三河譜代は二名のみ
【紹介者・注】
以前歴史会議室でこの説を発表したところ、通俗説の勉強家や、歴史畑の住人らしき人たちに、随分食いつかれた。
文中にあるように「三河風土記」や「三河後風土記」は、源内が嘘八百で書き飛ばした膨大な虚実の書を史料として信じ込んでいる人が
多く「そんな事は何処にも書いてなく、何々にはこう書いてあるから、八切説は嘘だ」と反論される。
しかし、江戸時代に建部賢明が暴露している如く、史料等ととてもいえないシロモノを許に反論される馬鹿らしさに辟易し、コメントも付けずほったらかしておいた。
ここでは、先生の遺稿ともなった「サンカ民俗学」の中で、読者からの質問に答える形式で書かれたものを紹介します。
質問者
どの本を見ても旗本という旗本は、出羽生駒以外は揃って「三河普代の直参」となってる。
江戸期の「武鑑」を見ても、譜代といわれる小大名の先祖は、旗本と一緒にどこも三河出身となっている。
「武鑑」は江戸時代検証の唯一の手がかりです。
しかしそれと「野史辞典」の「三河衆」の項とは違いすぎます。「サンカの歴史」の本にも同じように扱われていて、はっきりと
「八切史学」においては多くの三河出身者がみな否定されていて、「442石の松平太郎佐衛門と607石の中島与五郎の柳の間詰め」
の旗本の二人だけだとされると、あまりにも一般の歴史書ととは相違しすぎる。
勿論私は八切史学の信奉者ゆえ、三河普代は二名きりの説を取りたいのだが、どうか裏付け資料を明確にして貰えないものだろうか。
私の知人も、この三河普代は二名のみの説で、八切史学に躊躇する者もいて、極めて残念ゆえ、ここを思い切って明白にして徳川期の
隠された事実を証明して欲しい。
でなくては、ネコもシャクシも旗本はみな三河普代としているのに、あくまでそうでないと決め付けてかかるにはそれ相応の資料が
明示されぬことには一般は納得しないと思います。
御面倒でも資料原文をそのままといっても、多少は現代の読解力を持って何とか読みうる程度に判りやすくして、全文を紹介して
頂けたら、後学の者にとっては有難い極みであります。
■■
八切先生の解説■■
明治四十二年には二百部の限定非売刊行とはいえ、「史籍雑纂」が出されて、その第三巻には、沢田源内が大量に?系図や
その裏書にと数多くの本を刊行したのだということは、その「緒言」にも書かれてあるが、この第三巻には、他に「諸由緒」や「家伝史料」とよぶ、太田南畝の集めたものも入っている。
が、三河普代が二名きりというのでは、通俗歴史の信奉者で、テレビや山岡荘八の小説の読みすぎの方には疑義をはさむ人も
いるだろうから、建部賢明の「大系図評判庶中抄」をここに原文を引用してみることにする。
勿論、この書は建部が源内の嘘に怒って、それに対する反論、やっつけの目的で本文は江戸中期後に書かれたものである。
「家名に禄を賜る」「家門の誉れ」といって、建部の先祖である六角佐々木の家の名誉を、源内に作り変えられ、盗まれたと
これは建部賢明の憤怒の書なのである。系図屋とは警察用語では、ケイズ屋といって盗品故物売買業者を指す隠語で、現在も使われているのは、ここからきているのである。
沢田源内なる者は近江国の生まれにて、種姓も知られざる凡下の土民なり。父は沢田喜右衛門とて、坂本雄琴村に手ずから鋤鍬を
とって、僅かな地に耕作して世を渡りし農夫なり。小林氏が述作せる「重編応仁記」には其名を仁左衛門と云いて、江州堅田村に小分けの
百姓也と書す。武州忍の城主阿部豊後の守忠秋に、正保四年の頃かとよ、加恩の地を江州に賜りし時、喜右衛門その家の吏官某の
下司となりて名を澤田武兵衛と改め、租税のことを司りしに、よろず才覚有りければ、後に忠秋より忍の代官手代となされる。
これより先本国にありし時、同部落の百姓和田村勘兵衛の娘にイヌといえる女を娶りて子を生む。その名を喜太郎という。
下種の子たりといえども容貌生まれつき優なりしかば、稚児として是を青蓮院尊純法親王に奉りて、かむろ小姓となす。
門主是を愛して常に御傍を離さず召使われしに、天性強記にして書籍を誦し、また筆法に敏にして能書、大唐の詩文をも広く学び得たり。しかれどもその性質奸佞。
