第五章 日本と粛慎及義経大陸に渡る


往昔亜細亜大陸の東部に粛慎國あり、其東端は一衣帯水の海を隔てゝ我が樺太に隣接せり。周の成王東夷を伐ち粛慎来貢すと尚書序に載せ、武王商に克ち粛慎氏来て梏矢石蒼を貢すと魯語に記載するは皆此の粛慎なり。我が國史に始めて見ゆるは欽明帝元年佐渡に粛慎人の騒乱ありしことなるも、偶々彼等が本邦の辺土に在りて擾乱を醸し、此事京師に報告ありしより史官の筆に上りたるまでにて、共時以前より既に粛慎人は蝦夷の西岸より日本海に面する北越地方に往来移住せしこと瞭かなり。
 古昔の越の國は今の越前越中越後の総称にして、和銅年間其の國を前中後に三分して以て現今に至れるなり。而して常時の住民も全く別種の民族なりしことは、古事記にこれを高志の速呂智と称するに徽すべし。高志即ち越の人は自らをオロチ人と称せしか、或は性質獰猛なりしより時人彼等をオロチの綽名を以て呼び做せしことが傅説となりて古事記に載せられ、而して後世の國學者は、有史以前を称して上代とあるを、語晋の上は神と相通するより、之を神々の御代と解釈して上代歴史を不可解のものたらしめたる如く、オロチとあるを眞実の大蛇と曲解せるより迷雲史籍を蔽ひ、世を惑はすに至りしは所謂史病と謂ふべきなり.學術上の研究には一切の情実を避け、虚心坦懐にして古事記の文を謹釈するに、遠呂智とは今の島根県へ仁多郡船通山を初め斐伊川の沿岸に割拠して製鐵に従事し居りたる粛慎のオロチ人の義にして、其の目は赤加賀知とあるは酸漿の如く赤きを意味し、其の腹を見れば悉く血爛れたりとは皮膚の血色をいひ、其の身に羅と檜杉生ひとは、多毛を形容するなり。其他酒を嗜むこと及び婦女を掠略すること、その身に帯する武器を都牟刈之大刀、即ち刀身廣くして先の尖りたる剣となせる等は、其の民族の有様を説明して餘蘊なき古事記の記録なり。現今の西比利亜にツングスと称する歴史的一民族住す。千九百十一年露國政府の調査に拠るに、人口約七萬六千を以て算せられ、外に同種族は満洲及び支那の国境にも多数散在す.北部に住するものを西比利亜ツングスと云ひ、南部に在るものを満洲ツングスと称す。此等の種族は六族に別たれ、其中にて最も優勢なるものをオロチ(Orotchi)族と称し、現在はハバロフスク及びウドスク郡とオレクマ河畔等に多く棲息す。彼等は古の女眞・渤海・高勾麗或は金朝として栄えたることあり、更に粛慎・?婁・靺鞨等の時代にも密接なる関係を有す。同民族の特長は中位の身長、大なる頭骸、廣き肩幅、漆黒の頭髪と黄褐色の皮膚等にして、性質頗る剽悍なり。彼等の婦女に美人多く、まゝ皮膚の白色なるものあるを見るは、高加索女子の系統に依るものなるべし。而して此のオロチ族は、大體に於て我が古事記に傅ふるオロチに相似たるものあり。我が北越地方には、今も皮膚白色の美人多しとする如く、有史以前の上代にありても、其の地方に美女の多かりしことは、古事記に、大国主の命が越の女に通ひたまひし譚を傅へて、「八千矛の神、高志の國の沼河此売を婚ひに幸行しゝとき、其の沼河此売の家に到りて、歌ひたまはく、八千矛の神の命は、八島國、妻覓き不得て遠々し、越の國に、賢し女を、有りと聞かして、麗し女を、有りと聞こして、眞結婚に、在り立たし、結婚に、有り通はせ云々」とあるに徹すべし。
