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佐々木俊尚 Toshinao Sasaki


 「携帯電話にインターネットの情報を流すビジネスを立ち上げようと思っているんだけど、手伝ってくれない?」
 夏野剛が旧知の松永真理(現バンダイ取締役)から連絡をもらったのは、1997年夏のことだった。
 あ、携帯か!。そうか、その手があったのか――。松永の言葉に、夏野は頭を殴られるような衝撃を受けた。
 この年、夏野は破たんしかけたネットベンチャー「ハイパーネット」の副社長の座にあり、絶望の中で会社再建のために走り回っていた。すでに半年、役員報酬は受け取っていない。貯金はすべて失われ、生活資金は底を尽き欠けていた。
 しかし疲弊し切っていたはずの夏野の頭脳は、「携帯電話」「インターネット」という言葉を松永から聞いた瞬間、猛烈なスピードで回転し始めていた。
 当時、携帯電話は爆発的な普及を続けていた。97年3月末、PHSと携帯電話を合わせた累計加入数は約2700万台、普及率は21・5%に達した。96年2月には1000万台だったから、猛烈な速度で普及が続いていたことがわかる。パソコンを使ったインターネットの利用者が当時、1000万人程度で足踏みしていたのと比べれば、そのインフラとしての母数の大きさと将来性は圧倒的だった。
 その数字の大きさに、夏野は衝撃を受けたのだ。そしてこの時の会話が、夏野にとってのiモードのスタート地点となった。夏野はこの年の秋にNTTドコモに入社。榎啓一(現NTTドコモ常務取締役)や松永らとともにiモードの立ち上げに奮迅し、そして今日への隆盛へと導いていくことになる。
 いったい松永の言葉のどこが、夏野を子供のように興奮させ、高揚させたのだろうか。
 米国の大学でMBA(経営学修士)を取得したという経歴にふさわしい明るい強引さと、そして入ってきた瞬間に部屋の中の空気をがらりと変えてしまうにぎやかさ。そんな華やかなイメージが夏野には常について回る。
 もっとも、夏野は子供時代はコンピューターマニアだったという。今でも、その片鱗は残っている。「今でもね、秋葉原が大好きなんです。オタクの血が騒ぐんですよ」
 週末には2歳年下の妻と、渋谷や秋葉原の街をぶらぶらと歩いている。主に立ち寄るのは、家電量販店。ただひたすら、デジタル機器が大好きなのだ。
 「機能とデザインが一体化した機器を見ると、すごく胸が騒ぐ。デザインだけが先行しているのではなく、機能と一体化していなければいけない」
 NTTドコモの新製品が出るたび、夏野は記者発表の席で浮き浮きするような笑顔を見せる。そんな時の表情は、ひとりのマイコン少年に戻っている。
 夏野は都立井草高校を卒業後、早稲田大学政経学部に入学した。文系学部に進んだのは、自分の道を小さく狭めたくないと思ったからだという。大学時代はリクルートで編集のアルバイトに携わり、ここで松永と知り合った。大学卒業後、夏野は東京ガスという職場を選ぶ。おしゃれでイベント好きでスマートな人物、と夏野を見ていた周囲はあっけにとられたが、夏野は「将来の可能性を広げようと思ったら、インフラビジネスに近い場所にいる必要があると思った」と考えていた。
 都市開発を手がける部署に配属され、5年間を過ごす。そして93年夏、転機が訪れた。米国のペンシルベニア大学経営大学院ウォートンスクールに留学したのだ。
 この学校で夏野は、MBA(経営学修士)を取得した。だがMBAよりも、もっともっと重要なことを夏野はウォートンスクールの2年間で学んだ。それは、「インターネット」と「複雑系」というふたつのキーワードだった。
 夏野が留学した93年当時は、インターネットはまだ一般社会にはほとんど認知されていなかったといっていい。まして、技術者にしか使えないようなテクノロジーを真面目にビジネスに取り込もうと考えている人間は、日本では数少なかった。しかし米国では、圧倒的な勢いでインターネットビジネスが立ち上がりつつあった。その潮流の中で、ビジネススクールでもインターネットは最先端のビジネストレンドとして語られ始めていた。
 夏野は語る。
