MOON BABY

赤い月が輝く夜には綺麗な花束を。

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B

2005-11-10 14:17:25 | アルファベット
片方の太陽がゆっくり死んでいくのを見届ける。



いつもの様に僕は0.34度の方角へ時間を蘇らせる。




でも、やっぱり鏡には僕しか映らない。




もうね、その鏡は割るしかないんだよ。








そうしないと、おしまいなんだ。








「考えられる世界」は「始まり」から始まった。







「考えられない世界」は「考えられる世界は始まりから始まった」から始まった。




















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ゲームオーバー

2005-11-08 00:16:48 | お話
死んだ死んだ。




皆死んだ。





撃って撃って、、、






皆殺し。






あはは。いひひ。












ばーん









撃たれた。



































そっか。










死んだら終わりか。










それはゲームだけかな。
それとも同じかな。








きっと違うな。









僕だけが生き残っても









きっとゲームオーバーだね。
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2005-11-07 12:39:34 | アルファベット
いつも見ていた物が消えました。






いつも見てなかったんだけど。






消えました。








昨日、窓に映った顔が




「時間が終わると、終わった時が始まる」




なんて言うから。






「今」から飛び降りたんだ。





そしたら、「今」になった。




いつも見ていた物が消えました。






いつも見てなかったんだけど。






消えました。












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怖い話

2005-11-05 11:45:24 | 論文
今日はちょっと怖い話を書く。


言語論の中に言葉が全ての物を在らしめているという説がある。


それは我々人類は言葉によって全ての物事を認識している。という事だ。

例えば、まず我々は言葉を使わずして物事を考える事が出来ない。
それは私が思うに、”苦しい”という言葉が無ければ、
我々はその苦しみを実感する事なく過ごすのではないかという事である。

勿論、苦しみは言葉無しに存在するだろう。
言葉を持たないとされている動物も狭い所に閉じ込め、
拷問を与えれば逃避という事が頭に浮かぶであろう。

しかし、それは人間の持つ苦しみとは別の物であろう。
言うならば、言葉の持つ重み、それは十分皆様も自覚しているであろうと思います。
他人から浴びせられる言葉に傷付けられた方も大勢いることでしょう。
「死ね」「消えろ」「うざい」
等は言葉が発達して来なければ伝えられなかった表現とも言えるのです。

また、目に見える物、これらは全て言葉によって決められている、
言い換えるならば、言葉が発達したせいで見え方が変わっているとも言えます。

そして言葉に関連した苦しみに過敏に反応する病気、すなわち脅迫神経症等も
人間の持つ言葉の特徴とも言える。
 

言葉の支配というのは、あまりにも多くの論者の主張と被るので、
ここでの説明は「結果」だけにしておきます。
ご要望があればまた別枠にて説明いたします。

結局何が言いたいのかと申しますと、
言葉は現実を形創るらしいのです。


そうなると、此処に一人の嘘の天才がいたとします。




彼はきっと支配者でしょう。


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憎い人々

2005-11-04 04:00:33 | 環境
私は今日はこの写真を見せたい。


だから今日は何も書かない。


書いてしまうと、安っぽくなってしまう。


この動物達の憎しみがわかるだろうか。


この憎しみを無視して平和などと叫べるだろうか。


そんな権利があるのだろうか。


戦争で犠牲になるのは人間だけではないよ。
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死刑論〜日記〜

2005-11-03 18:13:12 | 論文
「全てのものは合理的であるべきだ」

というのが私の思想の基盤である。
何故なら私は争いが嫌いだからだ。合理的な思考から争いなど起きない。
そもそも争い自体が合理的でないからだ。







しかし、人間の根源は感情にあるのか、合理的な思考が出来る知性にあるのかは解らないのだ。






この基盤に基づいて私はある一つのものを批判したい。

それは死刑である。これは合理性を持たない。
言うならば意図と結果の不一致が見出される。

勿論、罰というのは人間社会という物において重要な役割を持っている。
それは一種の縄の様な物であり、多くの人間が散らばってしまわない様にと、あらかじめ縛っておく。
縄の外に出ようとする者がいたならば、罵詈雑言を浴びせられ、罰を与えられる。
縄といっても中の住人にとって負の面は少なく、逆にその輩達はそこで温かさを感じ安らぎを得る事が出来る。

