2014年03月18日
はっきり言っておきます。
大河さん、なぜ私があなたにこうも食ってっかっているのか、
お気づきでないようなので、ハッキリその理由を伝えようと思いますよ。
いつだったか、あなたが私の教学に関する記事は我見にまみれていて、間違っているとご指摘され、
一部そのことで、それまであった人間関係すら崩壊したこと、お気づきですか?
まあ、時は流れているので、それはそれでいのですが、
問題はその発言をされた原因がどこにあったかですよ。
その、私の教学に関する記事が我見にまみれていてと言いだした大元は、
あなたの内側から出てきたものではないですよね。
あなたの体験、経験のなかで学んだものから感じたものではないですよね。
あなたが、私に対して、この人は滅茶苦茶なことを言う人だから危険だ、
あなた自身がそう私に注意を即した人物の発言に感化されて、
あなたは私の教学に関する記事は我見にまみれていてると言いだしたんじゃないですか。
あなたの理論に則れば、日顕の言うことであっても、正しいものは正しいと認めなければならない。
まあ、そういうことのようですが、
人間の信頼関係というものは、そういうものではないと思います。
それを言葉にして表現されたのが、ブレンドさんであったりしたことにも、
きっとあなたはお気づきにならなかったのでしょうね。
じぇじぇじぇさんも同じことを伝えようと、
実に柔らかい言葉でそれを言葉にされたようですが、
そのこと(私の書いたコメントも含めて結構ですが)に対して、
あんたらは「せっかち」だと言いだす始末ですよ。
お前ら、誤解すんな! と言わんばかりですよね・・・。
その、お前らせっかちだな! という表現が、
上から目線であり、自分は間違っていない、お前らが浅いだけだというものを感じさせることにも、
恐らくお気づきでないでしょう。
内道を貫き、自分を見つめている人であれば、
「誤解を生む表現があったかもしないが、私の伝えたかった真意はそうではないのです」
そう言えるはずですよ。
読んだお前らの境涯がそうだから、そういう風にしか読めなかったんだろ!?
的な表現はされないはずです。
私はあえて波風が立つことを承知で、以前にも、
「もう少し表現にお気をつけてみては」と提案し、意見を述べさせて頂きましたがね。
あなたは創価学会の公式見解だと仰るが、
その記事を読んだ人が、「え? ご本尊てなくてもいいの?」と勘違いしかねない内容があったから、
そう勘違いしかねないと感じたから、
じぇじぇじぇさんがここにコメントをされたのではないのですか?
私も同じことを感じましたけどね・・・。
文章というものには、裏の意味があります。
人間は、どんな文面にも裏の意味を感じる心理を持っているのです。
あなたが「公式見解」だと仰っても、そう感じ取れない書きかたがそこにあった。
そういうことだと思いますよ。
そもそも、公式見解とご自分の中の体験・経験からくる感じ取ったものが同一であれば、
公式見解なるものを、わざわざ引っぱりだす必要などないのです。
自身の感じたもの、体験・経験を語ればそれで済む話ではないでしょうか。
私は二度、あなたに同じことをされてきました。
そう、あなた自身がこの人物は危険だといっておきながら、
その後あなたは、その人物たちを盛んに擁護したのです。
そのことで、私がどれだけ迷い、悩み、苦しみ、
今でもそのことから立ち直れていないことなど、微塵もご存知ないことだろう。
こういうことを書くと、あなたは一刀両断に、
人のせいにするな! すべては自分だ! そう言われるでしょう。
だから沈黙を守ってきたのですよ。
もう一度言いますよ。
思いやりってなんでしょうかね?
信頼関係ってなんでしょうかね?
あたなはご自分が言ったことを裏かえしたんですよ。
別の言い方をすれば、わたしに嘘をついたんです。それも二度もね。
それでも自分は正しい。何一つ間違っていない。
そうネット世界で君臨し続けようとしている姿を見ているのが辛い。
わたしの文言には何一つ「私見」はないといいきる傲慢が恐ろしいんですよ。
師である先生でさえ、
御書を講義される前置きとして、
これは私の感じたものです。私見です。
ですから、みなさんはお話を聞いて帰ったあと、
各々思索してみてください。
私の話を思索の糧にでもしてください。
そう仰っているんですけどね・・・。
人間は間違える生き物です。
そして、それを正していこうとする生き物でもあります。
でも、あなたの文章を読んでいると、一切間違いは許されないという、
脅迫じみたものを感じるんですよ。
息苦しくなるんですよ。
こんな苦しい信心なら、やらないほうがいいよな・・・。
そう感じるんですよ。
あなたの送っている縁は一体なんなのでしょうかねぇ。
(じゃあ読まなければいい。見なければいい。そういう事ですがね、
なぜか不思議と読まざるを得ない状況になるんですよ、これ不思議なことですがね:笑)
(きっと深い宿縁があるのでしょうね)
批判だと思うなら思われても構いませんよ。
私は素直に、自分が感じたことを言葉にせざるを得ないほど、
追い詰まっているだけのことですからね。
でも一度、
あなたにとっては無意識にかもしれないが、
どれだけ人を傷つけてきているかを考えてみて欲しいものですよ。
そんなことで傷つくやつが弱い。
まあそう仰るんでしょうがねぇ。
理論理屈の堂々巡りは、もううんざりですけどね(苦笑)
お気づきでないようなので、ハッキリその理由を伝えようと思いますよ。
いつだったか、あなたが私の教学に関する記事は我見にまみれていて、間違っているとご指摘され、
一部そのことで、それまであった人間関係すら崩壊したこと、お気づきですか?
