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20 Apr 2014 20:33
◆ チンギス・ハーンと義経伝説 ◆
  

  お待ちしてましたよ、お客さん。今日もいい地酒が揃っていますよ。5人も座るといっぱいになるカウンター席と、一畳ほどの小上がり一つの小さな店ですが、仕事で疲れた体をきっと心休まる時を過ごせるはずです。さあ、ご一 緒にWEB版モンゴル酒房「山猫軒」にちょっと寄っていきませんか! 今晩のカウンター談義は、「義経伝説とチンギス・ハーン」でもやりましょうかね。 



 私が生れた宮城県石巻市には「ムックリコックリ」という諺が広く残されて,ねー、何だか怖いものの代名詞として使われていたよ。しば先生に教えられるまで何の事かさっぱり分かりませんでした。夜遅くまで遊んでいると、母親から「ムックリコックリが出るぞー」などといわれたもんですよ。

 ムックリは「蒙古里」で、コックリは「高句麗」だと言われ、あの鎌倉時代の元寇の話にまつわるようなんですよ。

 そういや、私たち家族が暮らしていた青森県八戸市には「あもこが来る」という諺が残っていました。あの恐ろしい「あもこ」が何と「モンゴル」だったとは・・・。阿部さんと同じように悪いことをすると「あもこが来るぞー」と驚かされたもんですよ。

 じゃあー、今晩は日本に残るモンゴル関係のお話をしましょうかねー。まずは何といっても、皆さんも知っている源義経が大陸に渡ってチンギス・ハーンになったという話から始めましょうか。

 しば先生、私その話を聞いたことありますよ。八戸市博物館長を務められた正部家種康さんが紹介されてたのを思い出しましたよ。

 鎌倉時代、源義経は奥州平泉で自害して果てたと伝えられていますが、実はそこで死んだのは身代わりであって、義経自身はひそかに平泉を脱出、北へ向かって旅を続けたというのが義経伝説なのです。岩手県内の各地にも旅の足跡を残していますが、義経は八戸から青森に入り、さらに北へ向かったことになっています。「義経北行伝説」は、岩手・青森・北海道、更にはモンゴルに至るもので、800年もの歳月を経て各地で語り継がれてきたユニークなものです。果たして義経は本当にチンギス・ハーンだったのでしょうかね。もともと東北地方は源義経の北方伝説が色濃く残されている地域なんですよ。

故郷の話なんで、私が話してもいいでしょうか。

 じゃ、ぜひ女将に南部弁でお願いしましょうか。

 義経は八戸には海からやって来ました。鮫駅に近い白銀の台地に残る「源氏囲内」の地名は、義経が八戸で最初に住居を構えた場所の名残りだと土地の人は伝えています。私の実家が、この辺の地名になっていましたので、父親からよく聞かされたものでしたよ。

義経の家来の板橋長治は、義経の密命を受け、八戸に先行して隠れ家の準備にあたっていたと伝えています。義経が死んだという一年前に、義経は身代わりを残して平泉を脱出し、板橋長治に迎えられて八戸に到着しているのです。長治の子孫が住んだ土地が「板橋」という地名で現存し、長者山と呼ばれる市民の憩いの森は、板橋長治にちなみ「長治山」と呼ばれていましたが、後で「長者山」になったと、八戸の義経伝説を語る古文書(享保年間)に書かれているそうです。義経が最初に住んだ館を引越したところが「館越」、そして館をつくり定住したところが「高舘」という具合に、義経ゆかりの地名がとても多いんですよ。義経が小さな水田を開かせ、米を作らせたところが「小田」、ホタルの美しくたくさん飛ぶ場所に命名したのが「蛍ケ崎」です。義経が持参した毘沙門天の仏像を奉ったところが、小田八幡宮境内にある「毘沙門堂」。このように八戸市内のあちらこちらに足跡をしるしています。その後、鎌倉幕府の代官として南部家の先祖が甲斐の国から八戸地方にやって来ると耳にし、追われる身がお世話になった土地の人々に迷惑をかけられないと、更に北を目指して八戸を立ち去ったのでした。