では何故外に出てはいけないのだろうか。
それは恐らく「ルールだから」という陳腐な答えになってしまうだろう。

ここで、「なぜルールだと外に出てはいけないのか」という議題にしても、まるで円周率のような疑問が繰り替えされるだけであろうから、なるべく此処では議題にしたくは無いのだ。

そもそも、こんな事に疑問を抱くのは反社会派の外道鬼畜米兵くらいなものである。(鬼畜米兵というのは先程観ていた「火垂るの墓」の影響で大した意味は無い)寧ろ、疑問等抱いてはいけないのである。それこそ反社会派になってしまう。
しかし私はこの反社会派の外道鬼畜米兵は嫌いではない。
何故ならこれは正しい疑問だからである。
だから、この前途有望な反社会派の外道鬼畜米兵の為に簡単な補足を付け加えたいと思う。

==================================
ルールは何故守るのか?

人間はルール無しでは生活出来ない。勿論、ルールとは上にいる人間が定めた自分に有利なものだという意見を数多く聞くが、その通りだとも思う。
そもそもルールとは言葉を変えると規制である。(この説明はルールを守る事に対して疑問を抱いた方への説明であるから規制という言葉が適切だあろう、規則という言葉にしてしまうと我々の先入観からなんら問題ない物になってしまう)
規制というのは冒頭に述べた様にある種の束縛である。
この束縛が無かったとしたら人間は行動を規制されてしまうのである。
少し狐につままれた感覚を覚えるかも知れないが、これは事実である。

例えば、試験をひかえた学生が休日を勉強出来ずに終えたりするのもその一種である。要は時間が多すぎて時間の使い方が分からなくなるわけである。事実、我々が休日を有効に活用し、楽しむ事が出来るのも規制のお陰である。
言うならば「自由という不自由」というのは行動を規制してしまうのである。
よって皮肉な事に我々は規制によって生活をより円滑にすることが出来るわけである。

勿論この例に当てはまらない規則はとても多く存在する、しかしルールの利用法
とはこの程度で、、、

(この場合はルールを規則というニュアンスのみで話を進めているが実際このニュアンス以外のルールも存在する。例えば、生き物を殺す事についてだったり、物を盗む事についてだったり数多く存在する。この事についてはそれぞれの倫理観での判断をお願いしたい。その時基準にすべきものは「自分がやられて嫌な事はしない」というもので十分であろう。その為、今は規則という一番怪しく、あやふやなルールを取り上げている)

      、、、それ以外のものは胸を張って排除して良いと私は思う。



===================================
では話を戻そう、罰とは縄の様なものだと私は形容したので

       罰≒縄=ルール

という等式が成立する。この場合ルールとは支配者に匹敵し、「罰」と「縄」を支配しているともいえるだろう(この事については後述)私はこの文章ですべての物に合理性を持たせるべきだといっているし、皆様もルールは意義あるものでなくてはならないという事に対して意義はないだろう。

ここで、



         ルール(意義あるものでなくてはならない)
          ↓
         縄(≒規制≒「意義あるもの」とは記述済み)
          ↓
         罰(?)



ここで罰が「全てのものは合理的であるべきだ」という観点で見れば、意義あるものにならなければならないのは自明であろう。
ルールが意義あるものならば、そのルールを犯した時に与えられる罰が意義あるものでなければならないし、
逆に矢印を反対に変えて罰に意義がないとするならば、そのルールは意義の無い罰を与える事によって意義の無いものになってしまうのである。


では、罰とは何か、何の為に与えられるのか、言い換えると何故必要だったのかというところに落ち着く。
それはあくまで善意的に言えば、共存していく為だろう。
全てのものは等価交換なのだ。
罰と引き換えに何かを得なくてはならない。何かを与えて何も返って来ないならば、それこそ意義のないものになってしまうであろう。
人を殺した者へ死ぬほどの苦痛を与え、自分がされて嫌な事をしたという矛盾を分からせる。
それでは罰を与える者は何も得ないではないか。という人もいるかも知れないがそうでは無い。其処には何かが発生しているのである。
罰を与えられた人間には最初、憎しみが生まれるであろう。しかし、その人間に憎しみが生まれた瞬間から自分の矛盾に気付いた時、それは生まれる。
強いて言うならばそれは愛と呼ばざるを得ないだろう。
罰とは愛である必要があるのだ。
当然の事ではあるが必要性が無ければ意味は存在しない。
少し言いたいのだが、「叱る」というのも罰である事を忘れている方が非常に多い。自分の叱り方がこの罰の意味と必要性を欠いていないかを今一度確かめてみてはいかがでしょうか。

