第六章 西比利亜及沿海州の蘇城

○東部西比利亜の状況

○蘇城に遣る日本武将の古蹟

○蘇城に拠りし武将は源義経

○語音の転訛及満蒙人の語音の研究

○成吉思汗の姓キヤオン氏は源氏と訳す

○成吉思汗は源義経

○義経の残党北朝鮮に奔鼠す。
 我が日本に比べて殆んど18倍に相當するシベリアの一部でも実際に踏破したことのない人は、彼地を以て荒蕪不毛瘴煙蠻雨の夷地とみなし、一年の過半は白皚々たる積雪に埋もれ、寒威凛烈風物凄然とした異境のように想像し、日本人の居住に適さないと考へるでおろうが、一概にシベリアと云っても曠漠無限の地であるから緯度に應じて差別がある、即ちシベリアは極寒帯・森林帯・山嶽帯・曠野帯の四種に区別せられ、北緯六十五度以北の北氷洋に面した一帯の地を極寒帯といひ、北緯五十度より六十度の間には千古斧鉞の入ったことのない森林帯がある。日本海に面し支那に近い方面には山嶽が多く、これを山嶽帯といひ、北緯五十五度以南は曠野帯であって地味一體に肥沃気候比較的温暖であるから土人多くは此の地帯に棲息す.本書にいふ西比利亜とは概して此の曠野帯を称するなり。目を転じて鐵道より此の地帯を眺むれば萬目悉く亜細亜的ならざるはなく、此処に羊群を牧する蒙古人及び韃靼人等を観るに付け、未来ある土地として聊か吾人の意を強うするに足るものあり。世界何れの国土と雖も、一平方哩に付き八人以下の人口を有するに過ぎざる此の廣大なる地域の如く爾く疎散なるものあらんや。
 著者は曾て東部西比利亜に越年せしが事実に於て彼地の冬季は我が奥羽或は北越地方に於けるよりも凌ぎよく、乾燥せる空気と極度の寒威の為め雪に湿気を帯びざれば軽く鵝毛の飛ぶが如くに降りて地上に積もる事希なれば、荒野帯には厳冬中と雖も原野に枯草ありて放牧せる牛馬が三々伍々群をなしてこれを喰いつつあるを目撃せり。一望千里の荒野に於ける主なる交通路は河川と鐵路にして、冬季氷結せる河かわは馬橇を通じ、汽車も鐵道線路に雪の積ることなければ平時の如くに走り、而して我が関東及び奥羽に毎年起る列車の雪中立往生の如き或は雪掻き騒動の如きは彼地に於て曾て起りしことを聞かず。寒気は摂氏氷鮎下三十七八度に降ることあるも身に毛皮の衣服を纏ひ肉食して暖気を體内に補ふ土人の習慣に傚ふに於ては、衣食住共に防塞の設備不充分なる我が内地に於けるよりも困難を感すること尠く、加ふるに焚火の材料として生木の儘にて撚ゆる白揚樹は到る処に豊富なると、土民はまた原野に委棄せられて自然に乾燥せる牛羊共他の獣糞を暖用及び炊事に焚くことなれば仮令樹木に乏き原野に任するとても塞気を凌ぎ得られざるにあらず、況や造化自然の妙用ともいふべきか冬季南方より北地に集まる雁鴨白鳥の類は一日の遊猟に優に一週の食料を畜へ得らるゝものあるに於でをや。
 斯で冬も過ぐれば、春といふものなく直ちに夏となり、植物は驚くべき速度を以て成長し、山々の雪は一時に消え去り、青草前え出でたりと思ふ間もなく黄紫紅白の各種の草花咲き乱れて研麗を兢ひ、人の己を賞観すると否とは吾れ関せず焉の風情にて廣漠たる無人の原野を被ふなり。極暑の候と雖も日中の炎威に反して夕景よち夜間にかけての冷気は衣を重ぬるも塞き程なれば凌ぎよく、八月盛夏の季節にても地下三尺掘れば堅氷を見るに徴するもその一般を窺ふべし。瞬く間に夏も過ぎて樹葉落ち草葉枯れたる茫々際涯なき秋の原野は恰も限を遮る何物もなき海洋に在るが如く、太陽は地平線より出でゝ地平線に没しコロンブスを要せすして何人も地球の圓形なるを頷かるゝなり。幾百の群をなせる牛羊は水草を趁ひて東西に奔り、鷲の群は奇声を發して蒼空よち舞ひ降り叢に死馬の肉を争ふなどの光景は、人工を加へざる一大名画にして東涯の旭日江上の明月と共に悉く太古の儘なる大自然なり。
