シルヴァーバーグ: コンピュータの引っ越し

ロバート・シルヴァーバーグは20世紀後半に活躍したアメリカのSF作家です。とか書くともう亡くなっているみたいですが、1935年生まれの79歳なので今はほとんど小説は書いてませんがまだ存命で、アメリカのSF雑誌Asimov's SFに毎月Reflectionsというコラムを書いています。そのAsimov's SFの今月号(2014年6月号)のコラムでは使っていたコンピュータの話を書いてたのですが、それを読んでちょっとビックリした事があったので訳してみることにしました。まあ、こういうエッセイが翻訳出版されるとは思えないので。

今、私はコンピュータの引っ越しの最中だ。これは珍しい事だ。私は毎年かそこらごとに新しいモデルに変えるようなタイプじゃないので。というかその正反対で、コンピュータについては、私はおかしなほど、バカバカしいほど、狂気の沙汰なくらい物持ちが良いのだ。

タイプライターからコンピュータへの切り替えについては、私は最初期のSF作家のひとりだった。1979年にはその可能性について調べ始めていた。執筆の為にではない。1979年にはフィクションはもう二度と書かないと誓っていて、そして実際、自分でもそのつもりだったので。なので自分の資産とビジネスの記録の為にだった。

1979年のコンピュータは非常に原始的なものだった。Apple IIはあったし、その他色々なもの、Altair 8800や、Imsai 8080、TRS-80などなどもあった。スクリーンはついていたし、全部ではなかったが大半にはキーボードがついていた。無かったのはメモリーだ。その用途には、痛々しいほどにノロいテープデッキが使われていた。私はバークレイの最初期のコンピュータストアの一つに行って、自分の事情を説明した。店員は、購入は1年か2年、待った方がいいと言ってきた。「ウィンチェスタードライブってのが出てくるんですよ」と彼は言った。「今のコンピュータはみんな一晩で時代遅れになります」。この「ウィンチェスタードライブ」というのは今ではハードドライブと呼ばれているものの事だ。

なので私はコンピュータ購入プロジェクトを延期する事にした。私の「恒久的な」フィクション執筆からのリタイアは、1980年のヴァレンタイン卿の城の執筆によって終ったのだが。こういった長い小説の執筆は大変な作業だ。私は600ページのドラフトを二つタイプして、大量の紙を無駄にした。しかしちょうどその頃、執筆以外にもいろいろな事が私の人生の中で起こっていたので、コンピュータ購入案件をしばらく放置するのは容易なことだった。

この私を現代技術へと押しやってくれたのは、私の1982年の小説であるLord of Darknessの、ヴァレンタイン卿の城より50%長い900ページのドラフトだった。そしてその二つ目のドラフトも同じ長さだった。それを書き終えた時には、もうタイプライタは二度と使いたくなかった。なので我々の分野で最も早くコンピュータを使い始めた一人である友人のジェーリー・パーネル*1に、このコンピュータというやつを説明してくれと頼んでみた。彼は18ページに及ぶ手紙のなかで、コンピュータとはどういうもので、どうやって使うのかについての優れたエッセイを書いてくれ、私はとっとと買い物に出かけた。

1982年にはこの世にいなかった読者は、当時作られていたコンピュータはそれぞれ独自のオペレーティングシステムを持っていた事を多分知らないだろう。CP/Mオペレーティングシステムを使っていたマシーンを除いて、どれも他のマシンとの互換性がなかった。さまざまなCP/Mのコンピュータが独自の宇宙に存在していたが、かれらにも伝説のウインチェスタードライブはついていなかった。彼らはフロッピーディスクを使っていた。いにしえの5インチ半のサイズのものだ。当時、作家の中で最も人気があったのは切手サイズのスクリーンがついたポータブルコンピュータ、Osborneだった。これは私にはおもちゃに見えた。しかしその頃、私が発見したのがビジネス専用に作られたワードプロセッサの世界だった。それらは独自のソフトウェアを持っていたのだが、これが非常に使いやすく、また私の同僚たちが使っていたチャチなマシンよりもはるかに頑丈だった。そして、それらにはすでにウィンチェスタードライブとは呼ばれなくなっていたハードディスクがついていたのだ。数冊の本を完全に収めるのに十分な容量とともに。

なので私はCompucorpのワードプロセッサを購入した。さらに追加で大枚を払って、膨大な容量である10メガバイトのハードディスクを取り付けた。当時存在したなかで最大のものだ。そして1982年の11月、大いなるおそれを感じつつ、この最新のしろもので中編を書き始めた。しかし、前日に書いたものが、翌日、仕事を始めた時にまだハードディスクに残っているとはまだ本当には信じられなかったので、私は毎日新しく書いたページをプリントアウトしていた。万一のためにだ。しかし前日に書いたものはいつも翌日にもちゃんと存在していた。さらに、コンピュータは他にもいろいろな方面でその価値を発揮した。別の登場人物の名前と重なってしまったために、ある登場人物の名前を物語中、50ページにわたって変えなければならないとなった時も、検索と置換をするだけで名前の変更があっという間にできた。分厚い原稿に目を通して変えたい名前を探していく必要はなかった。さらに、ドラフト第一稿が書きあがった時には、プリントアウト上に手書きで修正し、それをタイプして、そして“Print”キーを押すことで綺麗な最終稿を出来上がるのだった*2