 古事記の所謂高志は越の國をいひ、出雲今市町に接する処にも越の地名ありて古志と書す。出雲風土記に「時に古志国人等到来し堤を為して宿居せし処なるが故に古志と云ふ」云々と記し、又出雲の神門郡に高志郷あるに徴すべし。本邦に往来せる所謂高志は粛愼人にして、国史に粛愼と書きてミシハセと訓するは當時其本國を斯かる名称にて呼びしが故なるべし。移住民族の常として婦女の尠かりしため彼等は時に財物婦女を掠奪して辺土の住民を苦ましむるより素盞鳴尊先づその武勇を彼等に示し八俣の酋長等を殺したまひ。崇神天皇の朝に大比古の命は四道将軍の一に任ぜられ命を拝して高志を鎮定し。斉明天皇の朝に、将軍阿倍比羅夫敕を奉じて高志を鎮定し、更に舟帥二百艘を率ゐて高志の本国なる粛愼を征し、其の國の大河の在る処に政所を置きて還れり。北海道志に将軍阿倍此羅夫が政所を置きたる処は、所謂粛愼に非ずして今の北海道虻田郡の眞狩なりと載せ、アイヌ語のマツカサ山に、比羅夫の遠征地に縁み、新に後方羊蹄山と命名せるも、當時開拓使に仕へたる吏員には幕末の儒生多かりしが故に鎖国時代の思想全く除かれず、彼等は内地の小山川を見慣れたる眼を以て比較的廣大なる蝦夷の山河に接して先づその気を呑まれ、何等拠るべき證尤も無きに拘らずマツカリ山の麓なる原野を以て此羅夫が政所を置きたる処なりと断じ、叉内地の或學者は其の著にこれを出羽秋田の八郎湖の沿岸にある一小寒村綴子に擬したるなどは古将軍を辱かしむるの甚しきものとす。而して現代人も更に覚醒する所なく其等の説に盲従し、薪に北海道眞狩の一駅に将軍の名に縁み比羅夫駅と命名し、青森函館間を航行する連絡船に比羅夫丸の名を以てせるは無稽の極となす。鳴呼世人何ぞ蚊鳴蝿吟の域を脱し百尺竿頭一歩を進めて、古の日本府なる対岸のニコリスクを比羅夫と呼び、浦潮敦賀間を航海する定期船に比羅夫丸と命名するの挙に出でざるや。
 斉明天皇の六年は、日本が百済を援け新羅を伐って克たざらし時なり。将軍阿部比羅夫が、朝鮮の北境に在りて新羅を後援せる粛愼を征したるは用兵上より論じてあり得べき事なり。然るに何を苦みて辺境の孤島なる今の北海道に渡り夷民を征伐するの要あらんや。筑紫紀行(享和二年菱屋氏著)の筑前太宰府の條に「此所より東南の方に湯町といふ所ありて、其処は普斉明天皇上座郡朝倉の行宮に止り給ひし時、御湯治に行幸ありし所なりと傅ふ。刈萱の関の跡は此所より二十町許り南西の方、通古賀村といふ所の道の傍の田の中にあら、斉明天皇百済國の軍を援ひ給はんとて行宮を朝倉山に建させ給ひし時、関を刈萱の里にすゑさせ給ひしといひ傅ふ云々」と載す。斯の如く西域百済を援はむ為め大元帥たる天皇が筑紫に御西下ありしに、将軍比羅夫北して今の北海道を征したりと做すは前後矛盾せる説と謂ふ可し。国史に比羅夫が大河の辺に政所を置きて還ると載するは、今の浦潮斯徳の西北に方るニコリスク市郎ち舊名雙城子と称する処に外ならず、而して大河とは雙城子の緩芬河を指せるものなりと余は断ず。是れ日本海特に我が筑紫に面する今の東部西比利亜に、大河と称するものは緩芬河以外に存せざるが故なり。雙城子の都市は洪積層の上に建てられ、現在の緩芬河は水漸く涸れて橋を架したる所の河幅は三四十間に過ぎざるも、両岸一帯は古の河跡なる中積層にして、著者は此の両岸の低地を東西一直線に徒歩せるに一時間餘を要せしより推測するも、此河は往昔日本海に注ぐ一大河なりしこと瞭然たり。左に日本と粛愼即ち渤海との関係史実を拳げて往昔如何に彼我両国間に交渉ありしやを證せむ。国史に曰く聖武天皇神亀五年劾海国使節を我朝に遣す。淳仁天皇天平寶字二年十二月小野の田守渤海に使して還り唐に安碌山の乱あるを奏す。光仁天皇寶亀三年正月渤海国来貢す表文無禮なるを以て之を卻く。清和天皇貞観十四年五月渤海國来貢す少内記都良香をして掌客使と為らしむ。醍醐天皇延長八年四月東丹國使丹後に来りしも之を卻く、是より先契丹主渤海國を攻滅し東丹と改號す云々。
