僕は、ノマドです。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
読みました。
なかなか面白い。
ノマドというとその辺の喫茶店とかコワーキングスペースなんかを活用して、特定の場所に囚われることなく仕事をする人というイメージが僕のなかにはある。そうした、アドレスフリーどころかそもそもオフィスからもフリーな人たちであっても、実際的にはカネからは全くフリーではない。ある範囲での自由を手に入れるために、一方で手放している自由がある。でも、そうした不自由さからも脱するノマドがある、とのこと。
それぞれが真に平等な関係にあり、各自が獲得してきた資源をお互いに純粋に与えあって暮らしていく
そういった生き方を、多くの人々が追求するようになれば、本当に平等で自由な社会はやってくる
この辺は実際に引用元を読んでみないとなんとも言えないだろう。
この手の話を聞くと、おえっ、という拒否反応を示す方もたくさんいらっしゃるだろう
というのも仕方ないことだとは思う。
しかしその後の記述が面白い。曰く、そうした「遊牧民」は「インターネットの中」に「実際に存在する」という。どういうことだろうか?
ブログを書いたり、創作をしたりして、それを無料で発信したり、その中で面白いと思ったものをどんどん他人にも伝えていったり、あるいはその状況を面白くまとめたり、こういう不思議な共同作業というのは、本書にあるような「それを(自分だけで)所有する意味もないから」みんなにどんどん分配していくという純粋贈与の交換様式を成り立たせている
なるほどー、言わんとすることは少しわかるような気がする。このあたりの話は、phaさんの『ニートの歩き方』を思い出す。
ニートの歩き方 ――お金がなくても楽しく暮らすためのインターネット活用法
- 作者: pha
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実際には今の文脈での「ノマド」は食ってくための方法の一つなので、そこから外れてしまえばもう「ノマド」に当てはめる必然性がないのではないか、とは思う。元エントリで言及されているようなカネの流れからフリーな書いたり創作したりは、実際のところそんなに「純粋贈与」の意図に沿ったものだろうか?
僕個人の考え方としては、贈与とかそもそもどうでもよくて、書いたり創作したりが楽しいからやっているだけであって、公開するのはそのついで程度のものじゃないだろうか。それでカネを貰おうなんて思わないけど、あわよくば褒めてもらったりしてくれれば嬉しい、とか。そんな程度の意図しかない場合が多いように感じる。
ただ、贈与というのはそもそもそういうものだ、とも思う。
内田樹曰く、レヴィ=ストロースの贈与論によれば、贈与とはそもそも勘違いから始まったのだという。つまり、極論すればその辺に転がってるものを拾って、拾った側は勝手にそれを「贈り物だ」と勘違いした。貰ったままだとなんだか気持ちが悪いので、拾った場所に返礼を置いておいた。そこから交易が始まったのだとか。
だから、ネットで自分が楽しいから書いたり創作したりして、それを見た人が勝手に贈与だと思い込んで、何かしらの返礼をするというのは健全な「純粋贈与の交換様式」なのだろう。
そうした意味で、
いや、それもただの幻想だ、と思われるかもしれない
という点についてはその通りで、むしろ幻想であるから良いのだ、ということが出来ると思う。
それ以降の部分についてはよくわからないので触れないでおく。
ただ、そもそも「幻想」であるところの「純粋贈与の交換様式」を、「ノマド」的な方法論に落としこんでしまうことについては危機感を覚える。それは幻想殺し(イマジンブレーカー)だ。
お歳暮とか年賀状とか、ああいうのはうざくてやってらんないって人、結構いるじゃないですか。貰ったから返さなきゃいけないけど、別にそんなもんくれなんて一言も言ってないみたいな。
上に書いたような「貰ってしまった以上、債権感をそのままにしておくのは気持ち悪いから返す」という仕組みは確かにある。だけどこの場合、実際のやり取りよりも様式が先行してしまっているので、送る側は「贈与」としてではなく「儀式」として「贈与」の形式を踏むにすぎない。これではもはや贈与の体をなしていない。だから「贈与を受けた」という感覚を持ちづらいのも当然のことだろう。だって贈与じゃないことがほとんどなんだから。
はてな界隈のどっか向こうの方で一時期話題になった「身内ブクマ問題」とかもこれと同じだ。「ブクマしてやったんだからお前もブクマ返せよ」みたいなことになってくるとアホかとバカかとってなるわけじゃないですか。
ブクマって要素が絡んでくると一部の人にはややこしそうなんで別にブクマじゃなくても何でもいいんだけど、要するに「してあげた」が先行してしまうと、それはもう贈与ではない。すべからく贈与とは「してあげる」ものではなくて、「してもらう」ものであるべきなのだ。
形式が出来上がってしまうと、そもそもは贈与であったものすら贈与ではなくなってしまうことがままある。人間はバカなのですぐ勘違いしてしまう。すぐに勘違いするバカであるからこそ贈与が成り立つ一方で、それ故に贈与を形骸化させてしまう。
まあ君、そう悲観的なことを言うなよ、なんて言われるかも知れない。確かに悲観的な意見かも知れないけど、そうそう的外れな意見でもないんちゃうかなと思うんですよね。ことネットにおいては、元々自由に楽しくやってたところに「べき論」を振りかざす自治厨みたいな人たちが涌いてきてコミュニティをぶち壊しにするみたいなこと、よくあるじゃないですか。
善悪の判断は一般的に押し付けを産んでしまうことが多い。だからそうしたものは贈与を殺してしまう。真の自由があるとすれば、それがあるのは善悪の彼岸なのだろう。