目前に迫ったフランス統一地方選挙。
フランス、ひいては世界から注目されているのが首都パリでの市長選だ。
史上初の女性首長が誕生する公算が大きい2014年、
パリ市長の歴史にまた新たな1ページを刻みそうだ。
今回はパリ市長の歴史をひも解いてみることにしよう。
(Texte : Satomi Kusakabe)
パリ市長の前身は水の商人組合長
パリ市長の前身となる役職が置かれたのは13世紀。Prévôt des marchandsとprévôt de Parisという2大柱が、ヨーロッパの中心都市でもあったパリの町を統率していた。Prévôt de Parisは国王を代理する役職だったが、prévôt des marchandsはパリ市と水の商人組合の代表者だった。
人々の生活にとって大変重要な水の給水源は、パリにおいて極めて少なかった。そのため、セーヌ川の水をめぐって活発な取引が行われていた。そんな商人たちの組合が12世紀後半から組織され、給水の専売特許を有するようになる。その組合が徐々に力を持ってきて、パリに市庁のようなものを形作っていった。組合のまとめ役を任されていた頭がprévôt des marchandsであり、この役職はフランス国王の任命なしに就任することができた。
1611年、prévôt des marchands
(写真左から3番目)と助役たち
当時の国王サンルイは、そのパリの市庁を改革しようと乗り出し、数人の助役とその長prévôt des marchandsを国王の権限の下に置くことにした。1260年ごろ、水の商人組合から初の選挙でprévôt des marchandsと助役たちが選出され、それ以降毎年8月16日に選挙が実施された。
Prévôt des marchandsの政治的権力がピークに達したのは1356~58年、エチエンヌ・マルセル(Étienne Marcel)のとき。パリを統治し、国王と対立関係にあったほどの権力を有したというから、フランスにおけるパリの町の重要さが分かる。82年の民衆の反乱後、prévôt de Paris とprévôtdes marchandsの力ははく奪された。最後のprévôt des marchands、ジャック・ドフルセル(Ja cques de Flesselles)はフランス革命の火ぶたが切られた1789年7月14日、市庁舎前で襲撃され、民衆の前に首をさらされたという。
最初のパリ市長はフランス革命真っただ中
パリ市長の地位が設けられ、一代目として就任したの は1789年の三部会で選出されたジャンシルヴァン・バイイ(1736-93)。アカデミー・フランセーズの会員で もあった天文学者だ。フランス革命直前にヴェルサイユ 宮殿で、かの「球戯場での宣い」を行った人物でもある。彼は第三身分である平民の集まりを代表し、新憲法を制定し、国民議会を認めるまで解散しないと、王権に反対する強い決意を表明した。しかし、市長になったバイイは、シャン・ド・マルスのデモ鎮圧のために、軍に発砲を命じたことで民衆からの支持を失い、93年民衆の手によりシャン・ド・マルスで処刑されてしまった。
その後は革命後の動乱で、臨時の市長が置かれたり、選出された市長が辞退したりと不安定な時期が続く。そして、テルミドールのクーデタでロベスピエールが処刑され、12区に分割されたパリの区がそれぞれ独立自治を行うようになった95年以降、各区に市議会(Conseil municipal)が置かれ、パリ市長は1848年の2月革命まで置かれなくなった。
左)パリ市庁舎 ©Sophie ROBICHON/Mairie de Paris
右)ジャンシルヴァン・バイイ
長期にわたりパリに市長が不在
1795~1977年の間、1848年の2月革命後に4人が市長に就任した以外、パリ市長は長期間存在しなかった。パリの行政を代表していたのは、34年から置かれたパリの市議会議長とパリの県議会議長。パリ市長不在 の間、パリ市議会の議長が実質市長のような務めを果た すことになる。
なぜこんな長きにわたり市長が存在しなかったのか?それは、まず区ごとに議会議長がいてそれぞれの自治を行っていたため、市長は必要なかったから、そして14世紀のエチエンヌ・マルセルに見られるように、国王、皇帝、大統領など国の権力者はパリ市長が大きな力を持つことを恐れ、あえて市長の職を置かなかったのではないかともいわれている。
19世紀に黒人の市長が存在した?
