は告発している。「騎士道物語」など、「騎士道物語」に描かれる「理想」など存在しないということを。そんな「理想」を大前提にして書かれている「騎士道物語」には現実のことなど何一つとして書かれていないのだということを。そんなものを信じるのは狂人だけなのだと。そして我々は幸せな狂気に抱かれて死ぬよりも、不幸な正気にまみれて生きていくべきなのだと。それだけがアヘンに頼らず生きていく唯一の道なのだということを『ドン・キホーテ』は初めて示した。

 「騎士」がいない世界で、「騎士」であり続けようとするドン・キホーテ、それは「理想」と「救い」のない世界でなお「理想」と「救い」を求める行為であり、必然的にしばしば彼は現実の前に打ち倒され、地べたに叩きつけられる。ドン・キホーテは旅籠を城だと勘違いし、洗濯タライを伝説の兜だと思い込み(六花が折り畳み傘を剣に見立てているように)、そして誰もが知っているように風車を巨人であると見間違ってズタズタに身体を引き裂かれる。その痛みでもなおドン・キホーテの目は覚めない。ドン・キホーテに勝ち目はない。彼の挑んでいるのは「現実」であり、「現実」は絶対に消えない。我々が生きているのは、現実、ただひとつのそれだけであり、それ以外でもそれ以上でもない。現実に生きていない人間は一人もいない。これまでに一人もいなかったし、これからも一人もいない。現実は壊すことも逃げることもできない。できるのはせいぜい背を向けるだけだ。そしてそうした場合、残るのは「現実に背を向けた」という現実だ。残酷である。あるいは我々はドン・キホーテを応援するだろうか? ドン・キホーテが現実に勝利したとき、折り畳み傘が槍となり、金ダライが兜となったとき、風車が巨人となったとき、「騎士道物語」の子供らしい興奮は「現実」に一矢報いることができるから。

 それは奇妙な形で実現する。すなわち誇大妄想に取り憑かれた狂人であると周囲に認識されているドン・キホーテは、狂人であるがゆえに、その妄想ゆえの蛮行も許される。遍歴の騎士をあまりに信じすぎているため、まるで本物の遍歴の騎士であるかのように、彼にはすべてが許されるのである。これは奇妙で、しかも悲しいアイロニーである。そしてドン・キホーテにとって、すべてが許されることはなんら「奇妙」でもないのだ。

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

 僕は冒頭に戻るべきだろう。『中二病でも恋がしたい!』の設定が、いかに忠実に『ドン・キホーテ』の舞台を現代日本にアレンジしたものか(まさに今の日本ほど「騎士道物語」が溢れている場所はないだろう)ということはすでに語った。だとすれば『ハルヒ』もまた『ドン・キホーテ』なのだろうか?

 『涼宮ハルヒの憂鬱』では、一行目で「SF」、つまり「騎士道物語」が否定されている。《サンタクロースをいつまで信じていたかなんてことはたわいもない世間話にもならないくらいのどうでもいい話だが、それでも俺がいつまでサンタなどという想像上の赤服じーさんを信じていたかというとこれは確信を持って言えるが最初から信じてなどいなかった。》ここで主人公は「この小説は「サンタクロース」が出てこない小説ですよ」と表明しているのだ。これは「騎士道物語」ではありませんよ、と。小鳥遊六花は「イタい」涼宮ハルヒである。六花にとっての「騎士道物語」は「中二病作品」、ハルヒにとっては「宇宙人や未来人や異世界人や超能力者(が出てくる物語)」。もちろん「サンタクロース」を信じていない主人公のキョン=サンチョは彼女の狂気にただただ呆れるのみ。しかしここからが『ドン・キホーテ』とは違うところで、『涼宮ハルヒの憂鬱』がライトノベルの領域を超えて評価される部分*6、『ドン・キホーテ』を四百年以上かけて再構成することに成功している部分なのだが、ハルヒ=ドン・キホーテの周りに、本当に「宇宙人や未来人や〜」が現れるのである。そしてそれは「サンタクロースはいない」と言える、正気のキョンだけには知らされて、当ハルヒだけが気がついていないのだ。これはまさに『ドン・キホーテ』とは真逆の構造である。ドン・キホーテは、あらゆる現実のものを虚構のそれに作り変える。しかしハルヒは虚構の存在そのものがすぐそばにいるにもかからわず、現実を痛いほど直視し続けるのである。その結果、ドン・キホーテは「虚構」だらけの胸踊る世界を喜んで旅し、「現実」に打ち倒されながらも、ますます狂気を深める。しかし反対に、ハルヒは「虚構」がまったく現れない現実世界に辟易と「憂鬱」を深めながら、徐々にキョン=「現実」とコミットしていく、目を覚ましていくのだ。

