第1話 ユニークモンスターの誕生
サザードン迷宮の十階層、人間たちがボス部屋と呼ぶ空間に、
一匹のミノタウロスがリポップした。
牛の頭と人の体を持ち両手に斧を携えた魔獣である。
ミノタウロスは、ひどい飢えを感じていた。
左に出入り口が、右に小さな湖が見える。
湖に駆け寄り、水面に顔をつけて水をむさぼり飲んだ。
乾ききった体に水が染み込んでいく。
細胞の一つ一つがうるおされ、力を取り戻していく。
頭を持ち上げて息を吸い、吐く。
呼気がほの暗い洞窟に吹き上がる。
再び顔を湖につけて、またも水を飲む。
喉の渇きは癒えたが、飢えはむしろ強まった。
出入り口を見る。
あの向こうには飢えを満たす何かがあるのか。
ミノタウロスは出入り口まで歩いていった。
外に出ようとして、強烈な不快感を覚えた。
ここは通れない。
ミノタウロスは水際に戻り、座り込んだ。
おのれを生み出した世界も、飢えを感じるおのれ自身も、憎かった。
ここまでは、いつも通りのありふれた光景であった。
やがて、この部屋に、一人の女戦士が入って来た。
目的は、ミノタウロスをソロで倒して、Bクラス冒険者に昇級する資格を得ることである。
女戦士にはそれができる強さがあったし、準備もしていた。
ミノタウロスは、女戦士の姿を見るなり、立ち上がって駆け寄った。
本能が、あれは敵である、と教えたのである。
攻撃できる距離まで近づくと、大きく右手を振り上げた。
女戦士は、巨体に気圧されながらも、斧の動きを見極めてかわし、怪物の伸びきった右腕に、剣で斬り付けた。
落ち着け!
落ち着け!
牛頭は、力は強いけれど、攻撃は単純。
斧を振り回すか、角で突きかかってくるだけよ。
とにかく、攻撃をかわしながら、両手の斧が使えなくなるまで、腕に斬り付けていくのよ!
女戦士は、自分に言い聞かせた。
それは、この怪物と闘うときの常道である。
あとは、ただ一つの特殊攻撃にさえ気をつけていれば、負けるはずはなかった。
攻防は続いた。
ミノタウロスの両腕は、ずたずたに切り刻まれ、血だらけになっている。
女戦士は、汗だくになり、息も荒いが、これという傷は受けていない。
落ち着いてみれば、怪物の動きは鈍い。
振り回す斧は速いが、予備動作は単純で、軌道は予測しやすい。
一つの動きから別の動きに移るのも、もたもたしている。
深く踏み込んできた怪物の攻撃をかわしたとき、絶好の攻撃位置を取れた。
今よ、と自分に声を掛け、両手で握った剣を真っすぐ振り下ろす。
太い骨を断つ不気味な音がして、ミノタウロスの左手が切り落とされた。
勝った!
と思う心が隙を生んだ。
怪物は、手首から先を失った左手で女戦士を殴り飛ばした。
岩壁に、したたかに打ち付けられた。
怪物が右手の斧で追撃してくるが、岩壁を蹴ってかわし、少し距離を取って怪物と向き合い、息を整えた。
怪物が、上を向き、顔をしかめて、大量に息を吸い込んでいる。
来る!
腰のベルトに取り付けられたポーションソケットに左手を伸ばした。
状態異常を解除する黄ポーションを、取り出そうとする。
女戦士の顔が真っ青になった。
つぶれている。
岩に打ち付けられたとき、すべてのポーションはつぶれていた。
ブオォォォォォォォォォォォォォォォーーーーー!!
