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今年になってから、何回か柴田哲孝氏の『異聞太平洋戦記』(講談社)を紹介して来た。
東京大空襲と広島原爆投下の八百長、山本五十六謀殺の闇などであった。いずれもこの本に収められている短編で、取材した事実に基づいてフィクション風に書かれた衝撃的内容だった。
もうひとつ紹介しておきたい短編がある。それは「草原に咲く一輪の花 〜異聞ノモンハン事件」である。
これはノモンハン事変を扱っている。
ノモンハン事変は大東亜戦争が起こる前、1939年5月から9月にかけてモンゴルと満州の国境で、大規模な日本軍とソ連軍の戦闘が行なわれた事件である。
なぜ戦争になったかというと、表向きはノモンハン辺りの国境係争地で偶発的に戦闘が起きたとされる。だが、国境警備隊同士の小さな交戦はしばしば起きていたのに、このときばかりは大規模な戦闘に発展し、日本軍側は師団ごと全滅する事態になぜ至ったのかは、今もって十分解明されていない。
どっちが先に仕掛けたかとか、日本軍が一方的に敗退したのに反省なく大東亜戦争に突き進んだとか、指揮した辻政信参謀は狂人かなどが喧しく語られてはきたが、なぜ? と疑問に完璧に答えたものはない。司馬遼太郎などはサヨク丸出しで、とにかく悪かったのは日本側だったの一辺倒もいる。
要するに国境係争地だったのだから、理由は領土の奪い合いとメンツだったのだろう、ぐらいにしか捉えられてこなかった。
ノモンハンのあたりには、何か交通の要衝たる都市があるわけでもなく、石油や鉱物資源があるわけではない。不毛の原野であって、こんな土地を血相変えて奪い合う理由がそもそもなかった。両軍ともそうとうの戦費がかかったはずなのに、あえて全面戦争になったのだからわけがわからないのだ。
それで、この柴田氏の本が謎解きに挑んだ。柴田氏の祖父が当時、満蒙国境で諜報活動をやっていた関係で関心を持たれたそうだ。
結論を言ってしまうと、「一輪の花」とはなんとジンギス・カン(チンギス・ハーン)の墓のことである。関東軍の符牒である。チンギス・ハーンの墓がどこにあるかは謎とされているが、それをハルハ河付近で日本軍の工作員が見つけ、確認をしようとする過程でモンゴル・ソ連の主張する領土のほうへ足を踏み入れたため、その意図が敵軍にも知られた。ソ連は墓を発見させまいとして大軍隊を派遣し、日本軍と衝突することとなった、と柴田氏は言うのだ。
そして、発端としては軍部ではあの大逆事件の首謀者・甘粕正彦がチンギス・ハーンの墓に注目したとされる。
ノモンハンの生存者が語る真相を以下に引用する。
* *
(チンギス・ハーンは)1227年に病没。今際の言葉は「われこの大命をうけたれば、死すとも今は憾みなし。ただ、故山に帰りたし」であったという。その墓は二十一世紀になった現在でも発見されていない。
確かにノモンハン周辺は、チンギス・ハーンの征服地に含まれる。多くの遺跡も残っている。だが…、
「チンギス・ハーンは、ヘンティ山脈の起輦谷(きれんこく)に葬られたと聞いています。違うのですか」
八雲(ノモンハンの生存者老人)が、ふと笑ったように見えた。
「確かに、それが定説です。しかし、違うのですよ。ヘンティ山脈…。それは後の中国やソ連がチンギス.・ハーンの研究者を惑わすために流した捏造です。根拠など、何もない」
「なぜそういい切れるのですか」
「我々が、ホロンバインでチンギス・ハーンの墓を、実際に発見したからですよ……」
* *
Wikipedia でも彼の墓は起輦谷に葬られたとしたためられている。だが、それは嘘だと…。
