私は彼女を迎えに行く。
約束は随分前だったから場所も記憶の奥隅から
埃を払って出してきても、いまいちピンとこない。
きっと怒っているだろう。
水の波紋の様なインターホンが鳴り、
彼女の母親らしい人物が帰宅時にかける挨拶を私にすると、
鍵を開けた。妙な感じだ。
玄関からすぐ入った所に地下へ続く木目の階段があった。
その真上にある二階へ上がる階段は、
そっぽを向いたように地下への道を暗く包み、
よく掃除された居間へ続く廊下とグルになって 地下の闇を際立たせた。
半螺旋を描いた階段を降りて行くのは
暗い海底に潜っていくようだった。
ドアの前に来ると丁度居間に響く声だけが聞こえ、
あとは下って来た半円だけがみえた。
手に馴染む丸みを帯びたドアを開けると、地下特有の湿った匂いがした。
妙に懐かしく、身体に染み込んだ。
窓は無く、低い天井についている蛍光灯は、
深夜の古びた公園を灯す、あの光に似ていた。
彼女は寝ていた。
部屋の半分以上を締めるグランドピアノの下で、
まるで胎児のように背を丸くしていた。
私が近付くと彼女は驚いたように勢いよく顔をあげ、
同時にピアノの下でくぐもった声が聞こえた。
「ただいま」
そう言うと彼女は、
遅いというような内容を壁の方を向いて頭を押さえながら話していた。
「ただいま」
私がもう一度そう言うと、
散々愚痴を零していた彼女が少し俯いて、
それから小さな声で床にむかって声を出した。
「おかえり」
久しぶりに懐かしい世界の色が香るように感じられた。
久しぶりに家に帰ってきた気がする。
私の名前は深山玲。
貴方にもいませんか。
迎えにいくべき貴方が。