 「僕はもともとパソコンマニアだから、電子メールはすでに使っていたし、インターネットの知識もあった。だがそれをビジネスに使う、コミュニケーションのあり方を変えてしまうなんてことは思いもよらなかった。しかしウォートンでは、インターネットがビジネスに大きな影響を与えると力説している。これはすごいことなのかもしれないと、気づき始めた」
 そしてもうひとつの収穫が、「複雑系」だった。
 複雑系というのは、従来の数値分析ではとらえることが困難だった気象や生命、経済などの現象を、カオスやフラクタルなどの新たな概念で分析しようという考え方だ。
 夏野はこんなたとえ話をする。――1000人のデモ隊がいたとする。片方は全員が自発的な意思で参加しており、もう一方は組織化されてデモを行っている。そこに巨大な石を投げ入れたとしてみよう。前者はいったんは陣営は乱れるものの、すぐに全員が結集し直し、デモの列を作り直す。しかし後者はたったひとつの石が投げ込まれただけで、すぐに離散し、みんなが逃げてしまう。意思を持った100人と、意思を持っていない群衆100人ではその力の強さ、慣性がまったく異なる。
 その「意思を持った人々」がインターネットとつながるとどうなるか。会社と個人、個人と個人、会社と会社、それぞれが接続されていき、相互に大きな影響を与えるようになるのではないか。
 「帰国したら、インターネットのビジネスをやろう」
 ようやく30歳になったばかりだった夏野は、そう決意した。
 95年5月に帰国し、ベンチャー企業のハイパーネットに誘われて取締役副社長に就任。米国で学んだインターネットビジネスのコンセプトを、この場所で思う存分実現させるはずだった。
 同社は広告を配信することでユーザーが無料でインターネットに接続できるシステムを開発、実用化していた。ユーザーは趣味や年齢、職業などの個人情報を登録し、このデータに合わせた広告の配信を受けるシステムだ。いわば世界で初めて実用化されたプッシュ型のネット広告で、そのビジネスモデルの素晴らしさには業界からも絶賛を浴びていた。96年のニュービジネス大賞を受賞し、米マイクロソフトのビル・ゲイツ会長も一時興味を示したほどだった。
 サービスも、ユーザーから圧倒的な支持を受けた。無料の会員は96年4月のスタート時からわずか10日間で1万人に達し、最終的には30万人にまで到達した。だがシステム障害が多発したことなども影響して、広告は増えない。収益は坂道を転げ落ちるように悪化し、資金繰りに苦しんだ挙げ句、最後は破産という結末を迎えることになる。その発想の素晴らしさが賞賛された社長の板倉雄一郎は、後に「社長失格」(日経BP社)というベストセラーを著わしている。
 この時期、苦境の中で夏野は何度も自問した。「何がいけなかったのだろうか」。得た結論は、「インターネットはすべてのプロバイダの加入者を合わせて1000万人程度。だが広告業界から見ると、1000万人ユーザーという市場は非常に小さなものでしかない。そのギャップを埋められなかった」というものだった。ベンチャー企業がどんなに頑張っても、市場そのものを増やすことはできない。
 そんなことを考えているとき、ふいを突くように現れたのが、松永真理の相談だったのだ。
 携帯電話なら、すでにユーザーは2000万人を突破している。おまけに「2秒に1台」という驚異的な速度で、増え続けている。しかもNTTドコモはインフラを担い、プラットフォームを握っている企業だ。勝負する土俵として、これ以上の存在はないのではないか――。
 そして夏野の頭の中には、もうひとつの考え方も浮上してきていた。通信会社が自社のサービスを普及させようと一生懸命努力するのには、限界がある。そのサービスを他の企業に使ってもらい、それらの企業がみずからの利益のために頑張れば、パワーは何倍にも増幅されるはずだ。それは、ウォートンスクールで学んだ複雑系の考え方でもあった。
 「自分のためにインターネットを利用して、それが他人のため、全体のためになっていく。そうした自律的なポジティブフィードバックが始まった時に、ビジネスは必ず成功するはずだ。その自律型の発展を、携帯インターネットというプラットフォームを持っているNTTドコモのもとで起こしてみたいと思った」