 如上は我が正史に載する程顕著なる事のみなるも、此の外に多くの隠れたる事柄の存在せしは測知するに難からず。往昔日本人の多数が渤海國の雙城子に往せしこと、及び渤海人が日本に在りて渤海語を教へたりなどゝ云ふ傅説は、今も彼地の土俗に遺るにて其の一端を窺はる。凡そ他國を征するには征すべき正當の理由ありて征するものにして、対外的何等関係なきに他國に対し暴拳を試むるが如きは正義を尚ぶ我が歴朝の敢てせざる所なり。斉明天皇の敕を奉じて征路に上りし将軍阿倍比羅夫は、朝鮮を後援し、累を日本に及ばす粛慎國を征して彼処に政所を置きたるものなることは疑義を容るべき餘地を存せず。其の航路も有史以前の古より一定しありて時人は其の海路を辿り彼我往来せるものなれば、鎖国時代の人が想像せし程の國難もなく、叉冒険なりとも考へざりしや推して知るべし。往昔蝦夷即ち今の北海道よりも東東等彼地に渡りて貿易せしことアイヌの口碑に存す。彼等は樺太より対岸に渡り黒龍江を溯航せるなり。叉対岸なる彼地の土民も昔蝦夷地に往来して物々交換せる事実ありしは蔽ふべからず。満蒙探見家なる陸軍大佐林大八氏往年沿海州黒龍江の一駅マリンスクに滞在中、土地のギリヤクの豪族の家に熊祭の祝宴に招がれて赴きたるに、日本製古代蒔絵の食膳に食器を揃へて約十組を出し馳走の準備しであるを見、其の出所を聞きしに、以前は三十組もありし由にて同家の祖先が樺太に赴き物々交換し来りしものなり云々と。昔時交通の状況想ひ見る可し。北海道のアイヌ間に内地に産せざる所謂蝦夷錦及び満州に産する青玉その他刀身廣き蛮刀などを秘蔵するものあり、此等は往時彼等の祖先が今の沿海黒龍地方に渡り物々交換若くは労働賃金の代償に得たるものなりと傅ふ。蝦夷錦に就ては、文禄二年松前藩主慶廣が京都に秀吉に謁せしとき、慶廣の服装の異様なるより秀吉の注目を惹き、その何なるやを問はれしに「奥狄唐渡より夷人が持渡りし唐衣」即ち山丹よりもたらせる蝦夷錦なりとて即座にこれを脱し秀吉に献じたる逸話あり。流石豪奢を極めたる豊公の眼にも珍奇に映じたる程なれば本邦の産に非ざるを知るべく、之に依りて蝦夷は古くより対岸の大陸に通ぜしこと瞭かなり。
 我が内地にありても、特に平安朝より源平時代に亙り東亜大陸との貿易盛にして、博多長崎等には唐船の出入頻繁を極め、支那より高僧碩學の入朝する者多くありたれば、大陸の地理状況は検非違使の職にもありし義経の豫め関知し居りし所なるべく、且叉敗将宗盛が院宣に奉答せる文中に「浪に引れ風に随ひ新羅高麗百済契丹に赴かば異朝の財と成ると雖も遂に帰洛の期なからんか」とあるに看るも、當時既に契丹の存在を識り併せて敗軍の将若くは流落の士の遁れて落行く先は其等の国々なりしことも想見せらるゝなり。逮捕の令の厳くして日本國内に身を容るゝ処なかりし義経は、窮餘蝦夷の往来せる海路を辿り契丹即ち往時の粛慎渤海に遁るゝより外に施すべき策なく、況や危機存亡の秋には北夷に逃るべしとの秀衡の遺訓ありしに於てをや。
