公明党結党50周年に贈る
日本政治の “羅針盤” であれ ―公明党の過去・現在・未来―
専修大学教授 藤本 一美
「月刊公明」2014年4月号
公明党は、2014年11月17日で結党50周年を迎える。私自身も東京に出てきて50年になる。そこで公明党の歩みを踏まえた上で、今後の公明党が目指す課題を提示する。
1961年、 宗教団体の創価学会を母体にして 「公明政治連盟」を結成、1964年には政治団体としての基盤を固め、 宗教政党「公明党」が創立された。 1969年から70年にかけて、創価学会と公明党は自らを批判する書籍の出版・流通を阻止するために働きかけていた点が公になり、日本国憲法で保障する「言論の自由」を侵すものとして社会的な批判を受けた。またこの問題の中で、創価学会と公明党との密接な関係が憲法で規定した「政教分離原則」に反するという批判も強く国会で議論された。このように、公明党に対する国会での追及が高まる中、宗教色を控える方針転換を図り、国政選挙の候補者などに非創価学会の候補者を擁立、無所属の議員も入党させた。この場合の焦点は、前者は言いがかりに過ぎず、後者の「政教分離」とは本来、政治と教会の分離をいうもので、政治と宗教の分離をいうものではない。政治の世界から宗教色を無くすことはできないことを、当時の識者は理解できなかった。
以後公明党は、自民党と社会党の二大政党がしのを削る「55年体制」の中で、保守でも革新でもない「中道路線」の立場をとる。1973年以降、社公民を軸とする「反自民」の「中道革新連合政権構想」を提唱したものの、1970年代後半、地方レベルの首長選では自公民の路線を促進した。
公明党は長く中道路線を歩んできた。だが、1990年代に政策面で自民党に協力、自衛隊の海外派遣を認める「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」 (PKO法)制定に賛成、外交政策を転換した。また1993年には、非自民の細川連立政権に参加、結党以来初めて与党となり、郵政、労働、総務、および環境庁長官などの国務大臣のポストを得た。その後、新進党の誕生による分党期や1998年の新進党解散に伴う「公明党」の再結成を経て現在へ至る。そして、1999年からは小渕内閣の要請を受け、連立に参加、以後自民党とは10年以上連立を組んでいる。2013年12月からは、衆院総選挙で大勝利した自民党とともに政権与党の座に復帰した。この段階で重要なことは、公明党が方向転換、単に野党の立場から政府・自民党を批判するのではなく、連立を組んで与党の一員として、積極的に平和と福祉の実現に取り組み、政策を実現することを通じて、国民に対する政治的責任を果たす現実路線を歩んだことだ。
公明党は結党以来、福祉に力を入れ「福祉の党」と呼ばれた。1999年、公明党は小渕内閣に対して「地域振興券」の発行を強く迫り実現させることに成功。ただ、一部のマスメディアからは地域振興券は「公明党の失政」と揶揄された。一方、商店街の振興組合理事長などは「経済効果が抜群だった。もう一度やってもらいたい」と主張、評価は分かれた。この問題で留意すべきは、低賃金者が大多数を占める現代社会で、今日の生活にあえぐ人々にとってそれは、寒い時に暖かい物を買える最大の恵みであった、ことを忘れてならない。
公明党は、2003年党のマニフェストで、少子齢化が進んでも現役世代の平均収入の50%以上を保証する「年金100年安心プラン」を発表、また2005年には、自民党とともに、介助や援助を必要としている障害者に対して、福祉サービス利用料として一律1割の負担を求める障害者自立支援法を成立させた。
2010年7月の参院選に向けて発表したマニフェストの中では、公明党はうつ病や児童虐待など、現代の日本が抱える新しい福祉問題の解決に重点的に取り組む姿勢を示し、また、民間・公共住宅の空家をリフォーム、非正規労働者や年金生活者などの住宅困窮者に低家賃で提供する「セーフティネット住宅100万戸供給作戦」 の実施を明言した。なお、地方行政段階で公明党が与党入りすることで、困窮者のため生活保護の受給を行うよう市の職員に要請して好評を博している。