親王の家にある銀の書盞を盗みて、ひそかに市場にて売る。よってすぐ追い出され、旧里に帰りて深く此事を秘し、山伏の姿となって偽りに諱の字を賜れりと云いて、名を尊覚と号す。
父は速にその名を改めしむ。よって還俗して澤田源内と号し東福門院御家司、天野豊前守長信に仕え、また飛鳥井一位雅章にも仕えしか、みな主家に悪事を成し追放され牢浪の身となりてよんどころなきままに、己が才智を以って、卑賤を隠し、貴族と号して身を立てんと欲し、竊に六角佐々木氏の正当と称し、名を近江右衛門義綱と改め、偽って定頼あ朝臣の長子に大膳太夫義実という
名を作り、其子修理太夫義秀、其子右兵衛督義郷三世を新たに佐々木の家系中に書き加えて己が父祖とし、義賢朝臣承禎をして
義秀が後見なりとす。父武兵衛此事を聞きおおいに驚き、後難を恐れて硬く源内を戒め、是を叔父和田が家に捕らえおき、其身は忍の地に下りぬ。是に依って密かにここを逃れ出て、彼が従弟に畑源左衛門と云える遊民の許に隠れ居て、彼義弟等が事跡を作り、或は旧記に都合よく増補し、或は新たに偽書を編作して、その虚伝を世に広めしむ父も是を憎み恐るといえども、遥かに遠く忍の地ゆえ国郡を隔てて如何ともすることを得ず。
遂に父子の関係を絶ち、やがてその後に忍において病死す。
二男澤田権之丞が父の跡を継ぎ安部氏に仕えり。承応二年に源内江戸に来たり佐々木正統近江右衛門義綱と名乗り中山市正正信に属し、水戸侯頼房卿に奉公せんことを請ひ、その偽譜を献上す。水戸頼房卿即ち東叡山宿坊の吉祥院の沙門某を以って、
其系図を真の六角の正嫡佐々木源兵衛尉義忠に渡し虚実を御尋ね有りけるに、悉く偽作姦操なしたる由を申したるによって、その奸曲現わるるのみならず義忠もまた正統を乱す事を怒って目付の本多美作守忠相をへて、つぶさに訴える。なお彼が士分を賜ることへの禁遏を加うべき由を久世大和守広之に訴えたり。
この由を聞き、大いに驚き狼狽して、夜中に江州へ逃戻り、名を六角兵部氏郷と改め、暫くは世の変を窺い居けるが、遠国にしてさのみ咎める人も無かりければ、猶も奸謀未だ止まず、義実、義秀、義郷と己が偽名の三世を事実とせんが為、其の仲間数輩を集め、寺僧神人等を語らいて、天文六年より元和七年まで、八十余年が間の、佐々木家
の日記を偽作して廿巻となす。
これを江源武鑑と名づけて刊行す。記す所は半は詭偽、半は他家の出来事にして、実に何の用なし。
その後源内京都に至りて、また名を中務と改め虚系を以って諸人を誑かして、家嫡也と自称しあまつさえ吾生まれながら五品の官兵部丞たり、昔年後鳥羽帝代々補任の勅許あるによって也。此度朝廷より四品中務大輔に任叙せりと、荒唐の妄言を吐き、蒙昧の輩を惑わせり。
嘘を覆い隠さんが為、昔将軍義満公の世、応永年中に、特進亜三台藤原公定卿の撰せられし尊卑文脈系図の中要をぬきて、
諸家大系図十四巻と号して、世に行わるるを底本とし、佐々木の譜中に新たに多くを偽作し、己が本姓澤田氏、外祖和田氏、従弟の畑氏及び姦謀にくみする者は皆その一流となし、又織田朝倉武田豊臣の系中にも、虚名に妄説を書添えその余諸氏の家伝を拾ひ集めて、
真偽を確かめず記入させて、全部を卅巻となし、更に大系図と名づけたり。
外にわの倭論語、足利治乱記、浅井日記、異本関原軍記、異本勢洲軍記等、皆彼が虚説を註する所なり。読む者は惑わされて、種々の誤説出て来たれり。よって、これらを本当と想う徒輩多く、読書の篇注に引用され、故に近年は彼の偽名が漸く諸書ににて広まれり。所謂中古国家治乱記、異本難波戦記、「三河風土記」「三河後風土記」、武家高名記、倭州諸将軍伝、浅井始末記、浅井三代記、東国太平記、日本将軍伝、諸家興亡記、武家盛衰記、東海道駅路鈴等此外にも多し。
■■■■■■ここに出てくる「三河風土記」や「三河後風土記」の二冊が沢田源内の贋作だったという処に、三河譜代そのものは、本当の処二名のみといえる裏付けが明白にとれるのである。
私が(八切止夫)「三河風土記」や「三河後風土記」の二冊を入手したのは神田小川町源喜堂古書店で「野史辞典」刊行の十八年前
のことゆえ、昭和四十六年の頃だった。近頃は「史料」と贋作なのを知らずか知ってか活字本で覆刻版が出されているが、江戸時代に出された細長い版型の「武鑑」や旗本諸家の名前が全部記されている「寛政重修諸家譜」と対照して比べると、百石以上の旗本で、漏れている者で、沢田源内贋作の方に入っていないのは、松平太郎左と中島与五郎の両名だけとなる。
