まさか小さな事件なら冤罪(えんざい)も仕方ないということか。そんな道理はありえない。

 時代に合った捜査や公判のあり方を探る法制審議会の部会論議が大詰めを迎え、法務省が具体的な改革案を示した。

 焦点は、自白の誘導や強要をなくすため、警察の取り調べを録音・録画することだ。捜査の可視化を進めることは、世界の先進国共通の流れでもある。

 だが、今回は、公判となる事件の2%ほどしか対象にしない案が示された。まったく不十分というほかない。

 記録をとる際は、部分的にではなく、逮捕から起訴までの全過程を録音・録画するよう義務づけたのは評価できる。問題は事件の対象が狭すぎることだ。

 基本的に裁判員制度が適用される殺人、放火などの重大事件に限るという。これでは可視化は例外的な措置に等しい。

 議論は3年前に始まった。その出発点を思い起こすべきだ。厚生労働省の村木厚子さんが冤罪に巻き込まれた郵便不正事件などがきっかけだった。

 今回の案では、あの事件はもちろん、被告12人が全員無罪になった03年の鹿児島県議選買収事件や、12年のパソコン遠隔操作事件も対象外になる。

 死刑や長期刑にならないからといって、不適切な取り調べが見過ごされていいはずはない。

 警察でなく、検察の場合は、容疑者を逮捕したすべての事件も対象にする選択肢を示しているが、それでも限定的だ。

 そもそも身体を拘束されたかどうかに関係なく、取調官と容疑者の強弱関係は圧倒的だ。最終的にすべての取り調べをあとで検証できるようにする制度こそをめざすべきだろう。

 もう一つ問題なのは、対象の事件であっても、当局の判断次第で記録をとらない余地を広く認めていることだ。

 例えば、容疑者が「十分な供述をできないと認めるとき」、または暴力団犯罪などで報復の恐れがあるといったときは記録しなくてもよいとしている。

 そんな例外があるようでは、取調官が都合よく使い、制度を骨抜きにしかねない。

 あくまで原則は全面的な録音・録画であるべきだ。本人の保護は、公判での記録の慎重な扱い方で図るべきではないか。

 これほど限定的な案でも当局は抵抗している。しかし、自白が自らの意思によるかどうかが公判で問題になるようなことも、記録があればなくせる。

 司法の信頼を高めるための改革だ。捜査当局こそ率先して育てるべき制度ではないか。