 しかし目が覚めてしまえば、後はずっと起き続けるしかない。果たしてハルヒに、そして六花に「現実」は受け止められるのだろうか。サンタクロースがいないはずの『ハルヒ』にも、大きな「嘘」がある。ハルヒをはじめとするヒロインたちが一人の例外もなく美少女であるということだ。これは映像作品の業だろうか。これはまたもう一つの「サンタクロース」だ。この究極の欺瞞がある限り、ハルヒも六花も「現実」にはたどり着けないだろう。ドン・キホーテは、最期、あんなに愛していた「騎士道物語」に呪詛を吐きながら死ぬ。麻痺的な虚構すら信じることができずに死んでいく。我々は折り畳み傘を彼に供えるべきなのだ。金ダライを、驢馬の糞を供えるべきなのだ。物語を読みすぎた人間にはみんな、そうしてやるべきなのだ。

*1:「でも」という二文字で、「中二病」より「恋」のほうが「上」、だという認識を前提にしていることを示し、しかもそれをこちらにも強要する。相当ひどいタイトルだ。

*2:リアルとリアリティの違い――「リアルである」とは「現実である」ということ。「リアリティがある」というのは「現実っぽい」ということ。フィクションは、まったく「リアル」である必要はないが、「リアリティ」がないフィクションというのは存在する意味がない。なぜなら我々読者が生きているのは、一人の例外もなく「現実」だからである。

*3:『かんなぎ』を見よ。あるいは『GE〜グッドエンディング〜』を見よ。

*4:六花は自分がフィクションに影響された「中二病」的行動を取っていることについて、微塵も恥ずかしさや違和感を覚えてもいなければ、いかなる客観視もできていないため、ドン・キホーテと同じく立派な「狂人」である。

*5:高橋源一郎によれば、エンターテイメント小説と文学の違いは、「(わかりやすい)「犯人」がいるかどうか」である。「犯人」がいるのがエンタメ、いないのが文学。この「犯人」というのは好みによって「オチ」とか「テーマ」とか「ストーリー」とか「主人公」と入れ替えても良い。「オチ」がなければ笑えない、という人にとっては間違いなく文学は「退屈」だろう。しかし文学は、必ず「(わかりやすい)オチ」がなければならないエンタメ作品では書けないようなものを、書く。「オチがない物語」を書く。なぜなら我々の人生のほとんどすべてはそういうものに他ならないからだ。

*6:『憂鬱』が優れているのは、SOS団のメンバーが「宇宙人〜」であるという設定が、すべてキョンの幻想である、という(かなり強引だが)リアリズム作品としての解釈が残されている点である。むろん『涼宮ハルヒの憂鬱』はその一作で充足的に完璧に完成しているため、二作目以降は作品として存在しうるポジションがないことになる

あ 2012/12/18 02:36 ただ中二病の作品を批判したいだけなんだな

通りすがりのもの通りすがりのもの 2013/01/18 06:58 ドン・キホーテはその様な解釈の仕方も出来るのですね。個人的には大変興味深い考察だと思います。自分はドン・キホーテという物語はは没落していく、若しくは既にしている騎士達を批判したものだと思っていました。ルネサンス以降、科学が急速に発達した結果銃火器が進歩し、騎士は無用の産物と成ってしまった。然しながら騎士達は未だに戦いの中心だと思っており、尊大な態度をとる。本人、つまりこの場合ハルヒ或いはドン・キホーテはその事を全く認識しておらず、本人のみが蚊帳の外にいる。同じような構図がドン・キホーテと涼宮ハルヒの憂鬱の中で出来ているのですね。

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