「群書類従」的な見地に立てば、双方に同じ名があるのが裏書が取れるから正しいことになってしまい、片方にしか名前が出てこない
太郎左と与五郎の方が怪しいことになる。が、片や偽書である。さて、家康の遺骸は世良田の東照宮に今も瞑っているとされている。当時は土葬だったから、家光の代に諸大名の財力疲弊目的で
献金させ、徳川家の権勢を誇示するためのタテマエ作りに、日光東照宮へ祀った。
しかし、鋸で家康の骸の手足を切断したり、また、火葬でもないため分骨なども出来うる話ではない。つまり、日光に祀られているのは、遺品か何かの形見ぐらいの処だろう。しかし、本物の家康が祀られている所は、上州世良田の徳川庄なのである。
旧陸軍参謀本部編の五万分の一の群馬県分図の利根川流域の今もある尾島町世良田の徳川なのである。日本全国水平社が結成された
世良田事件発祥の地である。「天の古代史研究」の中程に、サンカ関係と経緯は詳しく述べておいた。
つまり、明治十七年に華族令が制定され、畏れ多くも「華族は皇室の藩屏にして」との御勅語が出て、華族会の会長に徳川公爵が選任され、明治宮内省が文部省丸抱えの東大に命じて、「松平記」なる蔵本が以前から在ったことにして、「東京帝国大学蔵版」の朱刷で、東京青山堂刊として、明治三十五年五月の発行で出してのけた。
この発行年月日に問題があるのである。「上手の手から水が洩る」というが、今でこそ天下の東大でも、明治の東大は抜けていた。 そもそも、この本の刊行は明治三十二年に村岡素一郎が「史擬徳川家康公事蹟」を出版し、家康は松平蔵人が改姓名したのではなく、全く別人物の上州世良田の徳川の出身で浜松の七変化部落で育てられた二郎三郎だと、調べ上げて刊行したのに対して、時の
明治宮内省が慌てた。
「皇室の藩屏たる華族会長の公爵家の御先祖が、特殊部落出身とは何たる不敬か」と、本は警察を使って発禁処分にさせ、当人は
執筆発表禁止にされたらしい。と言うのは村岡はその一冊以後は、何処にも執筆発表はしていないからである。
私が読売新聞に連載小説を一年書いた後で、私も「書き終えて」と随想を七枚書いた際に、世良田の幕末までの長吏だった岩佐満次郎が、御一新まで輸出蚕卵紙の鼠害除けのマジナイ画として、睨み猫を酒代欲しさに描いた事に触れた。
明治新政府は、楠木正成の銅像と新田義貞のそれを一対にして建てる計画だったのを、銅像は出来上がったが中止した。
楠公よりも立派な出来栄えだったそうだが、陽の目を見ることなく鋳潰されてしまい、代わりに「ネコ満」と呼ばれていた岩佐が他の叙爵に
ずっと遅れて「新田男爵」として爵位を賜った。しかし徳川公爵が彼を拒んで宮内省に働きかけた結果。
一時金の名目だったが渡航費を渡され、家族とロンドンへ渡ると、外務省にわたりがついていたか、生活費を支給され永住となった。さて、バロンとしてよりは猫の画で有名だった新田男爵は、「画伯」扱いされていたネコ満男爵の許へ、英国王立動物愛護協会の公爵夫人が訪ねて来て、
「世界中の王侯貴族で、己が愛犬や愛猫を溺愛したのは数多くいたが、ジャパンのイヌクボウみたいに国中の犬を愛した王は例が無い。
是非当協会の名誉会員として肖像画を飾りたい」と依頼してきた。
是に対して新田男爵は、島流しみたいに異郷に永住させられていた恨みつらみもあったろうが、
「とんでもない、徳川綱吉の生類憐れみの令とは、騎馬民族の後裔で、動物の革剥ぎで儲けていた彼らが、綱吉の命令、即ち仏教に転向
しない彼らを憎み、製革業者弾圧の政治目的で、彼らの限定収容所の四谷や中野に故意に犬小屋を建てて虐めたのが真相である。
だから綱吉は生涯一匹の犬や猫も飼わず、よって元禄地震で餓死者の多かった四谷や中野の限定地とは・・・・・・・・・
『犬も歩けば棒に当たる』と、獣の少ない国ゆえ、辻番所の六尺棒を持った番太郎に野良犬を撲殺させ、縄でくくらせていた者を処罰させ
これ見よがしに『猫を追うより皿を引け』と、犬が殺されぬよう避難の犬小屋で、一匹あたり米二合と干鰯一合を与え、餓鬼のようになった
限定住民が羨ましがって犬小屋での犬らの食い残しを奪い合うのを、見張り役人が追っ払って監視した。」
