イギリスBBCの「トップギア」は世界的人気を誇る自動車番組だ。
日本を含む世界各国で放送されているほか、アメリカ、ロシア、オーストラリア、韓国などの世界中で現地版が製作・放送されている。
しかし、いつまで経っても日本版は作られる気配がない。
というか、そもそも自動車番組が存在してない。私が幼い頃にはテレビ神奈川で「新車情報」と言う番組をやっていたのに、いまではそれも終わってしまった。日本はいま、若者のクルマ離れの時代まっただなかである。
私もクルマ離れの影響でペーパードライバーなのだが、幼少時代は大の自動車マニアだった。家の外を走っている車の車種をすべて言うことができた。(今は全部忘れてしまったが・・・)
少年には「自動車図鑑」というメディアがある。今の時代にも存在しているのだが、図書館や書店に行くたびに、こういうものを目を皿のようにして楽しんだ記憶が自動車趣味につながっていたのだと思う。
また、「自動車図鑑」と同じくらい少年に人気があるのが「動物図鑑」だ。
世の中にどんな動物が存在していて、どんな見た目をしていて、どんな生態系をしているのかを愉しみながら知ることができる。そういうメディアは子どものうちには親しめることができる。
しかし、小学校高学年にもなるとダサくなってしまう。
教室で亀を買ったりトカゲを育てたりしていた同級生が、突然J-POPを歌うようになり、だんだんと変貌し、成人式にもなれば立派なチャラ男になったりするわけだ。動物好きだった過去など黒歴史である。
他方で、世界70か国に展開している米英合同の動物番組専門テレビ局「アニマルプラネット」では、凝った映像と専門的な解説で動物を紹介する番組を24時間放映している。
まさに、「動物に対する好奇心」という少年時代とまったく同じ感覚を大人になっても持ち続けた人のためのテレビ局だ。
Great White Snaps Cage in Half | World's Scariest Animal Attacks - YouTube
日本のテレビ界もかつては動物番組をいくつも製作・放映していた。
しかし、どれも視聴率が悪くなり、打ち切られる一方に。現時点では純粋な動物番組は皆無になっている。
現在の動物番組の代表格といえばNTVの「志村動物園」とNHKの「ダーウィンが来た」だ。
「志村動物園」は雛壇に人気タレントがずらりと並んでいて、スタジオで繰り広げられるのはタレントによる動物と関係ないトークやオフザケの割合がほとんどである。VTRではタレントと動物の馴れ合いを見せているものの、動物そのものに深いクローズアップはしない。この番組にとって、動物はタレントを魅せるための道具にすぎない。
動物が大好きでこの番組を付けている視聴者はどこにも存在しておらず、出演タレントのファンが大好きなタレントが動物と戯れる様子を愉しむための番組なのだ。
タレントに興味のない動物好きが「志村動物園」を見ることは、バリ島で撮影されたアイドルのイメージビデオをバリ島マニアがわざわざ買って観るくらいにシュールなことである。
NHKの「ダーウィンが来た」は、CGキャラクターの「ひげじい」が動物について質問をしていく子ども向けの番組である。大人がわざわざ見るような内容ではなく、動物に興味を持った子どもが親子で楽しむようなつくりになっている。
独身の大人や、ハイティーンから20代にかけての若者がわざわざ見ることはまずない。
あることに気づく。
現代の日本は「子どもの文化」と「大人の文化」が断絶しすぎではないだろうか。
子ども時代は、子ども向けの動物や自動車の図鑑、番組(あるいはビデオ)がいくらでもあっても、若者になると急にそれがなくなってしまう。
これは女子も同じだ。
子ども向けチャンネルのNHK教育では、25年ほど前に「ひとりでできるもん!」が始まって以来、子ども用の料理番組が放映され続けている。
しかし、大きくなってこれを卒業すると、若い女性が楽しめる料理番組はどこにも存在していない。「キユーピー3分クッキング」も「MOCO'Sキッチン」も中・高年の主婦のための番組だ。
Weetabix Chocolate Spoonsize - TV Advert - YouTube