 現在の西此利亜に於ける自然の状態は往昔の粛慎時代と更に異なる所なかるべく、露将ハバロフは、勇壮なる多くの部下を率ゐて西紀千六百四十九年に、季候殆ど我が日本に等しき南部露西亜より今の沿海州に侵入し来り、其の地方に居住せる支那人を逐ひて都市を建設し、露国の移住民は此処を郷土として生業を営み殷賑を極めつゝあるは今のハバロフスク市なりとす。其他土耳其人及び伊太利人などの西比利亜に土着するもの多々あり、後貝加爾州のチタ市に駐在する米国総領事ファウラー氏の如きは、温暖の地を以て聞ゆる北米南部フロリダの人にして、西比利亜に居住すること三十餘年、氏は著者に語りて曰く、西此利亜は世界の楽土にして予は退職後も本国に帰らず此地に永住すべしと述懐せる等に徴するも、獨り日本人のみが西比利亜に棲息し得られざる理由なきなり。況や昔時烏拉爾山以東の西比利亜全土は亜細亜人の家郷にして、我が源九郎の成吉思汗が鐵蹄を印せる故地なるに於てをや。
 元来露國が北はオコーツク海より西は欧亜二洲の境界なる烏拉爾山に至までの西比利亜を実際に領有するに至りしは近代のことなれば、西比利亜の歴史は、亜細亜人特に蒙古人と韃靼人に関聯するもの十中の七八を占め、露國人に関するものとしては侵略及び占領史のみといふも不可なかるべく、即ち露西亜人が西比利亜の地を亜細亜民族の手より奪ひ去れる罪悪史なりといふに過ぎず。西比利亜と称する地名も往昔スビリーと称する韃靼の一民族が蒙古方面より今のトポリスク州のイルツイシ河畔に移住し彼処に市邑を開きたるに起因せりと傅ふ。スビリーは支那文字にて西此利と書き語尾に「亜」を附するは國或いは処の意義を有する古代語なり。      彼のバピロニヤ・アッシリヤ・ポヘミヤ・ペルシャ・アベセニヤ・ギリシャ・アラビヤ・ルーマニア等の如き古き国名の語尾には悉くヤの語を附するに徹すべし。我が日本の古き国語たるミヤ即ち宮は「ミ」貴き「ヤ」処の義にして其の語原は遠く古への中央亜細亜に發せるものなり。露國人は西比利亜を殊更に西比利と称して語尾のヤを除くは露國の領土なる義より國を意味するヤの語を省きたるものなるべきも、我が国人は深く此等の意義を究むることなく、欧米各国人はシベリヤといひ、支那人も現に西比利亜と書くに拘はらず、近来公私の文書に西此利と書き亜の結語を省きてシペリーと称するものあるは、露西亜人の口吻を眞似てのことなるべきも、大亜細亜主義の将来を顧慮せざる浅薄なる仕方なり。