こう話を進めていくとどうやら「罰」とは「償い」とは違う物のようだ。
我々の価値観においての罰の意義は償いという形では見出せないのだ。
何故なら、償いとは何も得る事が出来ないからである。それは罰の意味と必要性に反する。

明らかに、死刑は「償い」に近いものであろう。要は「死んで詫びろ」という言葉には、何の合理性もないのである。よって死刑は罰の意義を満たしていない為、罰の範疇外かつ、ルールの範疇外なのである。よって死刑に意味はない(これは死刑を罰ないしルールの一つだと認識していた場合のみ)
これは先ほどの罰は等価交換によるものでなくては意味を成さないというものにより、死と引き換えに得る物がない事から導かれる。

感情を否定する様に書いてとても心苦しく思いますが、全ての物に意味は必要なのです。私にとって「死んで償え」というのは何の合理性もない。 この様な非合理的な感情は私は好まない。



それは、、、戦争が起きるからだ。


宗教戦争を含めるあらゆる戦争はこの人間の持つ非合理的な感情に引き起こされたものではないだろうか。
独占欲、支配欲等、列挙すれば限がないだろう。
非合理的な感情の大半は察しの通り「欲」だと言われている。
  

最後にもう一度言いたい。
















人間の根源は感情にあるのか、合理的な思考が出来る知性にあるのかは、まだ解らないのだ。

だが、合理的な感情も存在する事を忘れてはいけない。必ず戦争は終わらす事が出来る。


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第0感

2005-10-31 20:03:48 | 論文
感覚は太陽が昇るたびに色を変えている事をご存知だろうか。 誰かを愛する事、誰かを憎む事。感情は決して形容出来ない。貴方がもし百回もの幸せを感じたならば、

それは全て異なる感情です。二度と同じ感覚は得られない。どの様にして自分を確認しますか? 貴方は自分がどの様に自分を確認しているか覚えてません。貴方が今、何処に居るか説明出来ますか?

住所、映像、音声、、 違います。それは理屈です、理論です。

実際、貴方は場所を認識する際は別の方法をとります。ソレは全て同じ事です。いつも貴方がしている事。 貴方がいつも一緒に居る人。それはいつも同じ顔をしていますか?それはいつも同じ声ですか?

確かめられますか?

貴方は夢を見ますか?夢を見た時に、こんな経験はありませんか?朝に起きてから夢の事を考えると、ある事に気付く。夢の中でずっと行動を共にしてたA君が急にBちゃんに変わっているのにも関わらず、夢の中の自分は何も不審に思っていない。

勘の良い方は気付かれたと思います。私はソレ自体には言及しません。

ただ、「ようこそ」とでも申し上げておきます。

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キリスト狂徒 <Pt.2>

2005-10-29 19:48:09 | 論文
この文章は教会の方とのやりとりの中の
「聖書に書かれた事は全て真実である、そして聖書は神によって書かれた」

という発言に対しての反論である。
私はあえて、歴史的な事実を言及したりはしない。
何故なら、それは確かめられない為に、あやふやな討論になるからである。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
教会の人に合理的な理論は通用しない、そして特に聖書は一切合理的ではない。
これは聖書に書かれている、比喩的なものを超えた「超能力」の表現からも言えるだろう。
故に、聖書は「教え」という物を超え、「偉業」を語る物となっているとも言える。

この事を踏まえて、
人間は合理的な物で無ければ受け入れにくい生き物であるという事と、
全ての人々がイエスキリストを信じているわけではない
と言う2つの事から考慮すると必然的に戦争が起こる。

この事を考慮すると、
聖書に合理性を持たせなかったイエスキリストは正しいとは思えない。
あるいはイエスキリストは人間をよく知らない。

神の行いが全て正しいとするならば、神はあえて、聖書から合理性を失わせ、神をキリスト教だけの物として他宗教から反感を買い、神はあえて戦争を起こさせた。

この結果は神の予想を超えていたのか、
いや、この程度は凡人でも想像出来るだろう。
ましてや全てを知る者ならなおさら。
仮に予測出来ていたとすると、その先に何かを見越しての事かも知れない。