イギリスには、少女がキレキレのダブステップを踊るシリアルのCMがあり、少女の「背伸び」した感じがコミカルに描かれている。
ダンス音楽といえば日本でも若者に親しまれている文化だが、なぜか日本の子ども向けメディアの中にはこの手の音楽がほとんど出てこない。
子ども向けの商品に出てくる子どもたちはあからさまに子どもらしく描かれている。大人向けのCMにも「子ども店長」のようなあざといキャラクターが起用されるものばかりしかない。そういう空気ができあがっているのだ。
子どもはやがて若者になるし、若者は大人になる。
しかし、ポケモンの進化じゃあるまいし、一夜にして急に大人になるわけではない。それなのに、少子化をいいことに、世代間の文化断絶がハンパなく広がっている。これはどう考えてもヤバい風潮ではないだろうか。
昭和の時代なら、子どもが小説に親しむきっかけに「児童文学」が存在していた。しかし、平成生まれの自分の世代では、青い鳥文庫を読んでいる人間は「一部の物好き」だけだった。
独創的で個性的な物語が数多くつくられているのだが、クラスの同級生と話があうわけではないし、どんなに楽しい作品もアニメや映画になるわけではない。結局はとても空しいことに気づくと、醒めてしまう。かくして、若者の小説離れが起きてしまうのだ。
その一方で、昭和の日本にも、欧米社会にも見られない日本の特徴が、「若者のオタク化」である。
ゆとり世代にはニコニコ動画は絶大な人気があり、オタクコミュニティはどんな田舎の学校でも1クラスに一定数は当たり前に存在している。生まれる時代をほんの少し間違えれば無理して金髪に染め、浜崎あゆみにかぶれていたような階層ですらにわかオタクになっているのだ。
よく考えれば、アニメやマンガは本来子ども文化である。若者になれば卒業するのが当たり前だ。
しかし、なぜ若者向けのこうしたコンテンツが量産されるようになったかというと、これもきっと、世代ごとの文化断絶の影響ではないだろうか。
日本の「普通の若者らしい文化」はどれも現実的なものしか存在していない。若者タレントを雛壇に並べたテレビ番組にしても、繁華街にあふれる消費文化にしても、電通が推すような流行文化にはことごとく夢も希望も存在しないのだ。「今の時代の文化であること」を確認する以外に得る価値はないし、バブル時代や海外のものと比較してクオリティが高いわけでもない。
喧しさの中に埋没しながらも、ふとテレビを消すと、ふと街中から家に帰ると虚しさがこみあげてくるものだ。かくしてミーハー文化の若者離れは横行して当然である。
その点、アニメ・マンガは創造性と切っては切れないのが最大の特徴だ。「進撃の巨人」や「涼宮ハルヒの憂鬱」のように、独創的な設定やストーリーの作品はいくらでもある。
ライトノベルと言う発明の影響力も大きい。「児童文学」は子ども過ぎるし、「小説」はお堅すぎる。一方、ライトノベルは、主人公(の暮らす世界)はありきたりな若者でも、現実離れしたSFやファンタジー要素が混じっているのだ。そこそこの話題作であればアニメ化が保障されている。人気作なら劇場映画が何度も作られる。
普通の小説は「よほどのベストセラー作」でもない限り映画にもならない。友だちとの間で話題にできないし、分厚いページを読み進めても映像を見ることができない。挿絵すらない。それを読んだところで虚しいわけである。
私はオタク文化を賛美するわけでも、否定するわけでもない。
ただ、今の日本の文化をめぐる状況は明らかに偏っているし、間違っていると思う。その結果として、オタク文化くらいしか突出した存在が出てこなくなってしまったのではないだろうか。
子ども時代にありのまま好んだ趣味や、夢見たことを、若者になっても、大人になっても、高齢者になっても楽しみ続けられるような、そういうことを尊重するような世間の風潮は存在しておらず、メディアや文化を提供する側の姿勢がなにより厳しい。
そう考えると、海外の中でもとくにアメリカは、アメリカには老若男女が同じように夢を見てワクワクできるような娯楽がいくらでも溢れていると思う。日本の娯楽産業もアメリカのようになればいいのに、といつまでも思い続けてしまうものだ。