戦後日本像の転換@
−西尾幹二著「異なる悲劇日本とドイツ」の波紋−

 

 

先にお断りするが本稿は長文となるためいくつかに分けて掲示する。

歴史認識に関係するサイトのネットサーフィンを行っていた所、面白い論文を見つけることができた。
その論文の作者は「ドイツ現代史を訪ねて」というHPを作っている現代史研究者清水正義氏である。
清水氏は東京女学館短期大学で教鞭をとっているらしいが、このHPの中で「西尾幹二氏のドイツ戦争責任論に対する批判」として「異ならない悲劇 日本とドイツ」という論文を展開している。
このタイトルは西尾氏の著作である「異なる悲劇 日本とドイツ」のもじりであるが、内容は原典とは違い感情論に終始する非論理的内容となっている。まずは清水氏の論文を一読していただきたい。
かってにリンクを貼れないので下記にURLを紹介します。
また、このURLがなくなる可能性もあるので全文をコピーしたものも下記にリンクして掲示する。

URL:http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6729/essay1-6.htm
リンク:「異ならない悲劇 日本とドイツ」(全文)清水正義著

この文章を一読してどのような感想を持っただろうか。
とんでもないガチャ文であると同時に、あまりに論旨が不明瞭で何を言いたいのか分からないというのが本音ではないだろうか。
論理が一転二転するため何をいわんとしているのか分かりづらいが、再三再読でこの著者が何を言いたいのか読み解いてみたい。

著者が批判の対象としている西尾氏による論文は現在「異なる悲劇日本とドイツ」(文春文庫)に収録されている。
できればその論文を読んでいただきたいのだが、それができない方のため要約するとこうである。

現在戦後における日本というものを考えるとき、一般通念としてドイツの存在を無視できない状況にあるのではないだろうか。
そしてドイツは戦後こういった補償を行ってきた等の無差別思考に基づいたドイツを見習え式の思想が横行しているのが現状といえる。
西尾氏はそのような無差別思考に警鐘を鳴らす。
確かにドイツと日本は同時代に同盟を組んで戦争をした。
しかし共通点はそれだけであり、それ以上の類似性はない。
その様な二国を単純に比較することで、日本を非難することはできないということである。
比較することが間違っているというわけではない。
正確な比較をすることで両国の相違点を抽出し、その相違点を意識することで日本の針路を模索すべきということである。

ポイントは二点ある。
ドイツの戦争と日本の戦争は全く違うということと日本の戦争犯罪の国際的な位置付けである。
一点目について日本の行為(例えば南京事件)とはあくまで戦争遂行の延長線上にある戦争犯罪であり、ドイツ=ナチの行為(例えばジェノサイド)とは戦争遂行の目的からはずれた単なる犯罪である。
詳しい説明は本編に譲るがナチの行ったジェノサイドは戦争遂行上マイナスの面を多分に持つ行為であり、時系列的にみてもドイツの敗北が決定的になった後に本格的に始まったといえる。
つまりナチの行ったジェノサイドとはたまたま戦時下に行われた単なる犯罪でしかないということである。
二点目は日本の行為は前述しているように戦争犯罪であり、戦争犯罪とは日本に限定されることではなく、どの国にもあることである。
世界史とは略奪と侵略の歴史であり、ヨーロッパ諸国と中心として世界全域に侵略の手を伸ばした。
その中で侵略遂行目的の中で数多くの戦争犯罪が行われてきたのが現実だろう。
つまり戦争犯罪とは戦勝国、敗戦国に係わらず犯す可能性が常にあり、実際に行われきた事実がある。
この二点を前提として一般通念としての論理を俯瞰してみるとどうなるだろうか。

戦後の問題として大きなものに補償問題がある。
日本もドイツを見習って補償すべきたろうか。
答えは否である。
違う戦争を戦ったドイツを相対化することで、日本を合わせる必要はない。
日本が相対化すべきなのはドイツを除くいずれかの国である。
そしてその賠償は国際規約に基づいて行うべきであり、各国独自の考えで行うべきではない。
そうならないための調印であり、それを無視したら、いったい過去の犯罪のどこまで遡ればよいのだろうか。
というのが全体の論旨だろうか。
そしてその中でドイツの補償の欺瞞とワインゼッカーの集団の罪を否定する姿勢を非難している。