 この発想が、iモード独自のビジネスモデルへと発展していく。携帯電話会社がコンテンツ企業から情報を買い取り、それを携帯電話の画面に掲載する、というのが当初、コンサルタント会社から提案されたモデルだった。だが夏野らは「いろんな企業のパワーを少しずつ引き出し、みんなで一緒にマーケットを作ってやっていければいい」と考えた。それがドコモがコンテンツ企業と提携して「公式コンテンツ」をユーザーに提供し、その情報料を電話料金と一緒に徴収するという仕組みだった。「有料コンテンツは儲からない」というそれまでの常識を一掃するiモードビジネスは社会を席巻し、大きなインフラとして成長していく。
 夏野は「ぼくが語っているのは、iモードのスタッフ全員が議論を続ける中で共有してきたコンセプトだ」と言う。徹底的な議論の中で、さまざまな異能や異技術がぶつかり合い、新たなものを生み出していく。言ってみれば、それも夏野の得意な「複雑系」に依拠した考え方ではある。
 そしてそんな意思決定プロセスの中で、夏野が果たしてきたのは過激な「異物」としての役割だったのだろう。会議では、とにかく何にでも口を出す。「この人は気むずかしいから」「今、この人を怒らせるとまずい」といった気遣いは一切しない。ただひたすら、思ったことをぽんぽんと言い続ける。恨みを買ったことも少なからずあった。「将来はあなたの上司になるのかもしれないのだから、あまり敵を作らない方が……」とアドバイスされたこともある。
 だが夏野はこうした意見を、ほとんど一顧だにしていないようだ。
 「この会社にいるのは、事業を成功する以外に目的はない。会社のためにやるべきことをやるだけ」
 と切って捨てる。その代わり、@自分として確信を持っていることA理屈が合っていることB会社のためになっていること――その3条件をクリアしない主張はしない、ということを信条にしているのだという。明快といえばあまりに明快。しかし日本的な情緒の世界とはほど遠いとも言える。
 もちろん、中途採用の夏野がここまで自由奔放に意見を言えるのは、榎啓一という後ろ盾があってからという面もないわけではない。夏野自身も「榎さんがリーダーでスポンサー、僕はどちらかといえばクレージーリーダーかもしれない。コンサルタント会社に指摘されることだが、どんなヒット商品にもクレージーなリーダーと、それを社内で守ってあげるスポンサーがいる」と話すのだ。
 とはいえ、“夏野節”ともいえるドライさは、彼自身の精神と分かちがたく存在している気風だろう。それを夏野は、「仁義と任侠」という言葉で説明している。
 「仁義と任侠は、義理と人情とは違う。義理と人情が、不合理ではあっても人間関係から仕方なくおつきあいするような関係であるとすれば、仁義と任侠はきわめて合理的な関係である。WIN−WINの関係が成立しなければ、成り立たない関係である」(著書「ア・ラ・iモード」より)
 スタートから5年。iモードは圧倒的な成功を収め、夏野もネット業界の有名人の仲間入りをした。1999年2月のサービス開始から4年。今年3月期の決算発表によれば、iモードの契約数は約3776万。ひとつのサービスへの加入者数としては、空前絶後の数と言っていいだろう。iモードの有料サイトの市場も、今年2月に月間100億円を突破した。さまざまな企業のパワーを結集させるという夏野のコンセプトは、ほぼ狙い通りに実現したと言ってもいいだろう。
 とはいえ、NTTドコモのビジネスに、陰りが現われ始めているのも事実だ。3月期の連結決算では、前の期の大幅赤字から一転して約2100億円の純利益を計上したとはいうものの、売上高は3%増にとどまっており、成長の鈍化がはっきりしてきた。第三世代携帯電話のFOMAが低迷を続ける中で、同社が今後、どのようなビジョンを提示していけるのかは不透明だ。
 夏野は「インターネットも社会も複雑化する中で、将来の予測はきわめて難しい。今やるべきことは、最大2年先まで何をやるかを緻密に積み上げること。具体的に言えば、iモードを国民のプラットフォームとして位置づけていくことだ」と話す。
 そして日々、殺人的なスケジュールをこなし続けている。「海外出張は月に4回」「毎日10回程度のミーティングや会議が予定に入っている」と話す夏野は、心なしか嬉しそうだ。動いているという状態を、夏野は愛しているのだろう。そしてひたすら疾走を続けながら、目に入るすべてのものをどん欲なまでにみずからの中に取り込んでいく。この新時代のビジネスパーソンは、いったいどこまで走り続けていくのだろうか。
(敬称略)