と、本当のことをぶちまけてしまったので、綱吉の王立協会の名誉会員は見合わせとなった。
■■■■■■■■当時の中央公論の別冊に、この「ねこまん男爵」の百枚ものの原稿を渡し済みなので、そのPRみたいなつもりで、
こうした事実を書いた処、当時もう六版が出ていた「切腹論考」の第七版の見本刷りが届いていたのに刊行中止。
「ねこまん男爵」の百枚ものの稿料は送ってきたが、原稿は返して貰えなかった。その他何処の出版社からの増刷の話も揃って皆消えた。
依頼原稿を書いて送ると「編集方針の変更」と言う形で、稿料は送られてきても、原稿も返されぬ事実上の執筆禁止が十七年にわたって
続いている。もちろん、どの方面よりの指示とは聞かされていない。
日弁連の人権擁護委員会に持ち込んでも相手が判らず埒があかない。そこで憲法で言論の自由が保障されている筈なのに、
「サンカの歴史」の終わりにも書いたが「死刑囚の時効も十五年」なのに、私は目に見えぬプレッシャーで執筆発表が妨害され、やむなく
出版社創立。「今の民主主義の世の中で、まさか、そんな馬鹿な」と半信半疑の方が多くて「私一人きりの抵抗」を判って頂けぬ方も沢山
におられる。
かって私は大本営参謀本部の西原少佐によって「大東亜戦争を揶揄的に書くとは何事であるか」と、北原白秋の実弟経営の東方社刊
「現代ユーモア全集」の第三回配本の「漂う米国旗(改題・アメリカンエレジー)」の自分の本で、頭を続けて八回殴打された挙句、
日本の作家の執筆禁止第一号にされてしまい、日本に居られず満州へ追われた。
だから、私の例から見ても、村岡素一郎もどこかの圧力で執筆禁止の咎を受けたのは間違いない。
さて、村岡の著より故意に遡った明治三十五年五月の綺麗な木版の「松平記」の刷りであるが。
既に明治二十年の始めより大阪玉林堂よりの刊行物は、当時の講談の速記本ではあるが、全部かもはや活字での組み本である。
新聞にしても明治初年からバレン刷り版木でなく、既に活字版。
なのに明治三十年のもはや何でも全てが活版の時代に、時代錯誤の木版刷りを何故に東大ともあろうものが、上からのプレッシャー
とはいえ、敢えてなしたのかと言うことになる。「馬脚をあらわす」というが、もし東大蔵版と称されるものが、当時としては普通の活字本で
出したものなら、まあ話が合うのだが、古くからの蔵版だと誤魔化したいゆえ、本当は明治三十五年に配布したものを、五年前と故意に
し、バレン刷りと、和紙閉じにした。まあ猿知恵である。
そして三河普代となっている者は、徳川公爵家を始め片っ端から、三河出の統一民族の旗本だったとすることによって、日本人は
単一民族といった学説に繋いでゆけるのである。「松平記」の原本も桐箱は無くしたが現物はある。
合計七万円以上の当社刊行物購入者へ提供。
<<終わり>>
引用参考文献・・・八切止夫著作「サンカ民俗学」(日本シェル出版)
・・・・・・・・・・・・・
【紹介者・註】
私は小谷圭一郎の「ジンギスカン義経」の種本となった明治刊行の内田弥八著「義経再興記」「明治史学会雑誌」
かがり糸は切れてるが本物の「松平記」「手書き兵法雄鑑」等の珍奇本を所有している。というのは、八切先生が二万冊余の蔵書を無料贈呈した時期に、ダンボールで送られてきたもので、どれも古書価格で八万から十数万円のもので、当時私は驚いた記憶がある。
ファンサービスと後学の為との配慮からだろうが、三十年の歳月と二億円もかけた大切な資料である。
それをただ同然で貰って、本が汚いと苦情を言った馬鹿がいて、先生も阿保らしくなって中止した。
古書を知らない人間だが、それ以前の問題で、礼儀知らず、無礼者なのである。もつと言えば、半生を真実の探求に打ち込み、しかし、
世に認められずも、必死に書き残す作業を八十歳迄続けた一人の男の”身辺整理”的行為でなくて何であろう。
そうした人間の心を斟酌できない者に「歴史を語る資格は無い」。
ともあれ、晩年の先生は不自由になった右手を紐で吊っての執筆だったと聞くが、その執念には幽鬼迫るものが感じられる。
全く大変な碩学を無くしたもので、その死が悔やまれてならない。合掌!!

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