April 26, 2014

『哲学入門』(1)


哲学入門 (ちくま新書)
戸田山 和久
筑摩書房
2014-03-05

 
戸田山和久『哲学入門』。いただいてから読み終わるのにずいぶん時間がかかってしまった。

すでに多くの人が指摘していることだが、『哲学入門』というタイトルではあるものの、一般に言われるところの哲学の全体像をつかみたいという人が読むように書かれた本ではない。しかし、戸田山さんが哲学だと思うものの全体像をできるだけまんべんなく描き出そうとしているという意味では、まさに戸田山さんによる「哲学入門」以外のなにものでもないという言い方もできる。
本書は哲学があつかってきたもの、その中でもとりわけ自然科学にのりそうにない「意味」とか「目的」とか「自由」とかを自然科学の枠組みの中におき直そうという試みで、『自然主義哲学入門』とでも呼ぶべき本である。もう少し正確に言うなら、『認知科学において哲学がやってきたことをもっと拡張してこれを哲学と呼んじゃいましょう入門』である。

その内容だが、大変勉強になる。取り上げられている話題はわたしも不案内な領域が多かったので非常に勉強になった。第三章の情報の哲学は、内容をふくらませてこれだけで単独の仕事として出版してもよいくらいの力作になっている。後半はデネットの紹介の部分が多くなるが、デネットの膨大な著作群を読むための手引きとして非常に助かる。

今回はあまり細かいつっこみはできないが、気になったところを書いていこう。長くなるので2回にわけて投稿する。続きはhttp://blog.livedoor.jp/iseda503/archives/1805753.html

p.21 戸田山さんは3つの戦略(還元主義、観点相対主義?、発生的観点をとる主義?)をならべ、自分は第三の戦略を採用する、というのだが、この三つがぜんぜん排他的でも網羅的でもないのが大変気になる。いろいろな観点があるという人だって発生的観点もその一つとしてとれるだろうし、発生とか進化とかいわなくても還元主義にならないやりかたはありそう。「哲学入門」だっていうんだから選択肢の整理くらいちゃんとやって範を示してほしい。


p.33 いろいろな分野の知見をくみあわせた「全体の大まかなスケッチ」を書くのが哲学者の仕事だ、という戸田山さんの哲学観がここで述べられている。これは確かに認知科学で過去40年くらいに哲学者がやってきたことであるし、生物学の哲学でも近年こういう仕事をするようになってきている。しかし、一般論として哲学が科学的研究の基礎になる大づかみなスケッチをするのが得意だとも向いているとも思えない。認知科学というかなり特殊な分野の、かなり特殊な一時期に、哲学者がその仕事を担ってきた、くらいに考えておいた方が適切なんじゃないだろうか。

p.34 「科学の手の及ばない、哲学だけでやれる領域を確保するために頑張る、というのはどう考えても不毛だ」と戸田山さんは言う。それがどう考えても不毛だと本気で言っているのなら、戸田山さんのさまざまな価値観に対する想像力は貧困だと言わざるをえない。それはともかく、非自然主義者は別に哲学だけでやれる領域を確保するために頑張っているわけではない。確保するもなにも、現に、素直に考えて今のところ科学の手の及びようのない問題を扱っているので、その問題に取り組んでいるだけだと思う。


p.126 ここで戸田山さんは概念分析と理論的定義という二つの哲学の仕事のイメージを表にまとめ、ミリカンや戸田山さんがやろうとしているのは概念分析ではなく理論的定義だと言う。その前のページで、概念分析の役割は典型例を教えてくれることであって、あとはその典型例について理論的定義を行えばよい、というような役割分担も提示している。そして、この表によれば「直観」は「概念分析」の側だけに関わり、「理論的定義」にはかかわらない。
このあたりについてはいろいろ言いたいことがあるが、簡潔にすませる。「概念分析」と「理論的定義」をこんな風に対立させるのは「誤った二分法」というやつだと思う。理論的定義を評価する際の「理論の目的」の中には、「われわれの概念に十分に合致させる」も入ってくることがあるし、その比率の大きさによって、理論的定義の仕事は概念分析に近くも遠くもなる。
完全に新しく作られた理論概念の定義なら直観に訴える必要はないだろう。しかし、すでに存在する概念で表されているを物理世界に「描き込む」のが目的なら、ただ単に「あたりをつける」だけでなく、「理論的定義」なるものを構築する重要なステップで、われわれは直観に訴えざるをえないはずである。実際、たとえばp,60で「ロボットはわれわれと同レベルの十全な意味理解を持っている気がしない」「このロボットにはまだ心がない感じがする」。このあたり、戸田山さん自身が議論のけっこう重要なステップを直観に訴えている。128ページではミリカンの「機能」概念が「日常概念の大事なところはちゃんと保存している」ことが指摘されていて、ここでも戸田山さん自身が、理論的定義の評価の一つの側面として直観を利用していることが分かる。自分で提示した二分法に従うふりすらできていない。
(戸田山さんの言う意味での)概念分析の側面と理論的定義の側面の両方を備えた作業のイメージとしては、カルナップのexplicationという概念がある(わたしは「哲学的明確化」と訳している)。わたしはちゃんとフォローできていないが近年哲学の方法論についての議論は実験哲学の登場をうけてまた盛り上がっており、みんなどんどん先に行っている。まあ方法論の話をするならその最近の議論をフォローしてから、とは(わたしもできていないので)言わないが、さすがにカルナップより後退しているのはひどくないか。(簡潔にすまなかった)

