鉄の甲冑の着用(当時モンゴル人は布製だという)、漢文の備忘録(ジンギスカンは漢文が読めた)、ナイマン軍との決戦は屋島の夜襲と同じ戦術、「蒙古喇嘛教史」にジンギスカンは日本を平定したとの記述(源平戦のことか)があるなど、武人・文人・仮名にも堪能なジンギスカンというのだが、義経北行で一部「東日流外三郡誌」からの引用があって心配で、弘前市の円明寺の「弁慶の笈」が年輪年代法で証され、十三湊が鎌倉時代の「廻船式目」で良港と記述されたとしても、当時大陸側とどれ程の交流があったか不明だし、大陸側で当時日本人がいたこと自体不明な訳で問題点が残るが、先述の着眼点は評されるのでは。
また、大陸側の日本人町に関する記述も「東日流外三郡誌」に見えるというし、この点でも詳細検討の必要があるように思う。
ただ単に「東日流外三郡誌」を偽書として片付けてよいものか。
今昔物語・宇治拾遺物語などの安倍宗任のホラ話とされるものや、それ以前の靺鞨・粛慎との交易に関する指摘も出てきているし、多賀城碑に靺鞨との距離を記すなど当時大陸との関係を指摘し得る史料は無くは無い。
また、青葉高さんは大陸由来と中国南部由来に日本の野菜が分けられる旨述べていた(青葉高著作集参照)し、窪田蔵郎さんは渤海由来の製鉄技術の東北地方伝播の指摘をされていた。勿論、続日本紀には京の都が渤海ブームだったらしく、渤海側の国書に「本支分かれて百余世」(本流と支流が分かれて百世代余り)との記載がある旨の記述がある。