 昔は成吉思汗の鐵騎に蹂躙せられ蒙古朝廷に屈服すること二百年に及べる露西亜人は、蒙古への往復頻繁なりしにつれ西比利亜は廣大無辺の地にして富源の無盡蔵なるを識りしなるべく、當時西比利亜の各地には蒙古及び韃靼の領主等割拠して威を振ひ、其中最も有力なりしはシビリーの領主クチーム汗にして自ら酉比利亜王と號せし程なれば、露西亜人特有の爪牙を西比利亜に加ふること能はざりしも、西紀千五首七十八年の頃に至り、韃靼人等内訌に由りて勢力稍々衰ふるに當り、烏拉爾の国境附近に散在せる哥薩克の浪士と露國の猟師等私に一国の義勇軍を組織し、烏拉爾の東部地方の遠征を企図せしが、ヴオルガ河を上下して掠奪を恣にせる哥薩克の船頭エルマークが部下を率ゐて来り投ずるや、衆彼を推して総指揮と仰ぎ、八百五十の浪徒等四十隻の舸船に分乗してチソーワヤ河を溯り難なく烏拉爾の嶮を過ぎ到る処に靼韃兵を破り遂にシピリー城を陷れたるは実に千五百八十二年十月二十三日にして、此れを露西亜の西比利亜侵略の第一日と為す。當時韃靼王として勢力ありしクチウム汗の兵数は露兵に幾倍せしも彼等の武器は弓矢なりしに対して哥薩克は火器を使用し大砲を有せしより、新舊武器の相違は遂にエルマークをして凱歌を奏せしめたるなり。茲に於て彼は使者を莫斯科なる露帝に遣はしシペリーの征服を報告すると共に更に深く内地に侵入し、烏拉爾の東部各地に散在せる浪士及び露國商人等其の跡を追ひて西比利亜に入込むもの踵を接するに至り、露國政府も遂に哥薩克の正規軍を西比利亜の各地に派遣し、進むに従って彼我の境界に砦を設け而して此の砦の多くは後に本國の流刑人を容るヽ監獄となれり。斯くして露國政府は年々新しき市邑を征服地に設けて亜細亜人の郷土を蚕食し、遂に極東西此利亜にまで其の魔手を延ばしで支那の領土を脅すに至れり。即ち千六百四十九年、哥薩克の隊長ハバロフは部下を率ゐて黒龍江と烏蘇里河口の合流点に侵入して掠奪殺戮を恣にし、支那人を逐ひ事実の上に於て支那の沿黒龍地方を占領せり。支那は當時清朝なりしが露人の暴状に対し露国政府に抗議して所謂ネルチンスク條約を締結し黒龍江以北の山脈を以て露支の国境と定めたるも、清国代表者は該地方の地理を解せざりしより漠然たる條約は一片の空文に帰し露人は依然事実の占領を行ひ、且つ後年露國委員が実地踏査の結果、黒龍江以北に山脈と称すべきものなきより江南の小輿安嶺を以てネルチンスク條約にいふ山脈なるべしと做し、支那委員と愛琿に會し所謂愛琿條約を締結し江以北を露領として承認せしむるに至れり。斯くして露國が現在の東部西比利亜を外交手段に依りて其手に収めたるは今より僅かに五十餘年前の事にして、之に依り我が日本と地理及び歴史上に密接の関係ありし雙城子即ち日本道と称せし尼市・沿海州の蘇城・黒龍江口の尼港其他の重要地が悉く露西亜の版図に入りしは日本国民の痛恨措く能はざるところ也。
光陰は駸々孜々として流れて熄まず星霜の推移と共に人畜草木総て新陳代謝の天則に順して変化するも、風土の状態は昔も今と多く異なるところ無かるぺし。鎌倉幕府の捜索厳密なるに加ふるに、義経逮捕の院宜は津々浦々に博達せられて日本国内に身を容るゝ処なく、窮餘今の西比利亜沿海州に逃れたる我が源九郎義経は、遥に日本海を隔てたる此の大陸に入り、始めて拠りたる壘砦に蘇城と命名せしに見るも北走以来こゝに甫めて蘇生の恩ひありしや測知するに難からず。而して公は毫も他の制肘を受くることなき自由の新天地に多年鍛え上げたる鐵腕を振ひ思ふ存分の駿足を伸ばし、茫漠たる曠土を横行して未開の民を愛撫し逃るものを追はず来るものを拒まず、而して敢て恩威に服せざるものを征し、以て着々壮図の実現を謀りしは、其の状畏くも皇祖神武天皇の東征にも似て壮快自ら禁ずる能はざるものありしならむ.
