あす憲法記念日は、私たちにとって忘れがたい日である。27年前、兵庫県西宮市の朝日新聞阪神支局が散弾銃を持った男に襲撃され、小尻知博(こじりともひろ)記者(当時29)が殺された。

 「赤報隊」を名乗る犯人は犯行声明で「反日朝日は50年前にかえれ」と主張した。

 事件直後、社説は「多様な価値を認め合う民主主義社会を守り、言論の自由を貫く」と誓った。残念ながら、事件は未解決のまま時効を迎えてしまったが、その決意にいささかも揺るぎはない。

 その「多様な価値を認め合う民主主義社会」がいま、揺らいでいる。深刻なのは、自分たちと違う価値観の人々の存在そのものを否定し、攻撃する動きが勢いを増していることだ。

 こうした言説の中で、かつて朝日新聞を攻撃するキーワードだった「反日」のレッテルはすっかり一般化してしまった。

 在日コリアンに「特権」があるとして、街頭で激しいヘイトスピーチ(憎悪表現)を繰り返す人たち。四国では「遍路道を朝鮮人の手から守りましょう」との張り紙が見つかった。

 韓国や中国への嫌悪感をあらわにした本が人気を集め、一部メディアにも連日、それをあおるかのような見出しが躍る。

 ヘイトスピーチをめぐる京都での訴訟で、訴えられた市民団体側は「表現の自由の範囲内だ」と正当性を主張した。だが、他人を排除し、傷つける言葉は許されるのか。表現・言論の自由の大切さを説き続けた私たちとしても、「それは違う」と言わずにはいられない。

 事件以来、多くの読者から叱咤(しった)激励をいただいた。その声にも支えられ、私たちは自由な言論を守ろうと努力してきた。

 特に、戦争に協力した戦前への痛切な反省から、権力が自由を制約する動きには、全力で立ち向かってきたつもりである。特定秘密保護法案の審議のときもそうだった。

 ただ、これだけ排他的な言葉が世にあふれる前に、できることはなかったか。

 理不尽に攻撃される人たちを守る側に立つことはもちろんである。そのうえで、攻撃的な言葉を繰り出す人、そうした主張に喝采を送る人々の背景にも目を向け、日本社会に広がる溝を埋めていきたい。

 求めたいのは、スローガンとしての「表現・言論の自由」ではない。誰もが尊厳を保ち、のびやかに生きられる社会そのものである。同僚の命が絶たれたこの日、その原点を改めて胸に刻みたい。