p.131 社会心理学が単なる民間心理学の追認ではなく科学になる理由は「体系化」だと戸田山さんは言う(尺度を使うとか統計処理をするとかもあるが、それだけでは十分ではない、と言う)。次のページでは「抽象的・統合的に理解する枠組み」をつくることが「心理学を科学たらしめている」とも言う。
ここもいくつか言いたいことはある。民間心理学だって欲求と信念という二つの概念を使って広範囲の人間行動を説明することで、すでに巨大な統合をなしとげている。その欲求信念心理学の圧倒的な巨大さにくらべれば社会心理学が付け加える統合なんて微々たるものではないのだろうか。他方、孤立した現象でも、しっかり統制された実験に裏付けられた現象(特に既存の民間心理学で知られていなかったような現象)であれば、それを発見する作業は科学と呼んでよいような気がする。ということで、統合が本当に科学としての心理学の必要条件ないし十分条件なのかというのは大変疑問である。
しかし、それより気になるのは、戸田山さんがここでもまた、「科学」という概念についての自分の直観に気軽に訴えているように見える点である。もちろん、直観に訴えるなというのではない(わたしも訴える)。戸田山さんは直観への訴えが哲学の隅々に行き渡っているということについて自覚がたりないんじゃないだろうか、ということが言いたいのである。

pp.136-137 カミンズに対するミリカンの批判を戸田山さんが批判する、というちょっと複雑な構造の箇所だが、ミリカンの批判はカミンズが概念分析をしているという前提にたっているが、そうではなく理論的定義として理解してあげよう、と戸田山さんは提案している。これも誤った二分法がかえって思考のさまたげになっている例だと思う。カミンズの分析にも当然のように両方の要素があるので、両面から評価すればよいし、そうするべきだろう。また、ミリカンに対してつっこむべきポイントは、カミンズが救おうとしているのはミリカンとは別の直観じゃないの、というあたりではないだろうか。

p.141 トップとボトムから議論していってまんなかでうまくつなげよう、というアプローチについて「およそ学問はこういうやり方をとるもんだ」とまた根拠もなく学問すべてに一般化しているが、ミドルから始めるっていう学問だってあるんじゃないんですか?

pp.145-146 ここで戸田山さんは「情報とは何か」という問いにどう答えればいいか、という問題をたて、三つの手順をふんで進む「概念工学」というイメージを提示する。この三つの要素を持つ作業を哲学者が行ってきたということ自体はわたしも同意するし、それを概念工学と呼んでもよい。しかし、われわれが情報と呼んでいるものが何なのかを明らかにする、というのが理論の一つの目的なら、実際の用法とつきあわせるのは、作業の出発点だけで(手順1として)行うことではなく、常にそこに戻って行きながら作業をすすめるようなものになるだろう(したがって最後まで概念分析はつきまとう)。工学の比喩でいうなら、戸田山さんのイメージする概念工学はイノベーションのリニアモデルに近いけれど、わたしのイメージは連鎖モデルに近い、ということになるだろうか。

pp.178-179 ここで情報は真理を含意する、つまり「間違った情報」というのは撞着語法だというのが、情報という概念が満たすべき要件として提示される。戸田山さんはこれを要件とすることに反対する直観をわれわれが持つことを認めつつ、二つ別の情報概念があって、そのうちの真理を含意する方を分析する、という。一般論としてはそういう戦略もあっていいのだが、ここではこれはちょっと疑問である。
そもそも「間違った情報」はありえず「情報もどき」でしかないと思う人が本当にそんなにいるのか。特にここではシャノンを出発点として工学における情報概念を分析してきたわけだが、工学系で情報という言葉を使うときに、その内容が真かどうかがそれが情報かどうかの定義にかかわるような用法が本当に存在するのだろうか。
仮にそういう人が一定の比率でいたとして、そんな直観の割れる項目を、わずか二つしかない情報内容の定義がみたすべき条件として掲げるのは本当に適切なのか。むしろその点についてはどちらにも対応できるような定義を考えるべきじゃないのか。

pp.181-182 それで、情報内容の定義が提示されるわけだが、そのときにもう一つ、情報の量とは「sがFであることによって生み出された_その量_でなくてはならない」という条件が付加される。しかし、この「その量」であるという性質がその直後で提示された「条件付き確率1」という定義でどう満たされているのかが分からない。条件付き確率というのはいろいろなものの存在比によって機械的に計算されるので、ある対象の集合において、たまたま条件付き確率が1になる二つの事象の組み合わせというのは山ほど存在する。わたしの財布に入っている紙幣はたまたま今すべて日本銀行券なので、わたしの財布に入っているという条件の下である紙幣が日本銀行券である確率は1だが、「その紙幣がわたしの財布に入っている」という信号が持つ情報の量は、その紙幣が日本銀行券であるということによって生み出された「その量」なのか?というかどの「その量」について考えたらいいのだろう?
たぶん、ここでいう「その量」をちゃんと分析するには様相論理系のツールが必要なのだと思うが、それを単純に確率演算で代用しようとしているために問題が生じているように思われる。p.203で戸田山さん自身も同趣旨の指摘をしているように見えるが、そこでもドレツキ流の条件付き確率による情報の定義が本来の領域ではうまくいっているということは認めているように見える。

つづく

iseda503 at 03:02│Comments(0)TrackBack(0)

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