公明党は、憲法改正論議について党内に改正論と慎重論の二つが存在、党がまとめた案は自民党や民主党とは異なり、憲法第9条は1項 ・ 2項とも堅持、その上で第3項を加えるという「加憲」という独自の立場である。一方、日米安全保障条約に関して、公明党結成時の1964年においては 「発展的解消」を主張、だが、その後「段階的解消」 、 「早期解消」を主張、そして1974年1月には「即時解消」を提唱した。ただ、1975年10月には、事実上の存続を認める「合意廃棄」と軟化、その上で、1981年1月の公明党大会では、日米安保、自衛隊、および原子力発電を容認することを表明している。
公明党はイラク戦争で自衛隊のイラク派遣に賛成、2007年6月には改正イラク特措法(期限を2年間延長)の成立にも賛成した。なお、イラク戦争の開戦理由となった大量破壊兵器が存在せず、アルカーイダとフセイン政権が無関係だと米国自身の調査で証明されたものの、イラク戦争は(開戦当時の判断としては)正しかった、としている。
2007年3月、当時の太田昭宏代表は憲法改正について「自民党の改正案は集団的自衛権の行使を認めることが裏にあるが、われわれは集団的自衛権を認めない」と強調、その上で、2008年1月、衆議院の再議決を経て成立したアフガニスタン駐留米軍への自衛隊による給油支援を定めたテロ対策海上阻止活動に対する補給支援活動の実施に関する特別措置法(補給支援特措法)に賛成した。なお、2012年12月、自衛隊を国防軍に変更するという安倍晋三の発言に対しては反対の立場を示した。ここには、現実に流されるのではなく、大衆的論議を踏まえて、政策に対応している公明党の姿がある。
2012年9月13日、 公明党の山口那津男代表は、“立党精神、継承して50年”と題し、公明新聞紙上で党の目指すべき姿を語った、公明党の今後を占う上で参考となる。
いわく、公明党は、歴史的な“大衆とともに”との立党精神を継承して50年の佳節を迎えた。1962年9月13日、公明党の前身である公明政治連盟の第1回全国大会が東京・豊島公会堂で開かれ、党創立者の創価学会の池田大作・第3代会長が、立党精神の淵源となる講演をした。それは“大衆とともに語り、大衆とともに戦い、大衆の中に死んでいく” 。 政治家はどこまでも大衆とともにあれとの叫びは、今も心に新鮮に響き、公明党議員に受け継がれてきた不変の精神だ。
党創立者の講演では、 “大衆とともに” すなわち 「大衆直結」 、 「団結第一」 「たゆまざる自己研さん」の3指針が示された。政党は団結しなければ本来の役割を果たせない。派閥抗争や分裂を繰り返す国民不在の政党では、国民の声を集約し、果断に政策を遂行していくことなどできるわけがない。
その上で「団結して何をするか」だ。その答えは「大衆直結」 の政治を実践する中にある。 「大衆直結」の政治は、 民主主義の負の側面として指摘される 「ポピュリズム」 (大衆迎合主義) とは対極の位置にある。 国民の一時的な感情に迎合するのではなく、国民に密着してニーズ(要望)をしっかりと深くつかみ、将来の国民生活や国の利益を見据えて政策をつくり上げる。そうしてつくり上げた政策は、それが国民にとって耳障りの悪いものであっても、果敢に実行し説明責任を尽くせば、必ず国民の理解と信頼が得られる。公明党がブレずに筋を通した社会保障と税の一体改革は、その試金石と言える、と指摘した。
ここで大切なことは、立党50年を迎えた公明党が連立政権の土台となり、日本政治を平和と福祉へと導く“羅針盤”たれ、ということである。政治的安定へ向かう長期政権の礎となり、国民本位の政策実現に取り組んで欲しい。安倍政権の支持率が高いのは、山口代表の意見が奏功している部分が少なくなく、その意味で、日本政治の行方を決定する公明党の役割は極めて大きい。(ふじもと・かずみ)