でもそれは、何かを実現する為には犠牲は仕方が無いという考えの下。
そんなもの私は神と呼ばない。
いや、私だけではないだろう。


この文を読んで矛盾が見つけられないのであれば選択肢は2つ。聖書は完璧でないという事と、神は意図的に人を殺したという事。

それ以外はただの幻想以外何物でもない。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


これ、なんですがね。

お分かりの通り、相当興奮しております。

何が言いたいのかを要約すると、



「聖書は神が書かせたと仮定すると、神は犠牲を省みないお方。
もしくは、人間をあまり知らない。故に全てを知る者ではない。」です。

神が聖書を創り、聖書の内容が全て真実ならば、

       ↓ 
=====================================
まず、聖書が不合理だという事を説明し、
その不合理さから生まれる争いがある事は自明です。

その不合理さをあえて神が出したのならば、神は犠牲を省みない。
または、その不合理さと、不合理さから出る犠牲が予想外だったとしたら、
神は全てを知る者ではないという事。
=====================================

結局何が言いたいかと言いますとね、聖書は使徒が書いたもの以外なんでもないんですよ。
確かめられませんがね、「神」が書いたと仮定すると「神」ではなくなるのです。

犠牲を省みない者を神と呼ぶならまた話は別ですし、
一応、神の基準は一般的なキリスト教徒の方々に合わせてます。

だから、聖書が全て真実だと思うのは決して良い事ではないということです。

確実に使徒はイエスキリストは表現出来ていませんから。

簡単に言うと、今コレを読んで下さっている方が私の本当に思っている事(言いたい事を要約するのはおそらく簡単)を
要約するのは無理でしょうし、実際私も言葉に出来てません。

そんな事不可能なのです。自分の価値観を加えずに相手の話を聞くなどという事は。


結論を言いますと、キリスト教の方は
少しは自分の頭を使って考えて下さい。

イエスキリストが言いたい事は
「動物は天国に行けない」
等といった事ではないからです。
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「全て」

2005-10-29 01:48:54 | お話
いつだって「何か」は他の何かを基準にしている。

貴方の大切な人も「貴方」という基準から存在している。

善も悪も大半は「人間」を基準にしたもの。

本来の「何か」姿は何処にあるのだろうか。



「基準」が発生するとどうしても「影」または「後ろ」が存在してしまう。

言い換えるならば「死角」という物になるだろう。

私はかつて若かった頃、「基準」というものを何より高い所、

即ち全てが見渡せる所に自分を置こうと試みた。

比喩するならば、高い山へ登り、眼下に広がる世界を「全て」としようとした。


その時私は優越感を感じ、のけぞって高笑いをした。



しかし、私の上には雲があった。


空に広がる広大な雲が。


私は酷く落ち込み、思案を重ねた。

結果、冒頭に述べた様に「存在」は「死角」を作ってしまう。

決して「全て」を見る事は出来ないのだった。




私はとうとう気が狂い、眼をえぐってしまった。



「やった!私は真理を手に入れた!!!」



そう言った私の耳に微かな心臓の音が聞こえた。










それはただ、私に新しい「音」の世界が誕生しただけだった。








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死について

2005-10-27 15:50:24 | 論文
私は生きています。



でもきっといずれ死にます。



山もいずれ消滅します。
川も海も、太陽もいずれ消滅します。

でもその本体自体の死がない物がある。
例えば、光。
光は他の物に依存する事によって成り立っているから、
光を発する物体、すなわち、その物の死が光の死を意味します。



全て死ぬのです


死なないものは無いのか。




その疑問に答えるのは難しいので、
「何故死ぬのか」を考えると、
それは、その物の始まりが「定義」されているからです。
だから、その定義に則って死ぬのです。

簡単に言えば、始まりがあるから
終わりがあるのです。

では死なない物とはなんでしょう?

始まりが定義されていない物。
決して始まりを定義出来ない物。


なんだか解りますか?





そう。「時間」です。時間は今の人間の脳では定義出来ません。
宇宙が存在する前。時間が無かった時代。。。
想像の限界を越えます。
それは、人間が「全ての動には時間が必要」だと考えるからです。

全ての死は「人間の創り出した定義内」によるものです。

時間の始まりが定義されたら、
きっと時間は死ななければならなくなります。


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