まあ、時は流れているので、それはそれでいのですが、
問題はその発言をされた原因がどこにあったかですよ。
その、私の教学に関する記事が我見にまみれていてと言いだした大元は、
あなたの内側から出てきたものではないですよね。
あなたの体験、経験のなかで学んだものから感じたものではないですよね。
あなたが、私に対して、この人は滅茶苦茶なことを言う人だから危険だ、
あなた自身がそう私に注意を即した人物の発言に感化されて、
あなたは私の教学に関する記事は我見にまみれていてると言いだしたんじゃないですか。
あなたの理論に則れば、日顕の言うことであっても、正しいものは正しいと認めなければならない。
まあ、そういうことのようですが、
人間の信頼関係というものは、そういうものではないと思います。
それを言葉にして表現されたのが、ブレンドさんであったりしたことにも、
きっとあなたはお気づきにならなかったのでしょうね。
じぇじぇじぇさんも同じことを伝えようと、
実に柔らかい言葉でそれを言葉にされたようですが、
そのこと(私の書いたコメントも含めて結構ですが)に対して、
あんたらは「せっかち」だと言いだす始末ですよ。
お前ら、誤解すんな! と言わんばかりですよね・・・。
その、お前らせっかちだな! という表現が、
上から目線であり、自分は間違っていない、お前らが浅いだけだというものを感じさせることにも、
恐らくお気づきでないでしょう。
内道を貫き、自分を見つめている人であれば、
「誤解を生む表現があったかもしないが、私の伝えたかった真意はそうではないのです」
そう言えるはずですよ。
読んだお前らの境涯がそうだから、そういう風にしか読めなかったんだろ!?
的な表現はされないはずです。
私はあえて波風が立つことを承知で、以前にも、
「もう少し表現にお気をつけてみては」と提案し、意見を述べさせて頂きましたがね。
あなたは創価学会の公式見解だと仰るが、
その記事を読んだ人が、「え? ご本尊てなくてもいいの?」と勘違いしかねない内容があったから、
そう勘違いしかねないと感じたから、
じぇじぇじぇさんがここにコメントをされたのではないのですか?
私も同じことを感じましたけどね・・・。
文章というものには、裏の意味があります。
人間は、どんな文面にも裏の意味を感じる心理を持っているのです。
あなたが「公式見解」だと仰っても、そう感じ取れない書きかたがそこにあった。
そういうことだと思いますよ。
そもそも、公式見解とご自分の中の体験・経験からくる感じ取ったものが同一であれば、
公式見解なるものを、わざわざ引っぱりだす必要などないのです。
自身の感じたもの、体験・経験を語ればそれで済む話ではないでしょうか。
私は二度、あなたに同じことをされてきました。
そう、あなた自身がこの人物は危険だといっておきながら、
その後あなたは、その人物たちを盛んに擁護したのです。
そのことで、私がどれだけ迷い、悩み、苦しみ、
今でもそのことから立ち直れていないことなど、微塵もご存知ないことだろう。
こういうことを書くと、あなたは一刀両断に、
人のせいにするな! すべては自分だ! そう言われるでしょう。
だから沈黙を守ってきたのですよ。
もう一度言いますよ。
思いやりってなんでしょうかね?
信頼関係ってなんでしょうかね?
あたなはご自分が言ったことを裏かえしたんですよ。
別の言い方をすれば、わたしに嘘をついたんです。それも二度もね。
それでも自分は正しい。何一つ間違っていない。
そうネット世界で君臨し続けようとしている姿を見ているのが辛い。
わたしの文言には何一つ「私見」はないといいきる傲慢が恐ろしいんですよ。
師である先生でさえ、
御書を講義される前置きとして、
これは私の感じたものです。私見です。
ですから、みなさんはお話を聞いて帰ったあと、
各々思索してみてください。
私の話を思索の糧にでもしてください。
そう仰っているんですけどね・・・。
人間は間違える生き物です。
そして、それを正していこうとする生き物でもあります。
でも、あなたの文章を読んでいると、一切間違いは許されないという、
脅迫じみたものを感じるんですよ。
息苦しくなるんですよ。
こんな苦しい信心なら、やらないほうがいいよな・・・。
そう感じるんですよ。
あなたの送っている縁は一体なんなのでしょうかねぇ。
(じゃあ読まなければいい。見なければいい。そういう事ですがね、
なぜか不思議と読まざるを得ない状況になるんですよ、これ不思議なことですがね:笑)
(きっと深い宿縁があるのでしょうね)
批判だと思うなら思われても構いませんよ。
私は素直に、自分が感じたことを言葉にせざるを得ないほど、
追い詰まっているだけのことですからね。
でも一度、
あなたにとっては無意識にかもしれないが、
どれだけ人を傷つけてきているかを考えてみて欲しいものですよ。
そんなことで傷つくやつが弱い。
まあそう仰るんでしょうがねぇ。
理論理屈の堂々巡りは、もううんざりですけどね(苦笑)