今もって、この1982年のガタピシになったコンピュータを使っている、となっていても不思議はなかった。しかし実際のところは、1991年にこれがプリンターとつながらなくなってしまい、さらにはいつもならこういったトラブルから救い出してくれていたテクニシャンもこの時はお手上げだったのだ。さらにまた、その頃までにはDOSを利用する標準化されたPCが現れていて、作家はディスケットを編集者へ送って、紙の原稿の段階を完全に飛ばす事が出来るようになっていた。私はいまだに完全に互換性のないソフトウェアでやりくりしていたのだけれどね。良いソフトウェアだったのだよ。今にいたるまでそのソフトウェア、Arrowより使いやすかったり、より柔軟性のあるワードプロセッサープログラムに出会った事はない。これは私のCompucorpについてきたもので、9年間もそれを使い続けたあとでは、私はただそれを使い続けたいと思っていたのだ。しかし当時、すでにCompucorpは廃業してしまっていた。けれどもその頃、使われているどんなPCでも利用可能なArrowのDOSバージョンが存在している事を知った。なので事前に少しばかり調べた上で、Compaq 386コンピュータをArrowをインストールさせた上で購入し、私は幸せに仕事に取り掛かった。

このマシンを使うのは楽しかった。実のところ、これを使い続け、使い続け、使い続けて、数十年が経ってしまった。コンピュータは永遠にもつものとはされていない。そして実際、大抵は数年以上もちはしない。しかしながらこの私はこのCompaq 386で新世紀になっても本を書き続けたのだ。そして、私の家計簿や会計上の記録もこれでつけてきた。Compucorpマシンの悲劇は祝福が変装したものだったのだ。今では私は皆と同じくDOSユーザーで*3、もはや独自規格で互換性のないオペレーティングシステムに縛られてはいなかったので、私の仕事を妻のコンピュータや、あるいはバックアップ目的で購入したセカンドコンピュータにバックアップしておくことができた。あるいは私の選んだどんなDOSコンピュータにでも。

そうこうしているうちにインターネットがやってきた。私のコンピュータにはモデムがなかったが、問題もなかった。eメールだろうが、eBayだろうが、eなんだろうが、私は仕事をしている間に気をそらされたりしたくはなかったのだ。1998年ごろ、私は母屋でインターネットを使うため用にラップトップを購入した。そしてその後、iMacへとアップグレードした。しかし母屋とは別の建物にある仕事部屋では、私はどんどんと骨董品化していくCompaqでもって仕事を続けていた。私の愛するArrowソフトウェアを使いながら。

このようにして私は仕事を続けていたが、しかし勿論、年月が過ぎてゆくなかで、なんの問題もなかったというわけではない。私の仕事場のコンピュータがその現実的なライフスパンをとっくに過ぎてしまっているのは知っていたし、毎朝、仕事を始める為に仕事場へ向かう時、今朝こそついにこいつが反応しなくなるのじゃないかと心配していた。すべてのものはラップトップにバックアップを取ってはいたが、それでもなお、私の古き良きCompaqが突然に動かなくなってしまう日が来た時には、それはとんでもないトラウマになるだろうという事は分かっていた。

2か月ほど前、その日が来た*4。Asimov'sのための新しいコラムをちょうど書いたばかりの時で、私はそれをディスケットにバックアップを取っている時だった。ASCIIファイルに変換して母屋にもっていき、WORDドキュメントに変換して、雑誌へとeメールすることが出来るように。なのに突然、私のコンピュータがCドライブ、つまりプライマリードライブが見つからないと告げてきたのだ。DOSのディレクトリを確認すると、Cドライブ内のファイルは全てそこにあった。暗号みたいなDOSネームの長いリストで、長短編が、エッセイが、ビジネスの記録が、そして1991年以来このコンピュータ上にためてきた全てがそこにあった。しかしどれにもアクセスは出来なくなっていた。

トラウマ、酷いものだ。私はDOSベースのコンピュータ、Cドライブ、フロッピーディスク、そしてそういういった過去の遺物を覚えているほど歳のいった地元のコンピュータ専門家を呼んだ。二日に渡って朝方に、彼は私の荘厳なるマシンをいじってくれたがどうにもならなかった。問題はコンピュータにではなく、Arrowソフトウェアの方にあったのだ。そしてArrowはあまりに昔の遺物なので、いまコンピュータの仕事をしている人間でその問題のあるコードのかたまりを治せるものはいないというわけだった。これはつまり、オワリ、ということだ。我が愛しのCompaqにもついに神々の黄昏が訪れたのだ。