ミノタウロスから、すさまじい叫び声がほとばしった。
洞窟全体が震えているようだ。
雄叫びに全身を揺さぶられ、女戦士の動作が止まった。
動作が止まるだけではない。
敵に立ち向かう勇気は消え果てて、絶望感にうちひしがれた。
ハウリング。
残存HPの三分の一を削り、わずかな時間ではあるが行動阻害と全ステータス異常をもたらす、ミノタウロスの特殊攻撃である。
ミノタウロスの右斧が振り下ろされる。
かろうじて身をかわしたものの、女戦士は、左胸から右脇にかけて、大きく切り裂かれる。
勝てないと悟った女戦士は、逃げ出した。
ボス部屋を出てしまえば、怪物はそれ以上追って来れない。
あと数歩で出口というとき、足がよろけた。
斧が、うなりを上げて襲いかかる。
女戦士の左足首が、切断された。
それでも、転がりながら出口の外に脱出できた。
痛みに涙を流し、息も絶え絶えに空気を吸い込みながら、しかし女戦士は安堵していた。
これで助かった。
もう大丈夫。
そのうち誰か通るはず。
ポーションを借りれば、助かる。
とにかく、足首を縛って血を止めないと。
女戦士がそのような思考を巡らせているとき、ミノタウロスは出口の前でうなり声を上げていた。
殺したい。
殺したい。
こいつを殺したい。
だが、出口を通ることはできない。
魚が空で泳げないように。
鳥が大気の外に飛び出せないように。
ボスモンスターは、ボス部屋の外には出られない。
ミノタウロスは、あらゆる感覚がその一歩を拒むのにあらがい、出口に足を踏み入れた。
じゅうっ、と音がして、右足が焼けただれた。
痛みと驚きで斧を取り落とし、後ろに跳びすさった。
だがミノタウロスは、なおも出口に向かった。
突き出した右手が焼け、じゅうじゅうと泡立つ。
構わず踏み込んでいくにしたがい、肩が、顔が、胸が、足が、焼けていく。
醜く顔をゆがめ、口からよだれを垂れ流しながら、しかし進むことをやめない。
ただ、目の前の敵を殺したい。
もう敵に手が届く。
女戦士は、目前の光景を理解できなかった。
怪物は、地獄の悪鬼のごときおどろおどろしい姿に変じながら、越えられるはずのない境界を越えて近づいてくる。
嘘よ、嘘よ、というつぶやきは声にはならず、ただ、かたかたと歯を鳴らす。
ミノタウロスは、顔をぐしゃぐしゃにゆがめながら、なおも右手を突き出す。
炭化して黒ずみ、吹き出す体液でぬらぬらする、すじばった右手が、くわっと開かれ、
女戦士の胸当てをつかんだ。
そのまま、ごぼう抜きに女戦士の全身を持ち上げると、倒れ込みつつ体を回転させ、女戦士を頭から岩壁にたたきつけた。
ぐしゃっと女戦士の頭はつぶれ、脳漿と血のりと頭蓋骨のかけらが飛び散る。
女戦士は、すうっと消えた。
あとには幾ばくかのアイテムが残されているばかりである。
飛び散った血や肉も、瞬時に消え去った。
迷宮では、人といえど亡きがらをとどめることはできないのである。
ミノタウロスは、消え残った胸当てを右手につかんだまま、倒れ伏している。
体中が黒ずみ、縮み、いやらしい匂いのする煙を吹き出している。
間もなく、このモンスターは、短い一生を終えるだろう。
だがそれでも、ミノタウロスは心の中で強く念じていた。
もっとだ!
もっと、もっと、闘いを!
もっと、もっと、強い敵を!
俺に力をよこせ!
敵を殺す、さらなる力を!
人の言葉になおせば、そうもなるであろう。
それは、妄執でもあり、呪詛でもあり、祈願でもあった。
言葉にはならなかったが、明確な意味を持つ心の底からの叫びであった。
このとき、怪物の頭の中に声が響いた。
「なんじの願いは、聞き届けた」
ミノタウロスは知るよしもなかったが、女戦士の胸当てには大地神ボーラの護符が縫い付けられていた。
神々から職能に応じた加護を受ける、いわゆる恩寵職の中でも、迷宮でモンスターを倒して経験値を獲得し、アイテムやスキルのドロップを得られるのは、騎士、冒険者、盗賊など、一部の職に限られる。
今響いた声は、女戦士が神殿で大地神に冒険者としての加護を祈願したとき聞いた声そのままであった。
淡い土色の光がミノタウロスを包む。
しゅうしゅうと柔らかな音がして、見る見る表皮や体毛が再生される。
失った左手さえも、元の通りに復元される。
いや、元通りではない。
その体は、数段強靱さを増していた。
冒険者なら見慣れた、レベルアップの場面である。
女戦士を殺して得られた経験値は、ボーラ神の加護を介し、このミノタウロスに設定された成長係数により換算され、レベルアップをもたらしたのである。
ミノタウロスは、湖のほとりに戻り、がぶがぶ水を飲むと、眠りについた。
迷宮のモンスターは、岩からしみ出してくる、といわれる。
倒されれば時をおいてリポップするが、記憶や経験が引き継がれることはない。
リポップしたときには、すでに別の個体なのである。
迷宮のモンスターは、成体として発生する。
迷宮のモンスターには、成長も進化もない。
迷宮のモンスターには、性別がなく、つがいを作ることも、子をなすこともない。
迷宮のモンスターは、知性を持たず、本能のままに、ただ人を襲い、殺し、喰らう。
迷宮のモンスターは、魔獣あるいは幻獣とも呼ばれるように、厳密な意味での生物ですらない。
生命の奇怪な似姿というべきである。
レベルアップによってとはいえ、成長するモンスターは極めて特異な存在といえる。
この日、サザードン迷宮に、一匹のユニークモンスターが誕生した。
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