渋谷望 「魂の労働」講演会 (三省堂書店自由時間内上島珈琲店にて )
20031206
18:40〜20:10 (1時間講演、30分質疑応答)
【内容】
前置き
・本にのせられなかったことを話そうと思う。権力のターニングポイントについて、ネグリ理論との突き合わせ、など。
1 68年から恐怖の消費社会へ−“J”の考古学
・内ゲバ、連赤事件では、国家の暴力を鏡像的に自らに反転、反復。しかも純化したかたちで。68年?。
・新左翼、全共闘による新たな敵対性のポテンシャルの自滅というものが72年頃にあった。
・そして、暴力(と政治的なもの)の痕跡の隠蔽され、反動として「消費文化」が出現。
・「J」的なもの、(政治的主張の無化、シニカルさが特徴)は、敵対性そのものを排除した。
2 ネオリベラリズムではなく、ポストフォーディズムを!(もう1つの68年)
・(しかし)国家権力や主権に対抗するために、主権をいかに自分たちのものにするか。快楽をいかに追求するかが、68年のポテンシャルにはあった。
・「ポストフォーディズム」:従来の「労働」カテゴリー内部の変化を記述。労働概念それ自体を問うものとしてのポストフォーディズム。一例として、イタリアのアウトノミア運動を紹介。それは、暴力の対極にあるものとしての〈生の喜び〉がある。〈生の喜び〉は、主権としての暴力の獲得とは、全く異なったポテンシャルである、と。
・アウトノミア運動の始まりは、「労働の喜びは信じられない。なぜなら、つまらないから」だった。それは、自分たちを、自分たちがなしうるもの、なりうるもの、から、切断しない。
・アウトノミアは、「自己価値化」と言える。それは、新しい生の形式実権の現れではないか。実権としてのアウトノミア。また、それと類似のものには、パンク、ヒップポップ、レゲエ、などがあり、世界同時的に生起した。
3 フーコーの権力論をめぐって
・ネオリベラリズムのフーコーは、リベラリズムにおける統治であり、管理社会における権力の作動であるが、ポストフォーディズムにおけるフーコーは、対抗的生権力に対する、これを封じ込めるもの、反動の形式として理解できる。「抵抗あるところに権力あり」
〔フィーディズム〕では、「生産」から「消費」への単純な矢印がある。(大量生産、大量消費)
〔ポストフォーディズム〕では、「消費」と「生産」の間には、「命令」(消費者の)やそれを「聞く」(市場調査)が加わり、それらも労働として位置付くことになる。だから、「生産」が、よりフレキシブルに、セルフメント化される。吸収・対応。労働時間を動かしたり、人員を増やす・減らす、なども含まれる。さらに、「消費」から自立していこうという運動(do it yourself)、まどろっこしいループから自立しよう、というのが、ネグリの「自己価値化」である。それは、スタイルとして、資本にいかに取り込まれないか、があり、アンダーグラウンドから出発しているものであり、自分たちの生を他と区別できる、真似させない、というものである。
【質疑応答】
Q:自己実現と自己価値化の違い
A:「敵対性」が後者にはあり、前者にはない。自己実現は、企業忠誠や協働、参加、など、敵対性、言い換えれば、政治がない。みんな仲良くで接合されている。自己価値化は、敵対性のなかで、主権に吸収されない。敵対性と言っても、殺し合うというものでもない。
Q:共同性との関連
A:〈生の喜び〉は、やばくなりかねない。敵対性のなかでの生の形式の創造である。宗教的なところに行かないものとして重要。敵はどこにでもいる。すぐそばの他者にも。それは否認できない。それを無視しては何もできない。その中で、いかに、自分たちの能力を増幅させるか。