この悲劇も壊滅的というわけではなかった。私はCompaqの中のすべてのバックアップをラップトップに取っていたし、それにAドライブ、このいにしえのコンピュータのディスケットドライブへアクセスする事は出来た。このラップトップからは別の、そして非常に込み入った件の為になにもプリントアウトする事はできなかったが、しかし必要などんなドキュメントもラップトップからディスケットに移し、Aドライブを使ってCompaqへ移してそこで作業をして、それをプリントアウトする事はできた。Aドライブでの執筆は、当然ながらハードドライブを使うよりも遅かった。私はすばやくタイプするので、私の入力速度についてこれないAドライブは追いつくために2分ごとに止まってしまい、その間、私は待っていなければならなかったからだ。しかしそれは深刻な問題ではなかった。家計簿をつけている時などは特にそうだった。そういう時は、文章を書いている時よりもずっとゆっくりタイプしていたので。またエッセイを書いている時もそうだった。次の単語に取り組む前にコンピュータをちょっと待つのは大して難しくはなかった。すでに書いたものをスクロールするのも遅かった。ディスケットには大した容量がないからだ。しかし、次の行が現れるのを待つのは禅の実践のようなもの、少しばかりの忍耐を学ぶための歳いってからの教育だと自分に言い聞かせることができた。

もし私がフィクションを書いていたら、ディスケットが強制するこの遅れは苛立たしいものだっただろう。フィクションは無我夢中で(少なくとも第一稿ぐらいは)書いたりするので、コンピュータ待ちなどふざけるなというものだから。しかし、私はもうフィクションを書いてはいない。私の最後の長編は2002年に出版されたし、寄る年波がそんな大きなプロジェクトにまた取り掛かろうという意欲を奪ってしまった。短編ですらどんどん書かなくなってきている。2011年の最初の何か月かの後は、一つも書いていない。そして少なくとも今のところ何かを書く予定はない。まあ、どこかの編集者が断れないようなオファーでもしてくれれば話は別だが。

けれど、Asimov'sのためのコラムは定期的に書いているし、ときおり他のエッセイや、他の誰かの本のイントロダクションといったものもまだ書いている。馴染みのキーボードと、馴染みの黒地に白のスクリーン、そして過ぎ去りし日々の美しきArrowソフトウェアをいまだに好んでいる私は、ディスケットドライブ上ですべての書き物を行うすべを学んで、安全の為にそれをラップトップ上でバックアップをとり、そしてディスケットをiMacへと持って行ってWordドキュメントに変換し、それを出版社へeメールすることにした。けれど、ビジネスや資産の帳簿付けをこのやり方で行ったりするのは全く馬鹿げている。いつの日か、このCompaqの他の部分も死んでしまい、これの中に取り残されたすべてのドキュメントが失われてしまう事になる。そして私の数の計算を取り扱っているArrowソフトウェアは今、使われているどんなものとも互換性がないのだ。なので、私のビジネスの記録のバックアップをiMacにもっていって、それをExcelなりWordなりに食わせるというわけにもいかない。なので、計算が関わるすべてのもの、個人や仕事上の税金のファイル、投資のデータ、所得の記録、その他を新しいExcelファイルへと変換するのに私は忙しくなった。

 これは時間がかかるし、うんざりする作業だ。2か月たってもまだ終わっていない。しかしながら、CompucorpからCompaqへと4分の1世紀近く前にスイッチしなければならなかった時同様、これは悲劇に変装した祝福だったと思っている。約4分の1世紀もののコンピュータ上で、もはやだれもその使い方を知らないソフトウェアを使ってこういった記録をつける代わりに、私はそれらを新しくてモダーンなiMacでつけて、家にある別のiMacと、さらに外付けのハードディスクにバックアップをとれるのだから。そしてこのCompaq上で書いた短編や長編はとっくにバックアップを取ってiMac上でWordファイルに変換している。色々な出版社が私の為にスキャンして変換してくれた、コンピュータ以前のフィクションの大半と共に。なので今では一日の初めに、今日こそはついにコンピュータの終りが来るのじゃないかと心配する事もなくなった。もちろん、他にも心配事はある。いつでも心配しなきゃならない事は大量にある。マグニチュード9.3の地震だとか、家宅侵入を被るのじゃないかとか、私の住んでいるところから一マイル以下まで近づいて3000軒を破壊した1989年の恐ろしい大火の再来だとか。しかし、ある朝コンピュータを立ち上げたら、過去20年に渡って書いてきた全てへのアクセスが出来なくなっていた、なんてことはもう起こらない。ポストCompaq時代への移行に、あるいはより正確にはその時代へと引っ張り込まれる事に、私が成功したことを知って安らぎを感じる。少なくともこの10年、古のマシンが最終的に音をあげた時に何が起こるのか心配しつづけた後では。

*1:かつてあったコンピュータ雑誌BYTEにコラムの連載もしていた。

*2:昔はタイプ原稿に手書きで修正した後、綺麗な原稿が必要ならまた改めて初めから全部タイプし直さなければならなかった。

*3:21世紀には入った時点なら、すでに「皆」はWindowsユーザーだったと思うのですが...

*4:アメリカのSF雑誌のコラムって、結構書かれてから出版まで間が空くようなので、この「2か月ほど前」がいつなのかはっきりしませんが、それでも2013年以前とは思われません。1991年に買ったコンピュータを2013年、あるいは2014年まで使い続けていたとは!