 蝦夷の傅説に曰く、昔し判官は金色の鷲を趁ひてクルミセ國に行きたり云々。今の西此利亜沿海州の土人間に往昔日本人が攻城に砂金を求め黄金を掘り鐵鉱山を開掘せりといふ傅説あり。陸奥藤原氏三代の驕奢の資源は抑々何処に求めて獲たるものなりや。殿楼寺院の建造には惜気もなく黄金を鏤め、或は治承の兵火に焼けたる南都東大寺の大佛修覆の鍍金に用ひん為め砂金三萬両を進上するやう秀衡に院ノ庁の下文ありし等に拠り、陸奥に於ける金の産額は莫大なりしが好くに想像せらるゝも、其等は果して限りある陸奥領内の銀山より無限に産出せるものなりや頗る疑問なり。或は土人の口碑に傅ふる如く當時殆ど無人の彊域にして蝦夷地とは一衣帯水なる彼岸に寶庫となる金山を擁し、砂金黄金等を彼地よりもたらしたるものにあらざるか。而して判官が金色の鷲を趁ひて彼岸に赴きしと云ふ傅説は陸奥藤庶氏関係の金山を頼りて渡海せりとも解せらる。
 現今世界の黄金の一割は実に西此利亜より産出するものにして「西比利亜の地の底は黄金なり」とは露西亜人の豪語する析なり。而も其の大部分は黒龍江の渓谷に産する砂金にして敢て機械力を要せず人は河底の堆積層の中より黄金を採取し、或は手掘りと称して河岸の砂を洗ひ流し残れる金塊を集むるまでのことにて採取法は今も昔と異ならざるべし。天気晴朗のとき黒龍江口の山は樺太より肉眼にて望見し得らるゝに、記録の徴拠なきが故に往昔日本人の彼処に到りたる者なしと断ずること能はざるべし。近き一例を以てすれば、寛文年間蝦夷に沙牟奢允の乱ありて、松前藩が猥りに内地人の入るを禁じたる志府舎利地方に数多の内地人及び鉱夫等が人込み居りしを知り、松前藩も江戸幕府も上下拳げて震駭せることあり。當時数百の鉱夫が奥蝦夷に入り込み居り出羽の人庄太夫なる者は酋長抄牟奢允の女婿となり謀主として威を振ひ、周囲数丁に捗る土塀を廻したる城廓に等しき居館をシフシャリ河岸に構へ居りし等の事は、擾乱鎮定の後松前藩より幕府に上りたる報告書に明記せられたり。當時若し此の反乱起らざりせば、是等の事実は全く内地人に知られずして止みたるや必せり。況や奥地に和人の入り込み居りしことは遥かに古く遡るものあるに於てをや。最近薩哈連州亜港に駐屯する我が歩兵聯隊に於て發行する週報「北星」に、偉大なる日蓮宗の力と題して左の記事を載せたり日く、「黒龍江を尼港より溯ること約二十里、アムグン河との合流点南岸ツイルと云ふ処に土人の小部落あり、此処には永寧寺と號する日蓮宗の寺跡あり。此の寺は日蓮聖人の高弟日持上人の開基にかゝるものなりと傅ふ。然らば今より約六百二十年の昔、黒龍江の流域に朝夕南無妙法蓮華経の題目と共に太鼓の音が響き渡りし訳にて実に痛快限りなし。日持上人は奥州津軽より蝦夷に渡り更に樺太より大陸に渡りしなり」云々と。是等の事実に徴するも六七百年の昔に於て既に日本人の多数が今の東部西比利亜に人込み居りしこと昭々としで瞭かなり。義経自ら期する所なくして漫りに無人の境域に渡るものならん耶。
 忽必烈の世子成宗(成吉思汗の曾孫也)の時、内廷に秘史あり、脱必赤顔といひ、成宗の孫、仁宗之を訳出して聖武開天記と称す、成吉思汗の出処及び事跡を載せたるものと云ふ。虞集が遼・金・宋三代の歴史騙輯の総裁となりし時、これを閲覧して以上三史に関係ある成吉思汗の記事を修正せんことを奏請せしも、外人に披鬩せしむべきものに非ずとのことにて遂に止む。然れば支那史に汗の出処其他を明載するもの無く、忽必烈以後始めて列皇の実傅を存す。外国人の著にかゝる成吉思汗傅の殆ど熟れにも、汗はニロン族に出でテムジンと称し、父をヱゾカイと云ひ青年時代に鍛冶を業とし、而して始め事を拳ぐるやニロンの鉱夫等先づ彼の味方となれりと記せり。