 現在の浦潮斯徳を距る束北約三十里、スーチャン河右岸の支那山丹人の部落ホニヘッザに方形の古城址あり土人はこれを蘇城と称す。古城址は我が陸奥の高館の丘に髣髴たる馬蹄状の丘上に在り、周囲に厚き城壁を廻らしたる形状及び四方に城門を設けたる痕跡ありて全く日本式の古城址に似たり。スーチャン河に臨む石灰質の断崖の半腹に大なる洞窟あり、此処をイジュイラザと称す。洞窟の入口は屈曲せる圓錐形状にして幅五尺餘高サ九尺餘なり。其の内部に三個の洞窟ありて中央の窟の高さ廿二尺餘深サ側面の壁まで廿八尺餘なり。猶ほスーチャン河の左岸シエイハ河口にも面積約一里四方に達する古城址ある由なるも今は山賊の住家となりて近寄ること能はざれば後に著者の知人なる浦潮派遣軍司令部附山口副官に調査力を請託せるも同じく目的を達せざりしと見へ、往年露国技師イワノフが右の古城址を調査せる報告を抜訳して余に恵迭せられたれば左に掲ぐ、「シャンツイザと蘇城河の左岸に大河谷あり、此の河谷とマウズイ河谷との中間に位する分嶺は鋭き岬角を成して蘇城河に迫る、シエイハ河の右岸と蘇城河の左岸に囲まるゝ山岳の終端に古城址あり。城址は山腹より麓に向つて降り尚ほ山頂にも散在して其の水平面積は四方露里(我一里十八丁餘に當る)に及ぶ。凹地を擁する山岳の頂上に城壁ありて濠に囲まる。城址の中央に凹地あり、城壁は平線を成し南方頂上に於て二列となりて延長し、中腹にありては城址との間に濠あり。古城の横断面は約十五サジエソ(我百○五尺餘)にして他にも同型の壘址数多あり。シャンツイザに対する南方中腹の麓に濠を繞らせる城址あり」云々と。此地今は露領東部西比利亜沿海州の一部なるも今を去ること僅に六十餘年前までは支那の領土にてありしなり。即ち舊清朝が露國の圧迫に堪へず千八百五十八年即ち支那の咸豊年間に、黒龍江以北を露領と認めたる退嬰主義なる當時の国策に愆られて、此の貴重なる歴史を存する領土をも併せて失ひたるは、義経と国土祖先を同うする吾人の悲惜痛恨禁ずる能はざるところ也。
 支那山丹土人の居住する蘇城附近に昔より傅はる口碑に曰く、往昔日本の武将が危難を避け本国を逃れて此地に来り城壘を築きて居り、其の城をサーチャン(蘇城の義)と呼びたり。その武将が此地に来り新に城を築くまで今の城址の在る丘の半腹の洞窟に棲みたり。此の故に吾々は祖先の代より此の洞窟を最も神聖なる所として崇め、今日とても怖れて誰も其処に入る者なし云々。叉曰く、イーボン(日本の義)より渡来せるその武将の名をキン・ウ・チヨと云ひ此処の蘇城を築きて居り、その武将の娘の為にも附近に一城を築き、これをタンキン城といひたり云々。叉たホニヘツザ即ち現今の露國名にてエカテリノスラフカ村と称する蘇城址所在地の土人村長曰く、昔し日本の武将が郎党を率ゐて此地に渡り来り、蘇城を築き士民を懐け、土人も武将を神の如くに崇び居りしが、後にその娘に此処の蘇城を委ねて武将は支那本部に攻入り強大なる國を建てゝ大王となりたり云々。
 是等の口碑に就き総括して稽ふるに、往昔日本國より武将が落延び来りて此地に壘塞を築き、蘇りたる義にとり萩城と命名してこれに拠り、而して始め居城の成るまでは此地の洞窟に棲ひたることなり。叉た此地にて何々の処と云ふべき箇所の名の下に「ザ」と云ふ語を附する事に着目の要あり、即ちホニへッザ・イジュイラザ・シャンツイザ等の如し。我が鎌倉時代に米穀野菜魚類其他を取扱ひし所を座と称し、市に七座の種類ありて各業を分営せし事は鎌倉大草紙に載す、乃ち金銀を扱ふ所を金座、材木を扱ひたる所を材木座などゝ称し、其後町名に革まりたるも、材木座のみは市街を無れて海に突出せる処なれば今も菅の名称其儘にて鎌倉に存するは人の知る所なり。