水処理を手がける小さな会社の会長、小田兼利の講演は、実験で始まる。
薄茶色に濁った水が入ったビーカーに小さじ1杯の白い粉を入れ、長い棒でかき回す。数秒で汚れ成分がおぼろ昆布のように固まってくる。手を止めると汚れが底に沈み、水は透明に。聴衆がどよめく中、小田はその水をごくごく飲んでみせる。
本題に入る時には、聴衆は身を乗り出している。
白い粉は、小田が開発した水質浄化剤だ。主成分は納豆のネバネバ成分のポリグルタミン酸。汚れの原因物質を固めて水と分離する働きをする。
ふと目にした文献でそうした性質を知った小田が、3年かけて量産する技術を編み出した。発想のもととなったのは95年の阪神大震災。神戸市の自宅で地震に遭い、飲み水を求めて行列に並びながら、公園の池を見て「この水を飲めたらなあ」と考えた体験だった。
もとは機械工学のエンジニア。大阪のダイキン工業に勤めた後、独立。
食品パックの印刷位置をそろえる装置や、ホテルの金庫などにある数字で合わせるロックなど、いくつかの発明品は今も広く使われている。
「何をみてもビジネスの種に見える」と小田は言う。
真夏に浜辺に転がるカキ殻の中で貝が生きているのを見て殻の耐熱性に感心し、壁の材料に使えないかと成分を分析したり、パレスチナを訪れて石ころの多さに気づき、運搬用の一輪車の輸出をもくろんだり。
「常に新しい技術のことを考えている」。布団の中で海水を浄化するポンプの設計を思いつき、午前3時に台所に立ち、大根でモデルを作ったこともある。
震災体験から6年ごしで製品化にこぎつけた水質浄化剤は、「残り半生をかける」と思える自信作だった。「道頓堀をきれいにしたら、ひともうけできると思ったんや」
だが、さっぱり売れなかった。役所に何度も足を運んだが、河川や下水道の公共工事の世界では既存の技術が優先され、実績のない小さい会社が請け負うのは難しかった。
「アジアに救われたんですわ」
国も自治体も見向きもしなかった浄化剤を、途上国が必要としていた。04年のスマトラ沖地震では、タイ人社員がいた縁で総領事館から要請があった。
07年のバングラデシュのサイクロンでは、小田の会社を知った慈善団体から直接依頼され、最も被害のひどい村に100キロ分を自ら届けた。空港から車で3時間走って川に出て、ひと晩かけて川を下り、さらに陸路を車と徒歩で6時間。
子どもたちはきれいな水を奪い合って飲み、お年寄りは「長生きしてよかった」と言った。
「自分たちを必要とする人たちがいることに、逆に力をもらった」
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どんな力が、「人生の壁」を突破する上で助けになっているのか。編集部が示した10種類の「力」について、自信のある順番に並べかえてほしいと自己分析をお願いしたところ、編集部が用意した中にはない「好奇心」を入れたうえで、「決断力」と「行動力を一緒にした。
1941年、熊本県出身。64年、大阪大基礎工学部を卒業後、ダイキン工業に入社。72年に独立。2002年1月に日本ポリグルを創業。国際ボランティア学生協会(IVUSA)特別顧問も務める。