【編集委員・有田哲文】医療費の抑制が、日本をはじめ各国の課題になっている。高齢化に加え、医療の高度化でますますお金がかかるようになっているからだ。費用対効果分析に取り組む英国の現状を探った。

■命に値札?

 費用対効果分析。ふつうの公共事業ではおなじみの手法だ。道路なり橋をつくるときに、それがどのような効果を生むのかを検討し、税金をつぎ込むだけの価値があるのかどうかを吟味する。ときに効果の見積もりが過大だと問題になるが、事業を始めるときには欠かせない手法である。

 それが医療でも行われているのが、英国である。

 費用対効果分析をする機関がある。1999年に設立された国立医療技術評価機構、略してNICE。外部の識者も使った分析結果をもとに、薬や治療法について、英国の国営医療制度である国民保健サービス(NHS)に推奨するかどうかを決める。推奨というと緩やかな感じだが、推奨から外れれば事実上、NHSではその治療はできなくなる。

 ロンドンにある本部を訪れ、幹部のカリプソ・チョルキドウ氏に聞いた。どうして、医療に費用対効果分析が必要なのか。

 「限られた予算のなかで、必要なことをしなければならないからだ。優先順位をつけなければいけない。そのための一つのやり方が、『金額に見合う価値(Value for Money)』。お金の無駄遣いをするわけにはいかないからだ」

 主に社会保険や国民健康保険からお金をつぎ込み、そのうえで税金を投入する日本の医療費と違い、英国のNHSの財源は主として税金だ。だから、誰でも無料で医者にかかれる。しかし、それは医療の総額が予算で決められることも意味する。優先順位付けは必須なのだ。

 英国の費用対効果分析は、経済学の一分野である医療経済学に基づいている。分析のための道具が、「質を加味した生存年(Quality―Adjusted Life Years=QALY)」だ。健康で活動的に1年生きている状態を「1」とし、死んでいる状態を「ゼロ」とする。寝たきりだったり苦しみがひどかったりすれば「生活の質が低い」とされ、値が「0・8QALY」「0・7QALY」などと下がってしまう。

 そして、重要なのが1QALYをもたらす治療費として、いくらまでが許されるかだ。金額がはっきりと示されているわけではないが、だいたい、1年間延命するために使っていい額は、2万~3万ポンド(320万~480万円)と言われている。

 たとえば、重い病気にかかり、1年延命するのに、Aという薬を使って治療を施したときの費用が3万ポンドを大きく上回り、5万ポンドもかかるとなると、NHSでは認められない可能性が高い。1年延命しても、生活の質が低く、0・8QALYとなると、1・6万~2・4万ポンド程度しか、認められない可能性がある。

 利点は、これにより、あらゆる病気、あらゆる治療法が、QALYと費用に置き換えて比べることができることだ。何だか命に値札をつけている印象もあるが、NICEのチョルキドウ氏は言う。

 「値札ではない。医療サービスの生産性を表示している。教育でも投資でも、生産性を示す数字がある。もちろん、一般の経済活動にくらべれば表示するのは簡単ではないが……」

 もちろん、NICEで認められない薬や治療法でも、NHSの外の民間病院では受けられる。ただし、NHSとの混合診療は認められていないため、医療費は高額になる。

■つぎあてが続く

 生産性が低い、効果が費用に見合わないとして退けられる薬は全体の2割程度に達すると言われている。しかし、退けられた薬を欲する人たちもいる。

 乳がんの早期発見や治療の情報を提供している慈善団体「ブレークスルー・ブレストキャンサー」はいま、二つの抗がん剤について、NICEの推奨を求めている。政策担当のサリー・グリーンブルック氏は言う。

 「もし、この薬があれば家族や友人と、数カ月の間、比較的いい状態で過ごせる。何か楽しいことをしながら最後を迎えられる。でも、残念なことに、この薬は非常に高価だ」

 NICEへの批判が最も盛り上がったのは、数年前だ。

 英国西部の看護師バーバラ・クラークさんが2005年に、ある抗がん剤を認めてほしいと異議申し立てを展開し、国中のメディアの注目を浴びた。彼女の運動は政治家を動かし、最終的に治療が認められた。その後の著書でも、NHSへの敵意をあらわにしている。

 「多くの人は信じられないと思うが、私のなかで病気に感謝している部分がある。少なくとも、命のために戦う機会を得たことに。私がもしがんでなかったら、NHSのスキャンダラスながん治療の状態に国中を気づかせることはできなかっただろうから」(The Fight of My Life)

 NICEのあり方は、政治家からも批判の的になった。2010年に保守党が政権につくと、翌年には、抗がん剤基金を設けた。がんに限ってはNICEで推奨されなかった薬も、この基金を通じて使えるようになった。ただ、今のところは英国でもイングランドに限られ、スコットランドやウェールズでは使えない。しかも、2016年までの時限措置だ。

 来年からは「価値に基づく価格(Value -Based Pricing)」という手法も導入される予定だ。詳細は明らかになっていないが、病状がよくなった場合の社会的な便益も加えたうえで治療費を検討するという。

 終末期の医療についても、治療費はある程度かかっても仕方がないと、すでに基準を緩めてある。費用対効果分析は、つぎはぎを重ねながら続けているのが実情だ。

■製薬企業との距離

 そんな英国の費用対効果分析だが、海外から注目を浴びている。やり方を教えてほしいと問い合わせが相次ぎ、2008年からはNICE内部に他国に助言するための部署NICEインターナショナルができた。

 「医療にどうお金を使うかという問題では、世界中のすべての国が困難に直面している」と、ロンドンの調査機関キングズ・ファンドのチーフエコノミスト、ジョン・アプルビー氏は言う。医療経済学者としてNICEに協力し、ベトナムやフィリピンなどを回った経験がある。

 アプルビー氏が問題視するのは、米ファイザーや英グラクソ・スミスクラインなどの巨大製薬会社の影響力だ。とくに途上国が、費用対効果について製薬会社と対等に議論するのは難しく、結果として医療費の多くの部分が薬代に回っているという。