各劇場を何々座といひ、維新前に江戸にて金銀を取扱ひたる町を朱座銀座と称し、銀座は現に東京に存するも、鎌倉時代の名残りを止むるものなり。是等に徴するも當時蘇城を築き各処にザ名を附したる日本の武将は鎌倉時代の人なるが如し。文字無き辺土に入りては、質朴なる土民が神と崇むる古武将に関し敬虔の念を以て語り傅ふる口碑を心読して史実を識ること、猶ほ文筆の國に入り古文古典を読むに等しきものあり。次の章に述ぶるが如く有形の碑にして露西亜人が自國に不利なる記事ありと思へば、その稗面を漆喰にて塗抹し得べきも、無形の口碑は何人もこれを消抹し得べくもあらず。而も蘇城に遣る此の貴重なる口碑は無責任なる學者の筆に禍ひせられて抹殺せらるゝ莫からんことを余は祈るなり。
 蘇城を築きたる武将の名をキン・ウ・チヨと称すること、及び其の武将が後に支那に攻入り強大なる国を建てゝ王となりしと傅ふるは、彼の満洲に出没し蒙古に入りて大汗となり而して支那其他の邦國を併略せるチン・ギ・ス或はジン・ギ・ス又はゲン・ギ・スなどと国々の語音の訛りに拠りて呼ばるゝ成吉思汗の前身は、源九郎義経に彷拂たるものあり。
 西比利亜に住する支那山丹人其他満洲及び蒙古人等の口語の發音は極めて朦朧たるものにして、之に加ふるに各人種に免る可からざる土音の固癖あり。民族性に属する音癖は唯に未開人のみに限らず文明国人にもあることなり。概して羅典民族即ち佛蘭西人の如きは絶対に英語のJを發音すること能はずこれをエーと言ひ、日本人は英語のTとH或はPとHを合はせて綴りたる語を英国人の如く正しく發音すること能はざるが如き類なり。等しく一國内の日本語にありても関東と関西とは既に其の語音を異にし、奥州人はシとス、ツとチなどを正しく区別して發音すること能はず、関西人特に江州人はセをシェとし先生といふべきをシェンシェと言ふなり。叉語音の訛転に就ても九州にて、故はとか故にとかとするに用ゐべき語をケンといひ、佐賀長崎などにては之をセン若くはテンと發音し、関門海峡以東はケンと言はずしてケーと云ひ、伊豫にてはケレとなり、京阪地方に至れば、ケン・ケー・ケレと変化せしものをサカイと發音す、之はサを加へたる為めケ音はカとなりンはイとなりてサカイと訛転せるなり。また越前越中加賀能登に至ればサカイはサケーに変化し、更に越後にては之をスケーと發音するなり。四囲環海の一国内にありて猶ほ然り況んや大陸に於てをや。要するに土音の訛癖なるものは仮令教育の力を以でするも容易に矯正し得らるべきものに非らず。是等の理に由るも日本人が源義経と發音し得るが故に他国人特に満蒙人も之を同一に發音し得べしとするは當らず。茲に於て余は日本を逃れて大陸に渡り、今の西比利亜沿海州の南部に築き蘇城と命名してこれに拠りたる日本の武将キン・ウ・チヨは我が鎌倉時代の武士の何人に相當するや、叉た音読してゲン・ギ・ケイとなる源義経の名は、各種民族の土音癖に因り如何に変訛して發音せらるゝものなるやを研究し此の問題の解決を期せざる可からず。