茲に於てニロンを日本、テムジンを天神、ヱゾカイを蝦夷海、及び青年時代に鍛冶を業とせしとは金売吉次との関係を云ひ、ニロンの鉱夫とは當時彼他に出稼せる日本の鉱夫なりと解釈を下すことは、吾々日本人にして始めて為し得ることにして、本邦の歴史及び事理に暗く且つ日本語を自由に解し得ぬ外國學者等の到底企及し得ざるところ也。 蝦夷の傅説に曰く、昔ホンカイサマは金色の鷲を趁ひて吾々の父祖が往来せる海路を渡り、ボンルヽカに行きたり其処は大河のあるクルミセの國なり云々と。蓋クルミセとは往古の粛慎後の渤海にて.義経渡海の當時は蒙古人の天下にして契丹と称せしなり。蝦夷即ち今のアイヌのホンカイサマといふは、判官様の故にして、アイヌ語にサの音が続く場合に前行のンの音はイと發音され、叉た彼等の言葉には濁音なきよりガの音をカと云ひ、而してホンカイサマとは彼等の祖先以来神と崇むる判官義経公に対する尊称なり。蝦夷に関する知識の浅き學者はこれに異説を唱ふるも、著者はアイヌ部落に棲居して彼等と起居を倶にすること多年而して判官其他に関する多くの傅説をも聞き、叉た自ら研究し聊か自得する所ありて斯く言ふなり、而して其れが詳説は冗文を厭ひて略するも、アイヌ間に判官と称する語と義経の傅説を存するは動す可らざる事実なり。サンマー氏の蝦夷語字典にホンカンの語を録して、総督と訳出せり。彼は外國人なれば此語は日本語の判官に通じ、而して判官の語は以心傅心的に義経に通する事を覚らざらしが故に、之を総督と訳出せるは非常なる苦心の結果なる可し。叉たアイヌ民族研究家の権威たる英國人バチェラー博士も蝦夷語のホンカンを以て、九郎判官義経なりと其の著書に訳出せり。人或は余を以て傅説に重きを置くものと做さんも、我國史の重鎮たる古事記は前章にも述べたる如く、開闢より推古天皇の御代に至るまでの傅説を記憶せる稗田の阿禮の言葉を、和銅五年に太ノ朝臣安麻呂が筆記せるものにて、世々の學著は仰いで史実を此書に覚むるを思へば、口碑傅説の貴重なる事は文献と更に異なる所なかる可し。況や千古の史疑とせらるゝ義経高館の生死説に就ては先進學者が諸書を漁りて探り求めたる後なれば、今更典籍の徴すべきものなく僅に口碑傅説を探りて之を彰明する以外他に良法なきに於いてをや。義経は陸奥の衣川に於て死せる者に非ざる事は既に第三章に劍舞ひの故事其他神社の縁起等を引証して縷述せしが、更に義経が蝦夷より大陸に渡りたる径路を土俗の口碑に拠りて推考するに、公は古より夷民が貿易其他漁業の為に往来せる海路を辿りて樺太に渡り、彼処より一衣帯水の今のニコラエフスクに到り、黒龍江を溯りてハバロフスクに上陸し、此処に或る一定の時期を過し、更に同処を左折して流るゝ黒龍江の支流なる鳥蘇里河を舟行し、その上流なる今の浦潮斯徳の東南に方る蘇城に上陸し此処に壘を築きて居り、後ち此地の北西に方るニコリスク即ち當時の首府なる雙城子に居を移し、更に西進して興安嶺に本拠を置き徐に西進を継続せるものゝ如し。而して公は如何なる機運に乗じ如何にして蒙古の大汗と成りし乎は専ら口碑に索め、遣れる風俗習慣に尋ね、遺跡を探りて解決せざる可らず。
