ピケティ、ピケティ、ピケティと、うるさいったら、ありゃしない!

ある日、「ピケティの本が売れてる!」と言うから(それじゃためしに読んでみるべ)と思い、アマゾンに注文した。



僕は本腰入れて読もうとする本は、電子書籍ではなく、紙の本を注文する。ボールペンで(けっして万年筆じゃない→インクがページの裏側まで沁みるから)ぐちゃぐちゃに線を引き、そのとき読みながら感じたことや大事だなと思った箇所にはどんどん落書きする主義だから。

これが、間違いのもとだった。

数日後、アマゾンから「在庫がなくて出荷できません。ずっと待たされますけど、それでもOKか、再度確認してください。確認しないと注文はキャンセルします」というメールが来た。

にんげん「足らない」と言われると余計欲しくなるものだ。

その数時間後には『21世紀の資本論』はベストセラーの第一位に(笑)

著者サイン会にピケティが登場すると、ロックスターのようにサインを求める人々が群がるのだそうだ。


今年は中間選挙の年だが、格差の問題を扱ったピケティの本がベストセラーになったので、共和党は選挙に臨む際のメッセージをどう修正するか? という問題に頭を悩ませている。まさに「ピケティ・ショック」だ。

で、『21世紀の資本論』を読んだ感想としては、この本はちょうどM&Rフリードマンの『選択の自由』のような必須アイテムになるに違いないということ。すなわち社会科学系の学部に属している全ての大学生、一部上場企業に勤めるサラリーマンなどが、周囲の話題についていけるように、教養として読んでおかなければいけない本という意味だ。

なおピケティの『21世紀の資本論』をカール・マルクスの『資本論』の延長……みたいな書き方で説明している人が居るけれど、何のカンケーも無いので、無視すること。もちろん、ピケティは格差の発生に関する、過去の経済学者の様々な研究について紹介する過程で、マルクスにも言及している。しかし彼は『21世紀の資本論』でマルクスの著作に、屋上屋を架そうとしているのではない。

それじゃピケティは『21世紀の資本論』の中で何を主張しているか? これはひとことでまとめると:

資本のリターンが生産や所得の成長率を超える場合、資本主義下では格差が拡大しやすい。それは19世紀にも見られた現象だが、いま、21世紀にも再現しようとしている。これがおきてしまうと能力や努力に報いる社会をむしばみ、民主主義の基盤を揺るがしかねない


ということだ。

このように「自分は教養がある」ということをアピールしたい人にはピケティを読むことをお奨めするわけだが、逆にピケティを読みこなすには教養がなければ苦しいかも知れない。経済学の知識は、必要ない。

これはどうしてかというと、ピケティは意図的に精緻で末梢にこだわりすぎる経済モデルの援用を極力避け、簡単な概念で大上段に構えた根本的な議論を展開しようと心掛けているからだ。

そのため女性の読者や経済学部以外の学生でもわかるようにバルザックやジェーン・オースティンがしばしば引用されている。逆に言えば『高慢と偏見』や『マンスフィールドパーク』を読んだことない無教養な読者は、ピケティが何をしゃべっているのか理解できないだろう。

ミスター・ダーシー(『高慢と偏見』の登場人物)やサー・トーマス(同『マンスフィールドパーク』)という、小説の中の登場キャラの名前を聞いただけで(ああ、アレね)とピンとこないようだと、ピケティを読むのは苦しい。

ピケティの『21世紀の資本論』が経済学の新しい境地を切り拓いたか? と言われると、うーんと言葉に詰まる。でもこれは社会現象か? と聞かれたら、ことしの流行であることには間違いない。