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寺部陣屋

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平成十二年(2000)十二月七日朝、豊田市へ向かった。

江戸時代、現在の豊田市は複雑な支配関係にあった。矢作川西側は挙母藩領、東側は尾張藩渡辺半蔵家領、伊保川沿いには伊保藩領、篭川東側が大給(奥殿)藩領、そして南部に岡崎藩領が在り、その他にも中小の旗本領と天領が点在していた。

豊田市へ向かった理由は旧渡辺半蔵家領に在る、渡辺山守綱寺(わたなべさん・しゅこうじ)に行くためであった。

渡辺半蔵守綱は慶長十八年(1613)七月、尾張藩の始祖徳川義直に附属され、幕府から五千石、また尾張藩から五千石が加増され、一万四千石の大名格領主となって、加茂郡寺部村に陣屋を置いた。元和元年(1615)四月九日、守綱が名古屋の藩邸で死去すると、父の菩提を弔うためにその子渡辺忠左衛門(半蔵)重綱によって、領地寺部村内の横山に墓と小さな堂舎が建てられ、「横山御堂」と呼ばれた。寛永十六年(1639)四月六日、恵頓が重綱の子の渡辺飛騨守(半蔵)張綱により尾張から「横山御堂」の初代住職として招かれた。これを期に、「横山御堂」は渡辺山守綱寺と寺号を改めて、渡辺家の菩提寺となり、大改築と寺域の整備が行われた。その守綱寺が現在も豊田市寺部町に在るという。

豊田市へ行くのは初めてだった。寺部町に寺部陣屋の址が残っているかどうかは知らなかったが、とにかく守綱寺に行くために、地図と名古屋守綱寺住職・羽塚尚明氏が教えて下さった寺部守綱寺の住所(豊田市寺部町2丁目27番地)を頼りに出掛けていった。

金山にあるホテルから、地下鉄名城線で上前津で鶴舞線に乗換え、鶴舞線(名鉄豊田線)で豊田市駅に到着するまで約一時間辺り掛かった。

名鉄豊田市駅は旧挙母藩領内(矢作川西岸)にある。豊田市駅付近はデパートや店が並んでいて、繁華街になっている。しかし、そこから少し外に出ると、空地も多く見られる。

寺部町は豊田市駅正面を真直ぐ出て、国道248号を北に向かい、更に国道343号を東に行って高橋で矢作川を越えた左側にある。この国道は通る車数も少なく、高橋を越えると歩道も無くなってしまった。

 

寺部町付近地図
寺部町付近の地図。

高橋から右を見る
高橋から右を見る。
モダンな豊田大橋と豊田スタジアムが見える。
ここは千石町という。

高橋から左を見る
高橋から左を見る。
堤防の向こう側が寺部町。ここに渡辺半蔵家の寺部陣屋が在った。

背景に白い平成記念橋が見える。

 

高橋を越えて、また暫く国道343号で東に向かうと「真宗・大谷派・守綱寺」の標識を見付けた。ここまで豊田市駅から歩いて約30分掛かった。

 

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守綱寺は国道から北に少し入った所にあった。幾つかの守綱寺の石碑が立っている。ここまで来ると、とても静かである。車も人気も無い。

 

「渡辺家菩提所渡辺山守綱寺」石塔
「渡辺家菩提所渡辺山守綱寺」石塔。

「史跡・守綱寺渡辺家墓所」石碑
「史跡・守綱寺渡辺家墓所」石碑。

 

寺部守綱寺の入口
寺部守綱寺の入口。

 

守綱寺の正門
守綱寺の山門。

 

寺部の渡辺山守綱寺の山門のすぐ外には豊田市教育委員会に依って立てられた、看板が立っていた。

渡辺山守綱寺

旧寺部領主渡辺家の菩提所で三代、張綱によって創建されたものです。渡辺家は三河時代からの徳川家の家臣で、初代は槍で名高い半蔵守綱です。守綱は、徳川御三家設置の時、尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属しました。また十代規綱は又日庵宗玄と号し、茶事に精通し、尾張、三河を中心とする現在の中部園の文化面での指導者でした。裏千家中興の祖と言われた玄々斎はこの規綱の実弟です。

守綱寺には渡辺家歴代の墓碑、大坂城内にあったと伝える濡鷺の灯籠をはじめ伏見桃山城の軍議評定所を移築した内陣、錦赤金泥十字名号、安阿弥作・阿弥陀仏木像、渡辺家歴代の肖像画など多数の文化財があります。

県指定文化財「絹木著色渡辺半蔵守綱像」

市指定文化財「渡辺家歴代画像」「梵鐘」「守綱寺本堂・鐘楼堂・太鼓堂・山門」「守綱寺渡辺家墓所」

豊田市教育委員会

 

豊田市教育委員会に依って立てられた看板

 

守綱寺自体は期待していた物よりも小さかった。正門を入った正面に古い本堂があり、その右側の奥に住職のお住まいらしき家がある。正門を入って直ぐの所には左右に鐘楼があった。これも古そうだった。

 

守綱寺の鐘楼

 

守綱寺本堂を右に廻っていくと、裏にある墓地に着く。ここには昔からここに在ったと思われる石碑から、この数年以内に建ったと思われる程新しい石碑も在った。数はそれ程沢山ではない。「渡邊家」の物もあれば、それ以外のもあった。

この本堂の後ろの敷地内に、石の垣根で囲まれた所があり、これが「お殿様」渡邊半蔵家の御当主の方々の墓地であることが一見して判った。石灯篭が入口や墓地内に並んでいる。「槍の半蔵」の異名を誇った渡邊家に相応しい、立派な墓地だった。