セヴェリアノ・ドエレディア
キューバ出身のセヴェリアノ・ドエレディア(Severiano de Heredia:1836-1901)は、第3共和制のフランスで活躍した政治家で、1879年にパリ市議会議長に就任した黒人だった。白人でない議長が、初めてパリ市長と同等の地位に就いたことになる。
高踏派の詩人ジョゼ・マリア・ドエレディアの本いとこで、フリーメイソンのメンバーでもあった彼は、新しい思想や時代を象徴していた。87年には公共事業大臣に就任し、ヨーロッパで初めての白人でない大臣となった。未開の黒人社会に文明をもたらすためという大義名分の下、アフリカの植民地化を進めるフランス政府に、白人ではないドエレディアは矛盾のようなものを感じていたようだ。
政界を退いてからは文学に身を捧げ、パリの自宅で静かに人生の幕を閉じた。フランスのために貢献した人物だったが、墓標には何も刻まれず、勲章など与えられる こともなく、時とともに人々に忘れ去られていった。
首相を兼務していたシラク市長
ジャック・シラク
ついに1975年12月31日に発布された法律により、20区あるパリ市を一つのコミューンとし、市長を選出することが決められた。
77年、普通選挙によって初めてのパリ市長が誕生、長いパリ市長の不在にピリオドを打った。その市長とは、後に大統領となるジャック・シラク(1932-)だ。この選挙ではシラク率いる旧ドゴール派、共和国連合(RPR)がパリ市議会の54議席を獲得し、左派連合(40議席)などを抑えて勝利した。
シラクは2度の再選で95年まで市長を務める間、2度大統領選挙に立候補するが落選している。しかしながら、86〜88年には、社会党フランソワ・ミッテラン大統領の下、コアビタシオンとして首相を務めフランスの内政を担った。フランスでは公職の兼職が認められているのも特徴だ。「ブルドーザー」の異名を持つシラクは、精力的にパリ市、フランス共和国の政治に関わっていく。当時パリにテロが頻発していたため、治安・テロ対策にも力点が置かれた。
パリ市に1人の統率者が存在するようになってから、不衛生だった町が明らかに清潔になるなど、パリ市に統一感が出て、生活の質も向上したという市民の声も多かった。
ユニークなドラノエ市長
ベルトラン・ドラノエ(左)ジャン・チベリ(右)
2001年の地方選挙でジャン・チベリ(1935-)を破り、市長になった左派・社会党ベルトラン・ドラノエ(1950-)もユニークだ。パリ市民に娯楽を提供するため白夜祭やゲイパレード、パリプラージュ、そして環境問題の改善のためにベリブやオートリブ、パリ河岸の一部車両通行禁止を実施するなど、次々と市民を魅了するイベントやシステムを創設してきた。パリを愛し、自由人として情熱的に人生を送る。テレビ番組で同性愛者であることをカミングアウトし、その名を全国に知られるようになったのは元老院だった1998年。政治家としてのキャリアをさらに積んでいくと思われたが、近年はその意欲を示さなかった。
シラク市長時代からのパリと日本との友好関係は現在まで引き継がれている。ドラノエは日本に対する連帯と友情についてたびたび触れ、特に2011年3月11日の東日本大震災以降、追悼の意を表して市庁舎で多くのイベントを行うなど、パリが日本と身近な関係にあることを示している。
パリ市長に当選する意味
国民による直接選挙で最多票を獲得して選ばれた政 党は第一党となり、議会で多くの議席を得ることができる。そして、その第一党の名簿の第一順位にある候補者が議会の議長に選ばれる仕組みになっている。つまり、議会選挙は事実上市(町村)長選挙だ。
地方選で市(町村)長になった者は6年間の任期が保証されるから、パリ市長の任期も6年。議会には首長の所属政党が多数派であるため、必然的に首長の地位は強固たるものになる。
アンケートによると、フランス人の市長への信頼度は大統領や国民議会議員に比べると圧倒的に高く、数字で見ると、市長は75%、大統領53%、国民議会議員52%という結果が出ている(調査会社LH2による Le Nouvel Observateur 2013年4月15日掲載の調査)。
教育相や首相を務めたジュール・フェリー(1832-93) や大統領だったシラクの政治家としてのキャリアを見ても、大臣などの要職や大統領の座を狙っているなら、議会で首長になることは重要なこと。特にフランスの首都パリで市長を務めることは、中世から見られるように、フランスを代表することに近い意味があるのだ。
(敬称略)
フランスの歴史と歴代パリ市長
フランスの歴史 | 在任期間 | パリ市長 | ||
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1789年 | フランス大革命 | 1789年7月15日~ 1791年11月18日 |
ジャンシルヴァン・バイイ Jean-Sylvain BAILLY |
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1791年11月18日~ 1792年10月15日 |