 故に放て起る問題は義経には果して亜細亜大陸を平定するが如き大度量ありしや否やにあり。若し型に囚はれたる史家の説を繰返し、義経には兄頼朝が隻手関八州を席巻せし如き器量なく「軍事に於ては頗る敏捷なるも其心は所謂小心翼々たる人なり」と重野博士が論じたる如きことを云ふ人あらば、余は言下に奥州信夫郡飯坂に在る瑠璃光山医王寺の境内に、義経が嗣信兄弟供養の馬に建立せる墓碑と、頼朝が相州三浦郡衣笠の満昌寺に建てたる三浦大介義明のそれとに封照して、忠死せる股肱に対する両者が心の形に現はれたるものを対比し而してこれを判断せよと答へん。之れ鎌倉幕府の政治は朝廷の故事に通暁し、縦横の術変通の才に富む大江廣元及び偉略遠謀陰険梟猾なる北條時政等の方寸より出でたるもの多く、且つ頼朝は名族を承籍し父祖の餘威に因りて時勢の立て物となりし嫌ひもあれば、粉飾を施したる外観より推論して頼朝を偉大なる人物なりと断ずるは早計に失するも、主に代りて其の身を殺したる股肱の臣下に対する追悼の表現は全く其の人の本心の發露に外ならざればなり。
 奥州飯坂は今の福島県信夫郡に在り、安元治承の昔、鎮守府将軍藤原秀衡の一族佐藤荘司勝信の拠りし処にして、城址は飯坂市街の西方十餘町を距る丸山に在り、これを大鳥城址といひ曾ては義経の青年時代に嗣信忠信等と倶に文武の教養を勝信に受けたる処なり。市街の東方約十町の平野村に古刹医王寺あり、其の境内に義経が嗣信兄弟の遺髪を埋めて建立せる二基の墓碑現存す。碑は大理石に類する石質なれば七百有餘歳の風雨に腐蝕して上部は甚しく磨滅せるに拘らす、孰れも高さ八尺五寸幅三尺厚さ一尺の一枚石にして雄大を極む。義経流離落醜の身を以てして部下追悼の為に猶此の壮挙を敢てせるなり.本堂を距る二三十間の庭内に義経手植の常盤樹あり、俗にこれを虎の尾松と称す。明治四十三年七月此の老樹に落雷して上部焼枯れたるも猶現在の高さ四丈九尺餘の巨幹亭々として空に朝し地に垂下する枝の緑葉は翠黛滴るが如く、幹の地元の周囲一丈八尺餘ありて蟠龍睡虎の状壮絶雄大を極め、これを植ゑたる源九郎の意気を暗に表示するものあるに似たり。仮令絶世の英雄と雖も偉業は箪獨にて成就し得らる〜ものにあらす必すや部下の協力に俟たざる可らず、而して忠悃の士がその主の為に身命を捧げで惜まざるはその意気に感すればなり。義経亡臣を追悼するに渾身の愛を以てせるに観るも、四海蕩平の大業を成し遂げ得らるゝ素質は既に彼に備はれるを覚ゆるなり。翻って頼朝が亡臣三浦大介義明追悼の為に相州衣笠に建立せる墓碑と寺院を見るに、現在の建物は再建のものなるも舊の礎石に原形を模して築きたる由なれば廣狭にかわりなかるべく其の規模頗る狭隘なり、山門も名のみにて入口の廣さ僅に九尺に過ぎず。墓碑も高さ一尺五寸位の石を三段に積みみ重ね其の上に小形の石塔を載せたるものにして、当時海内兵馬の実権を掌握せる右近衛大将頼朝が自己の為に一命を棄てたる忠烈無比なる老臣の追悼供養としては甚だ小に過ぐるの感あり。而も之は盛夏山腹に白絹を張りて雪と眺め、或は由比ケ濱へ千羽鶴を放ちて風流を楽みたる頼朝に餘蘊なかりしが故なりとも思はれず。而して之を彼の落魄遁鼠の窮地に在りし義経が一己の浄財を投じて建立せる嗣信兄弟の墓碑に比するに規模の大小に霄壊の差あるを看る。満昌寺の狭き境内に頼朝手植の柘榴あり、幹の周回尺餘の老株となりて今に存するも、本堂の正面を距る僅に二三間の処にこれを植ゑたれば其の間に少しの餘裕なく、施主頼朝の天品其の儘を描けるものに似たり。是等に拠りて両者の天眞にして飾る所なき心を判断するに、頼朝は壷中の小天地に齷齪して之に安んじ、義経には既に宇内を小なりとする気慨の満々たるを観るなり。