最期の言葉「ただ、故山に帰りたし」は、とチンギス・カンが源義経である一つの根拠として、以前取り上げた。故山とは鞍馬山のことだったろう、と。
さらに続ける。
* *
チンギス・ハーンの墓……。
もしそれが発見されれば、一九三九年当時としても歴史的な快挙であったことは間違いない。だが、たかが遺跡である。その発見のため日本とソ連が戦い、両軍合わせて数万の犠牲を払うほどの価値がはたしてあるものなのか。有り得ない。しかももし発見されていたとすれば、日本かソ連、いずれかによってすでに発表されていたはずだ。八雲は、まだ重要なことを話していない。
「チンギス・ハーンの墓は、いまでもバイン・ツァガン山に存在するのですか」
八雲は、その問いに顔を雲らせた。
「いえ、残念ながら、我々が発見した直後、ソ連軍の手によって爆破されました……」
やはり、そうだったのか。
「しかし、なぜそんなことを」
「先程、申し上げたはずです。我々が探していた“一輪の花”すなわちチンギス・ハーンの墓には、満州国の存亡が懸かっていたと。当時のソ連と中国にとって、墓の存在はきわめて都合が悪いものでした。
特にスターリンは、チンギス・ハーンの亡霊を畏れてさえいた。かつて蒙古軍は、南部ロシアからウクライナまで広くロシア領土を制圧した記録がある。歴史上、ロシアをそこまで侵略したのはチンギス・ハーンだけです。しかし、理由はそれだけではない。スターリンがソ連国内や外蒙、さらには中国に残るチンギス・ハーンの末裔に対し、長年にわたり徹底した粛清を加えてきたことは歴史的な事実です。スターリンはかつての蒙古の英雄の血筋を根絶やしにし、歴史そのものを墓と共に葬り去ろうとしていた……」
(中略)
なぜチンギス・ハーンの墓が、満州国の存亡を左右するのか。満州建国と日本による統治に最も危惧を持っていたのは、イギリスだった。
「そして、イギリスのデビスですね」
「そのとおりです。2つの書(清朝の皇帝が編纂した国史のこと、2冊しか現存せず秘書とされる)に記された清の歴史が事実ならば、満州国の存在に正当な理由を与える根拠になる。“一輪の花”とは、その動かざる物証だったのです……」
* *
「イギリスのデビス」とは英国公使だったデビスである。当時、清朝の開国については謎とされていたが、彼が『清国総録』という本のなかで、満州国の執政になった愛新覚羅溥儀は、チンギス・ハーンの末裔であると論じているのである。
柴田氏は最後に、作中の証言者・八雲が、チンギス・ハーンの墓の中で「笹竜胆(ささりんどう)を見つけたと語らせている。これは源氏の家紋である。
チンギス・ハーン(成吉思汗)は源義経なのであり、清王朝がその後裔だとするのが正しいなら、溥儀を擁立して日本が承認した満州国を、欧米は認めないわけにいかなくなる。つまり満州は、日本人の義経=成吉思汗が国家を築いたゆえに、“日本の国土”だったことになるからだ…。
【エッセイの最新記事】
それこそが、源義経がジンギスカンである証拠だと書かれていました。
ですが、時代とか、年齢とか、寿命計算に合理性はあるのでしょうか?
2012年07月30日付の記事「源義経=成吉思汗説を思想性の高みから検証する(1/4)」に書きましたが…。
義経と成吉思汗の生誕時期・年齢は完全に重なり合います。端的には義経が日本から消息を絶った数年後に忽然と成吉思汗がモンゴルの平原に出現している事実には、偶然ではとうてい説明できない関連性があることを、多くのの書物も説いています。
江戸時代には、徳川光圀、シーボルト、新井白石、国学者・森長見らが、義経はジンギスカンに変身したことを説いているのです。
ご覧になった笹竜胆の石碑は、おそらくは墓の写真ではなく、シベリア東部やモンゴルに幾つか残るものだと思います。
たしか、命日が同じ8月15日なんですってね?