 著者は沿海州の蘇城附近に住する支那山丹人の古老等に就き試にゲン・ギ・ケイと發音して見よと求めたるに、執れもキン・ウ・チイと言ひたり、即ち源をキン義をウ経をチイと發音せるなり。之に依り蘇城の口碑に傅ふる日本の武将キン・ウ・チヨと、土人が源義経の名をキン・ウ・チイと發音せるに対照して彼我正に同一人の名称なること何人も首肯し得る所なる可し。余は更に北満洲の満洲里に駐営せる支那軍の佐官にして前清朝の貴族なる揚卓氏に源義経と書き示してこれを支那の現代語に發音せんことを需めたるに、氏は之をユアン・イー・チェーンと言ひ且つ曰く支那の邦土は廣ければ各省に於て多少發音を異にするものあり、北東語にては源をエソ義をイエー経をチンと發音し、満洲にては源をキヤオンと發音するなり云々。元朝秘史に成吉思汗の性を奇渥温氏と載せたるは、元朝の史官が土俗の口語に支那の仮名文字を當て奇・渥・温となせるに拠ることなるも、若し土語ケヤオンの意は瀧の上流の義なりとするを採りてこれに漢字を當つれば源となり、漢音のゲンは土音のケヤオンとなり、而して彼等め所謂ケヤオン氏は即ち源氏となること此の理に於て寔に賭易きものあり。更に余は蒙古に於て喇嘛教の高僧なる蒙古人に対し、余の口調に傚ひ源義経汗と發音して見よと言ひたるに、彼は幾度もこれを繰返し漸くにてチン・キ・セー・ハンと言ひたり。此の喇嘛僧は蒙古アゲンスコイ喇嘛廟本山の執事にして其の名をリテネヨポーといひ、多年西蔵に留學して佛典及び医学を修めたる年歯五十餘歳の人なれば、其の年齢と學殖よりするも余の發音を其のまゝ口語に移して言ひ得らる可き筈なるに、其の人種的特有の標徴なる土音を凌駕して余の口調に傚ひ明確にゲン・ギ・ケイ・カンと言ふこと能はす之をチン・キ・セー・ハンと發音せり。乃ち蒙古人が古来一般に成吉思汗をチン・キ・セー・ハンと称すると正に同一なり、而して是れは取りも直さず吾人が源義経汗と言ふと同一なるものとす。鳴呼偉なる哉我が日本の英雄源九郎。公は世人に愆らるゝこと七百有餘の星霜を重ねたり矣。斯ても猶ほ世人は成吉思汗を以て日本の母の生みたる義経に非すと言ふ耶。
 著者は如上の研究と口碑傅説其他に拠りて蘇城に拠りし日本の武将キン・ウ・チヨも蒙古人の所謂チン・キ・セー・ハンの成吉思汗も倶に同一人にして、而して其の本人は我が源義経なる事を主張するものなり。而して是れに対する考證は章を次ぎ筆を呵して続々読者に提供す可し。尚参考として記したきは、我東北の各地にて義経といふ語尾に必ず敬語を附し、義経ハンと云ふ事なり。而してハンの敬称は京都地方に於て最も多く行はるゝことは晋く人の知る所なり。吾人の所謂ゲンギケイ(源義経)即ち蒙古人がチンキセイと發音する名の下にハンの敬称を附するは、我国にて義経ハンと云ふ東北及び京都の風と同じなるは注目に値す。
 義経の高館自刄に就て慧眼なる頼朝は素よりこれを疑ひ、叉當時既に義経が海外に逃走せる風説のありし事は文治三年より同四年に亘り頼朝は義経の與党を捜索する為に中原信房を鎮西に派遺せるに徴して瞭然たり。而して信房は筑紫奉行天野遠景と力を戮せ貴海島を伐つて之を復命せるも、執拗なる頼朝は之に満足せす猶も義経の残党を追跡して高麗を伐たんと欲し、此事を院に請ひしも時の摂政兼賓が之を阻止せるなり。兼実が頼朝を諌めたる語に曰く「降二伏三韓一者上古事也、至二末代一者非二人力之所一レ可レ覃云々」と。而して頼朝は名を義経の與徒を捜索するに仮るも、残党に何等の権威あるものに非ざれば実は大将の義経を追跡するにありしこと言はずして明かなり。頼朝が高麗を伐たんとせるは常時義経が高麗の北境に逃げたる形跡の歴然たるものありしが故に外ならす。而して彼地は古より我國と交通し密接の関係ありしことは景行帝より仲哀帝に至る御代に熊襲屡々叛し、仲哀帝遂に筑紫の征旅に崩ぜらるゝや、皇后は賊の根拠地の北韓にあるを知り一将を留めて内地の賊に當らしめ、親ら舟帥を率ゐて三韓を征伐したまひ。阿倍比羅夫また三韓の北境に方る粛慎を征したる等に徴すべき也。