 更に次の間題に入り人に君たるの量ありて国家の支柱たる者に最も必要なる寛仁大度の資性は、両者のいずれに多く備はりしかに就いて少しく論ずる所あるべし。義経と生母を異にせる頼朝には残忍にして猜忌深き賦性ありしは蔽ふべからず。乃ち彼が度畳の奈何に伐りては自家薬籠の中に収め得ること易々たりし叔父の義廣及行家等を誅し、従兄弟義仲を殺し、女婿義高を斬り、舎弟範頼を死罪に処し、功ありて罪なき義経を貶黜し、甚しきは義経の幼子讒に母胎を出でし者をも屠り、御家人として草創の大功ある上総介廣常、一條次郎忠頼等を殺し、斯くして骨肉功臣を失ひ、自己の手足を断ちても猶且つ晏如として獨り生存し得べしとせるは智勇兼備の将と謂ふ可らず。風塵三尺の劍漸く海内を平定せしも殃荐りに蕭墻に起り、一杯の土未だ乾かざるに子孫長く血食せず、始めより斯くある可しと期したる北條氏の世となり、老猾なる時政は手を濡さずして天下を掌握し、之を子孫に傅ふること八代百二十餘年に及べり。而して之を頼朝兵を起してより僅に四十年にして源氏の正統絶えたるに比すれば、彼の智慮は時政にだも如かざりしが如し。
 義経の度量に至りては眞に宏海の如く窺測す可らざるものあり。其心は眞率にして疑ふなく、嗣信忠信の如く亀井片岡伊勢駿河鷲尾の如き何ぞ彼の意気に感ずるの深きや、将士は皆な彼の為に命を捨てんと思ひ、一の谷の戦に畠山重忠が範頼の麾下を脱して義経に帰したるも其の一例なり。義経北走に當り、一條今出川の邸に取り残されんとせし北の方は、つらからば我も心の誉れかしなとうき人の恋しかるらんと詠みて倶に偕に東奥に落延び。静の如きは義経に棄てらるゝも義経を棄つる能はず、八幡宮の寶前頼朝の面前にも臆せす、吉野山みねの白雪ふみわけて入りにし人のあとぞ恋しきと歌ひしなどは悉く義経自身の反映にあらずして何ぞや。彼は平家の統帥にして當の敵なる宗盛父子の境遇に憐憫を加へ己が勲功の賞に命乞ひすべしと云ひ、屋島の戦に嗣信が己に代りて討死せるを悲み供養せる僧に法皇より賜はりて戦場に乗迥したる愛馬を與へて彼の菩提を弔はせ、清盛の女にして壇の浦に死後れたる建禮門院を労はり装束を調達し侍女を添へて都に還らしめ、平大納言時忠と姻戚の義を結ぶなど、戦ひ終りて彼の彼には光風霽月敵も無く味方も無く、その胸襟は数百歳の後の人をして自ら景慕措く能はざらしむるものあり、況や之を見開せし當時の人に於てをや。斯の如く、血あり涙あり気宇の大なる武将にして、始あで宇内を蕩平し天下を席巻するの功業を成就し得べく、而して其の身蠻貂に到るも箪食壷漿して迎へられ、尊敬と親愛を一身に聚むるの長者たり得べし、宜なり彼が大陸到る所に民衆の崇敬を博し遂に大汗の栄冠をかち得たるの偶然にあらざることや。
 我が國の學者の多くは、義経高館自刄説に心酔し、力を極めて再興説を抹殺せんとするも、體験を経ざる人の遊技的議論には何等の権威も無く、古往今来如何に之を論ずるも、眞理の含まるゝものは永劫に消え去るべくも非らず、却って外国の學者が義経の高館不死を説くに至れるなり、乃ち既往四十年間北海道に在りアイヌ研究家として知らる、英国人バチェラーは義経の蝦夷に在りし事を認めて之を主張し、米人グレフヰス及び蘭人シイボルトは義経が満洲に渡り蒙古に入りしを説けり。於豊平義経と同国人たる本邦の學者は之が為に将に戟色なからんとす。此の秋に當り我国の何人かゞ學界の為に奮起し彼の遺蹟を探り更にその足跡を趁ひて蝦夷に入り、満蒙の地を跋渉して土俗の風習に残り傅説に遺る資料を蒐め徴拠を挙げて之を世に宣明するもの必ず出でざる可らす。而も七百有餘年来の疑案を氷解せしむべき此の重任は常祿を享けて史料を編纂する人に下らず微力なる余の雙肩に担ふに至りしは、光栄と言はんよりは寧ろ古英雄の霊導が此所に至らしめたるの感なくんばあらざる也。