ジェローム・ペティオン Jérôme PETION (1792年7月6~13日不在) |
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1792年7月7~ 13日臨時 |
フィリベール・ボリー Philibert BORIE |
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1792年10月15日~ 12月2日臨時 |
ルネ・ブシェール René BOUCHER |
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1793年 | ルイ16世処刑 | 1792年12月8日~ 1793年2月2日 |
ニコラ・シャンボン Nicolas CHAMBON |
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1793年2月14日~ 1794年5月10日 |
ジャンニコラ・パシュ Jean-Nicolas PACHE |
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1794年5月10日~ 1794年7月17日 |
ジャンバティスト・フルリオルスコ Jean-Baptiste FLEURIOT-LESCOT |
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1804年 | ナポレオン・ボナパルト即位 (ナポレオン法典) |
パリ市長不在期間 | ||
1815年 | 王政復古 ルイ18世即位 |
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1830年 | 7月革命 ルイ・フィリップ即位 |
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1848年 | 2月革命 第2共和制始まる |
1848年2月24日~ 3月5日 |
ルイアントワーヌ・ガルニエパージュ Louis-Antoine GARNIER-PAGES |
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1848年3月9日~ 7月19日 |
アルマン・マラ Armand MARRAST |
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1852年 | 第2帝政 ナポレオン3世即位 |
パリ市長不在期間 | ||
1870年 | 帝国崩壊 パリ包囲 第3共和制始まる |
1870年9月4日~ 11月15日 |
エティエンヌ・アラゴ Étienne ARAGO |
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1871年 | パリ・コミューン | 1870年11月15日~ 1871年6月5日 |
ジュール・フェリー Jules FERRY |
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1905年 | 政教分離 | パリ市長不在期間 | ||
1914〜18年 | 第1次世界大戦 | |||
1920年 | 国際連盟の成立 | |||
1939年 | 第2次世界大戦 (対独宣戦) |
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1940年 | パリ陥落 | |||
1941〜44年 | レジスタンス | |||
1944年 | パリ解放 | |||
1945年 | 終戦 | |||
1946年 | 第4共和制始まる | |||
1949年 | 北大西洋条約機構 (NATO)加盟 |
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1954年 | アルジェリア戦争始まる | |||
1956年 | チュニジア・モロッコ独立 | |||
1958年 | 第5共和制始まる 翌年ドゴール初代大統領就任 |
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1968年 | 5月革命 | 1977年3月20日~ 1995年5月24日 1983年、1989年再選 |
ジャック・シラク Jacques CHIRAC |
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1981年 | ミッテラン大統領就任 | |||
1995年 | シラク大統領就任 | 1995年5月22日~ 2001年3月24日 |
ジャン・チベリ Jean TIBERI |
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2001年3月25日選出 (2008年再選) |
ベルトラン・ドラノエ Bertrand DELANOË |