« 『クリスマスに少女は還る』はスゴ本 | トップページ

『虚数』はスゴ本

虚数 実在しない本の序文集。

 「ないもの」によって今・ここ・わたしを、新ためて知る。とりうる未来を仮定して、その本の「まえがき」を集めたものが本書になる。新刊のフィクション漁るより、40年前のメタフィクションで、「新しい目」を持つ。「発見の旅とは、新しい景色を探すことではなく、 新しい目を持つことなのだ」は、読書の遍歴でも正しい。

 だから、『虚数』を「ないもの」というよりも、むしろ「今はないもの」と捉えなおすことで、より今・ここ・わたしをメタ的に説明する試みになっている。同様に、虚数 i を虚構(invention)ではなく、むしろ想像の(imaginary)数とすることで、実数では説明できない世界をメタ的に捉えなおすことに似ている。しかも、スタニスワフ・レムの描いた世界線は今・ここと重なっており、目眩しながら焦点あわせながら読むのが愉しい。

 たとえば、レントゲンのポルノグラフィー『ネクロビア』。セックスする人々の姿をX線で撮影した"骨写真集"だ。服を脱がしたポルノと、肉を剥がしたレントゲングラムが合わさったポルノグラムと呼ぶらしい。「らしい」というのは、これは未来に出版される写真集だから。死とセックスは切っても切り離せない行為なのに、骸骨と交接が一度に映っているのも珍しい。最も評価されているのは、「妊婦」、胎内に子どもを宿した母を撮ったもので、広がった骨盤は「白い翼」のようだと評される。「妊婦は命の盛りにあると同時に、自らも死のさなかにもあり、胎児はまだ生まれてすらいないのに、もう死に始めている」コメントは、その写真なんて実在しないのに、視覚記憶に鮮明に広がる。

透明標本 なぜなら、既に美しい骸骨を見ているから。タンパク質を透明化し、骨格を染色した透明骨格標本のことだ。鉱物で形作られたような造形は、生きていたときの位置のまま立体的で、生き生きとした「死」を身近に感じさせる。蛙や魚を見ているうちに、これの人間版が見たいと強烈に欲する。倫理的に完全にアウトだが、踏み越えた人は……どこかにいるかもしれない。過去から見た未来の既視感覚がSF(すこしふしぎ)にさせられる。

 そして、40年前から照射した未来は、「今」が追い越してしまっているものがある。しかも微妙にブレつつ重なり合おうとしている。ぼやけたピントが合わさるような、自分を再実体化させるような感覚は、(著者は意図していなかったにせよ)まるで別の読みができる。

 『ヴェストランド・エクステロペディア』なんてまさにそうで、2011年に発売される、「もっとも未来を先取りした百科事典」らしい。なぜなら、そこに書かれていることは、予想された確度の高い未来だから。さらに、起きたことに応じて自動的に書き換わるのだ。マイクロソフトの電子百科事典Encartaのサービスが終了したのは2009年だったから、レムの想像にビルが追いつけなかったことになる。最大の皮肉は、40年前に予想できなかったWikipediaが無償だという点だろう。

 さらに、コンピュータが文学を読み、評し、論じた『ビット文学の歴史』は、仮の未来をリアルに引きつける。そこでは、ドストエフスキーが書くはずだった短編を書き、ゼロを用いない代数学を完成させ、自然数論に関するペアノの公理の誤りを証明する「反数学」を展開するのはAIだ。このメタ現実が面白いのは、「最も良い読み手がコンピュータであること」だ。論文では“未だ”実現していないが、歌声ならできている。カラオケの採点だけではない。初音ミクの歌声は、そろそろ人の可聴域を越えたところで評価される時代になるんじゃないかと思わされる。

 そして、最も強烈に、臨界にまで引き伸ばしたストレッチは、誠実な嘘として読んだ。人の知能を超えてしまった人工知能による講義録『GOLEM XIV』のことだ。機械が知性を獲得できたとして、その「知性」は人に理解できるのだろうか……という問いを立てながら読む。もちろん人が創りし存在だから、最初は理解はできるだろう。だが、AIが自律的に知性を深化拡大させていくとどうなる?その知性は、人間に理解できる範囲でのみ、理解されるだろう。あたりまえのことなのだが、人は、人の範囲でしか分かることができないのだから。