西尾氏は上記の論理を進める上できわめて論理的に話しを進めている。
さて西尾氏の上記論文を批判する著作であるが一読して分かるように非論理的に展開され、いみじくも西尾氏が非難する感情論に終始している。
それは事実関係の確認及び論理的展開について概ね西尾氏に同調している点にその傾向を読み取ることができるだろう。
しかし論理的展開は同調するものの、導き出される結論が西尾氏のものとは全く正反対となっている。
又、どう見ても極解としか思えないような捉え方をすることで自説を展開している。
著者の心理状態は想像するしかないが、この著者は他の論文を見ても左翼的傾向を持っているのは明らかである。
そのため西尾氏の論文に対し感情的に反発することになるのだろう。
しかし西尾氏の論文が論理的に否定できないと判断する知識と思考を持っているため或いは論理的な展開に就いては西尾氏と同意見であるため、西尾氏の論理を結論部分で意識的或いは無意識に極解するという姿勢に繋がっている。
しかし清水氏の内的必然性によって結論部分では西尾氏の意見を肯首することができない。
ゆえに論理的な一貫性のない感情論とならざるを得ない。
以下に清水氏の論文を引用しながら清水氏の非論理的思考を批判する。

まず冒頭の(1)の第1段落(以下は(1)−@とする)の逸話は無視してよいのではないだろうか。
正直言って清水氏がこの様な話を冒頭に持ってくることで、どの様な効果を狙っているのか分からない。
(1)−Aでも記述しているように単にドイツ人の両義的な性格を表現してかったのであれば、それは論文の主題から無関係といっていいほど清水氏の主張を補完するものではない。
ディレッタントじみたこの逸話は単なる空談といってもいいだろう。
この逸話が表しているドイツ人の両義性は本論の中心的役割を果たしているわけではなく、また西尾氏も自明のものとして記述している。
よって(1)は論理として言及する必要はないと判断し無視する。

(2)から清水氏の主張が表れる。
(2)−@、Aで『日本の論壇、ジャーナリズム、市民団体、あるいはおそらく教育界の一部にも見られるこうした日独比較論』を非難している。
それは現在あちこちで見受けられる単純な類似性の発見による日独の相対化のことを指す。
この姿勢が単純であるからこそ飛びつきやすい安易な結論を導きだす危険性を秘めていると清水氏は論ずる。
その安易な結論とはドイツ=ナチの犯罪を日本の戦争犯罪と相対化することで、日本の犯罪を軽減するというということである。
その代表的な論客として(2)−Bで紹介されているのが西尾氏である。
清水氏は西尾氏を(2)−Cのなかで日本の戦争責任否定論者と位置づけ、西尾氏の戦争責任否定論の論点を4つ挙げている。

『まず第一は、第二次世界大戦にいたるまでの日本とドイツの国家体制、対外政策の本質的相違についてである。氏によれば、戦前日本の国家体制はナチ・ドイツの如き全体主義体制ではなく、その対外政策もナチの追求したような明確な目的をもったものでも犯罪的性質をもったものでもなく、当時の国際関係のもとではやむを得ない国益追求の結果に過ぎなかった。第二は、戦後ドイツにおけるナチ犯罪の清算のありかたについてである。日本の大マスコミ(特に朝日新聞)が鸚鵡返しのように賞賛するヴァイツゼッカー西独大統領(当時)の敗戦四○周年演説は、ナチという全体主義国家の史上稀なる大犯罪の清算を一部ナチ幹部を処罰することで済ませようとし、ドイツ国民全体の罪は堂々と否定している、と西尾氏は論難するのである。第三は、日独が犯した戦争犯罪の性質の違いである。西尾氏は、第二次世界大戦中にナチ・ドイツが行った犯罪行為は民族皆殺しを計画した「人道に対する罪」にあたり、戦前日本軍が犯した、そして世界史上のいずれも国家もそれなりに犯したに違いない通例の戦争犯罪とは質的に異なるものとする。第四は、日独の戦後補償の違いである。これまた大マスコミが称揚するドイツの戦後補償は、ナチの不正の犠牲者に対するものであって一般の戦争犯罪犠牲者に対するものではなく、日本にはドイツが負っているような「ナチ的不正」の犠牲者個人に対する賠償責任は存在しない、と西尾氏は突っぱねる。以上の四点である。』

面倒な言い方をしているが簡単に言えばこうである。

@第二次世界大戦に至る過程において日独とも国益を追求する方向性は同じであったが、目指す国家体制は全く違っていた。
Aドイツは戦後の清算をナチ幹部に押し付け、ドイツ国民全体の罪を否定している。
Bドイツが行った犯罪は戦争犯罪ではなく単なる犯罪であり、日本が行ったのは戦争犯罪である。
Cドイツがおこなった戦後補償はナチの犠牲になった個人に対するものであり、国家補償はおこなっていない。また日本は個人への賠償責任は存在しない。

そして(2)−Dで@については不問にし、A〜Cについて疑問を呈し、この3点について論ずると結んでいる。
それでは西尾氏の主張するこのA〜Cの論点に対する清水氏の主張を検証しよう。

 

 

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