2014年04月21日

戸田山和久氏の『哲学入門』(1)

当初私は、この本(ちくま新書)を詳しく検討して、細部にわたる批評を書こうと思っていた。そのためメモをつけながら読み進めたものである。しかし、読み進むうちに、そのような内在的検討に値する価値が、この本にはまったくないことが明らかになったので、ここで記すことは、大雑把で外在的な批判にならざるを得ない。もっとも、そのような外在的批判の対象として見るならば、なかなかに興味深い症候的(症例的)な所がないわけではない。これも、この時代の批判的精神や自由精神の衰退を示すものではあるのだろう。しかも、大威張りのわがもの顔で恥ずかしげもなくステテコ姿をさらしている!


「ありそでなさそでやっぱりあるもの」を物理的世界観の中に埋め込むという一貫した意図を本書は持っている、と言われる。ここで「ありそでなさそでやっぱりあるもの」と言うのは、ヒッグス粒子とかダークマターのことではない。これらの存在についてなら、物理学とか天文学という学問がちゃんと存在するからである。複素数とか非可算無限のことでもない。いろんな学問内部で、何かの存在が問われたり、疑問に付されたりすることがあるが、そのときいったい何が問われているのかも、この本で一度も問われることはない。

端的に存在するものはただ物理学が認めているものであり、それ以外は「存在もどき」と言われるのである。ダークマターは物理学者が存在すると言えば存在するのであり、ヒッグス粒子も同様。それでは数はどうなるのか? どこにも書かれていない!

要するに、「意味」とか「心」とか「価値」とか…いかにも文系の学問でのみ扱われるさまざまのものが、ここで「存在もどき」と言われているものである(何とも妙なまとまり方!)。日常で当たり前のように考えられていることに対して疑いをさしはさみ、ひょっとしたら「ありそうもないこと」ではないかと見返してみることは、たしかに哲学的営みの重要な一側面であろう。

しかし、それが「この世のありさまはおおむね(自然)科学が教えてくれるように出来上がっているという科学的世界像」を受け入れる(p−14)ことにすぎないのだとすれば、これ自身ただの盲信にすぎず、「あたりまえのこと」の中に眠り込むことでしかないだろう。

極めて特徴的なことに、カントについて著者があっさりとごく表面的に触れている個所がある。

カントの有名な『純粋理性批判』は、感覚を入力するとニュートン力学を出力するシステム(主観)を想定して、そいつはどんなサブタスクをやっているはずか、そのためにはどんな構造(アーキテクチャ)をしているはずかを考えた本だ(p−271)

ここには、カントにあった「批判」がきれいに抜け落ちている。なぜならカントは、ニュートン力学を出力する場合は正しい理性使用であるのに対し、神の存在証明を出力することは理性の不正使用である、と区別する基準を提出しているからである。つまり後者は、同じように感覚的経験を入力して、理性や論理を行使しても、その認識内容が我々の可能的経験を超越しているから、正当な理性使用とは言えないのだ。

一般に、一見合理的な顔をしていても、正当とは言えない科学が一部存在し、正当と言える科学が何故正当と判定できるのか、我々の合理性一般に遡って吟味しなくてはならない。これがカントの批判である。ニュートン力学の正当性を無条件に前提して、それを再構成したり跡付けたりすることではない。戸田山氏は、カントと違って、自然科学を頭から信じているようであるが、それがどうして正当であるのかを論証しようなどとは、てんから考えないのである。このことは、戸田山氏が頼りとする自然科学自体の内部にさえ、すでに大きな対立があるのに、奇妙なことである。たとえば、数学者の内部ですら、実在論と反実在論の対立に決着がついていない。


Posted by easter1916 at 23:23│Comments(0)TrackBack(0)

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