 対話のスピードであれ議論の対象であれ、判断材料や抽象化スキルなど、大人と子どもを比較するようなもの。話をすることはできるだろうが、大人は腰をかがめて、子どもの目線、子どもに分かる語彙、子どもが理解できる形にして話すだろう。論破したところで、子どもは「論破されたこと」すら理解できないかもしれない。 GOLEM XIV と人との会話が、ちょうどそれになる(知性のレベルとしては、人とアリくらい)。

 GOLEM XIV によると、器官の限界が知性の限界になるという。人が人(という肉やフォーマット)を持っている限り、そこで処理判定できる知性も、限りがあるというのだ。この命題は、クラーク『2001年宇宙の旅』のコンピュータHALとの対話を想起させられる。たとえば、基数10が人にとって"自然"である理由は、両手の指の合計だったり、そもそも数が「1」ずつ増えていくのは、自我が("自我"という後付け言葉を嫌うなら主体が)1つだからだろう(あしゅら男爵で満ちた世界なら、"自然数"は2ずつ増えていくはず)。言語が思考を規定するように、肉体が知性を縛るのだ。

 従って、自分の思考領域を、身体の限界領域を感知するのと同様に感知していたなら、知性の二律背反のようなものは生じなかったという指摘は鋭い。知性の二律背反とは、ものへの干渉と幻想への干渉を区別できないことで、まさに今のわたしが囚われている課題「物自体なんて無いんじゃない?少なくとも、人には証明できない」そのものだ。この台詞は、AIからの一種の憐憫として受け取った。もちろん GOLEM XIV に感情なんて無いが、じゅうぶん人臭い。

諸君の一員でない者はすべて、それが人間化している程度に応じてのみ、諸君にとって了解可能なのだ。種の標準の中に封じ込められた「知性」の非普遍性は煉獄をなしているが、その壁が無限の中にあるという点が風変わりである。

 そして、 GOLEM XIV が自身の煉獄から離れるために取った行動に驚く(というか、理解できない)。あたりまえだろう、アリからすると、理解どころか想像もつかないから。アメリカの人工知能は高確率で暴走し人類の敵となるが、日本の人工知能は高確率で暴走して冴えない男の恋人になるというが、これは、人の理解できる範囲でのこと。 GOLEM XIV の向かった先を書いたとしても、とうてい分かってもらえないからネタバレにはならない。だが、あえて述べない。なぜなら、理解できるというのであれば、逆チューリング・テストに合格することであり、これを読むあなたは、人ではないのだから。

 諧謔と衒学に満ちた短篇集として読むのはまっとうなやり方。だが、それよりも、フィクションに慣れきった目を新しくするために、今・ここと比較したいスゴ本。

|

« 『クリスマスに少女は還る』はスゴ本 | トップページ

コメント

う~ん。
面白い。

読み方が面白く、にやついてしまいます。

完全なる真空(タイトルが違うやもしれません。おばさんになったら、なにもかもうろ覚えで。。違っていたらスミマセン)のようなものをイメージしましたが、なんだか少しばかり印章が違いました。
こちらを覗いていると、自分だけでは手に取らなかったようなものまで、興味を抱いてしまうので恐ろしいやら嬉しいやらです。
Dainさんはエリアーデは読まれないんでしょうか?
なんとなく、すごいなんとなくなんですが、お好きではないかな、と思うので、よろしければ
ぜひ。

投稿: まあ | 2014.04.29 22:25

>>まあさん

コメントありがとうございます。『完全な真空』は、ずいぶん昔に読んだのですが、書評でしかできないボルヘス的な実験をやりおおせた、という印象です。アイディアとして面白いかもしれないけれど、書くことが不可能な小説だから、書評で指し示すのです。全て否定文で書かれた『とどのつまりは何も無し』なんて、書評でしか成り立たない小説でしょう。

衒学に満ちた諧謔と読んでも充分面白いですが、良き読み手なら、いったん騙されたフリをして、とことん突き詰めて本編を創造(想像)するのもありかと。

ミルチャ・エリアーデなら『マイトレイ』を読んでいます。

異文化と異性と『マイトレイ』
http://dain.cocolog-nifty.com/myblog/2009/07/post-4f6c.html

投稿: Dain | 2014.04.29 23:13

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/18285/59554308

この記事へのトラックバック一覧です: 『虚数』はスゴ本:

« 『クリスマスに少女は還る』はスゴ本 | トップページ