 

渡邊半蔵家墓地

 

渡邊家墓所のすぐ外には看板が立っていて石塔配置図が描かれていて、初代半蔵守綱から十三代半蔵綱聰までの渡邊半蔵家当主の石碑の配置が分かる。

 

守綱寺・渡邊家墓所石塔配置図
守綱寺・渡邊家墓所石塔配置図。

 

『寛政重修諸家譜第八』によると守綱の孫で大井藩を立藩した渡邊丹後守吉綱も守綱寺に葬られたらしいが、この墓地に眠っておられるのだろうか。

半蔵家当主の石碑はどれも皆、同じ位の大きさだが、どれも立派な石碑だった。

 

渡邊半蔵守綱の墓
正面、突き当たりに在るのが渡邊半蔵守綱の墓。

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寺部守綱寺のあちらこちらには、住職の渡邊晃純氏自筆と思われる幾つかの教訓が貼られていた。個人で気に入った物を幾つかここで紹介させて頂きたい。

 

守綱寺の教訓1

守綱寺の教訓2

守綱寺の教訓3

 

渡邊半蔵家が寺部に陣屋を置いていた江戸時代当時、寺部村では集落の北部の西端に寺部陣屋があり、その東に家臣の家屋敷が配置されていて、南側に町家や農家の屋敷が在ったという。また、各屋敷への入り口には全て木戸が設けられていたそうだ。

守綱寺から西に向かった。そこには土塀で囲まれた武家屋敷を思わせる建物が幾つか現存し、寺部陣屋時代の城下町の名残りを留めている、という感じがした。ここ辺りには現在も幾つかの「渡邊」と書かれた表札を掛けた家々が立ち並んでいる。

 

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寺部守綱寺の西。
武家屋敷を思わせる建物がある。
道の突当たりは守綱寺の西口。

 

守綱寺の西口から西へ進むと矢作川の堤防に辿り着く。この堤防のすぐ東側、つまり堤防直前に寺部陣屋が存在したらしい。陣屋址には守綱神社だけが残っている。この陣屋は寺部領主渡邊半蔵家五代目の渡邊飛騨守(半蔵)定綱が建立したという。定綱は半蔵守綱の曾孫にあたる。

 

寺部陣屋址
寺部陣屋址。
正面中央に見えるのが守綱神社。
左に見える道路の反対側に矢作川がある。

 

守綱神社
守綱神社。
寺部陣屋内に在った。

鳥居は昭和期に入って作られた物である。

 

守綱神社

この神社の祭神は、渡辺半蔵守綱である。

渡辺家では、慶長五年(1600)四月徳川家康より大坂城内にて守綱に与えられた南蛮鳩胸の鎧をもって、代々祭祀を行ってきたが、その意を継いで旧家臣の遊佐美香、鈴木重雄、松本但朗、大澤重熙が信徒総代となり、報恩のためさらに祭祀せんとして、明治十三年(1880)九月、旧家臣並びに地元関係者二八三名協同して寄付金を募り、現在の地に創立した。例祭は毎年五月十四日であるが、昭和五十年頃からこれに近い日曜日と定めた。

祭神・渡辺半蔵守綱は渡辺綱の後裔で、家康に従って各地に戦って功名を挙げ、世に「槍の半蔵」と称せられ徳川十六将の一人に数えられた。また、領民と共に堤防を築くなど、治政にも深く意を尽くした。慶長十五年(1610)尾張徳川家の軍事担当重役として尾張藩に属して、三州寺部に封ぜられ石高一万四千石を領有した。

境内神社・稲荷神社は、元禄十五年(1702)八月二七日、寺部領主五代渡辺半蔵定綱が、領内の平穏のため旧寺部陣屋内の当地に勧請した。

 

守綱神社

 

守綱神社

 

守綱神社

 

渡邊半蔵家は寺部領民の為に治水に尽力したという。江戸時代の初期、寛永年中に、岩滝・市木・平井村などの農業水利として寺部城主第2代渡辺重綱(しげつな)公の命により鞍ヶ池が築かれ、首位の山地にある三十七の滝を水源として造られたものだという。現在はそこに鞍ヶ池公園があり、ドライブコース,植物園,動物園などをそなえ、豊田市民の憩いの場となっているという。鞍ヶ池の水は岩滝町で滝となって市木川にそそいでいて、市木川は寺部陣屋址近くで矢作川に合流している。

旧寺部陣屋内、守綱神社の正面に当たるところには「法珍のすみれ草の句碑」が建っている。

 

法珍のすみれ草の句碑
法珍のすみれ草の句碑。
背景は矢作緑地。

 

法珍のすみれ草の句碑

この句碑には「戴いて 踏めの法珍の すみれ草」とある。

江戸時代の大洪水でここの堤防が決壊した。その復旧工事を国役普請、つまり、国の直轄事業で行ったため、渡辺家普請奉行磯谷利右衛門克明(俳号 無心斎素英)が、工事が完成したときに、公儀普請への感謝の気持ちを村人に伝えようと詠んだとされる。

渡辺家は、御三家尾張藩の成立に伴って将軍家から尾張藩に派遣された付家老の家系であり、江戸とのパイプの太さが国役普請を実現させたと思われる。

なお、利右衛門は、守綱寺の過去帳と墓石の刻字から、別名を利兵衛といい、嘉永四年(1851)没、享年七四歳とされる。

また、法珍の地名についても、旧来の地名「法沈」の誤伝とするものと、このあたりにあったと伝えられる明勝寺の前身の寺院の住職「法珍」が、堤防改修の用地を提供したことに由来するとの、二説がある。