 八戸市内には、義経伝説の案内板が各所に立てられており、義経伝説めぐりができるそうです。特に観光協会が頑張っているようですが、最近はどうなんでしょうね。
東北の人々の悲劇の英雄義経に寄せる心は温かいものがあります。義経を尊敬し手厚くもてなし、北へ逃したとされています。

 ロマンに満ちた義経の旅は、北海道からさらに大陸へと続き、モンゴルの英雄チンギス・ハーンになったと庶民の夢の中で膨らんでいったのでしょうね。英雄は伝説になると一人歩きを始めます。世界史上最もスケールの大きい英雄チンギス・ハーンは、日本では人々の夢や期待を背負い、虚像となって膨らんでいったのかも知れません。生存年代からして両者を同一人物とみなすことはできないでしょうが、いくら否定されてもこの伝説は長く生きつづけることでしょうね。それには何か理由があるに違いないと思うのですが・・・。

 「義経はチンギス・ハーン説」を最初に唱えたのは末松謙博士で、明治12年(1879)にイギリスで発行された「史学論文・大征服者ジンギスカンは日本の英雄義経と同一人なること」でした。そして1885年、内田弥八がこの論文を「義経再興記」として和訳、発刊すると日本中に「義経はジンギスカン説」ブームが起こったようです。これは、義経とチンギス・ハーンの類似点を数多くあげたもので、ゴロ合せ的な要素も大きかったようです。

 大正から昭和にかけて書かれたのが、小谷部全一郎の「ジンギスカンは源義経也」ですが、「アジアはアジア人のアジアなり」と主張する独善的なもので、あまりに信頼するに足りない書でした。大正13年に東京の書店から発行され、小谷部の講演を聞いたマスコミが、新聞紙上で大きく「義経はジンギスカン、弁慶お供に蒙古入り」と報じたのが事の発端ではないかと言われています。彼は義経はチンギス・ハーンの根拠として、二人が白旗を用いることや、9の数を尊重すること、戦術に長けていることなどをあげ、自説を展開しています。しかし当時の学会は猛反発、その説のでたらめを証明しました。小谷部はそれでも懲りずに「満州と源九郎義経」を続けて発表しています。もちろんそれも専門の学者から受け入れられることはありませんでした。

 義経が文治5年(1189)、兄頼朝に疎んじられて平泉の衣川で自刃したのちも、蝦夷に渡って生き続けたとする伝説は古くからあります。江戸時代の「本朝通鑑」「義経勲功記」、さらにあの新井白石までが「蝦夷志」の中でも義経が生き延びて北海道に渡ったとする説を書いています。その後、享保時代になると北海道がさらに北に延びて、義経が金国に入ったとする説が飛び出しました。しかし、これは偽書の「金史別伝」を根拠としたりするなど、学問的に証明することは困難です。

 また、初めて義経をチンギス・ハーンに結び付けたのは、幕末の永楽舎一水の「義経蝦夷軍談」だとも言われているんですよ。その後、明治12年に伊藤博文の娘婿である末松謙澄がイギリスで英文の書を著し、その中でチンギス・ハーンは義経だと展開しています。
 結局、どう考えても義経はチンギス・ハーンになることはできないのです。もし本当なら何と壮大な謎解き物語なのでしょうか。英雄というのは、不思議な魅力、エネルギーをもつものです。モンゴルでも、チンギス・ハーンは死なずに「日のいずる国に行った」という伝説があり、つまり日本に渡って死んだという伝説があります。

 以前、旅行が好きで岩手県盛岡市へ遊びに行ったときの話しですが、モンゴル大帝国のフビライ・ハーンの彫刻があるんですよ。盛岡市内の報恩寺にある五百羅漢像なのですが、享保16年(1731)から木造漆塗り金箔貼りの像500体ほどが残されており、その中でも特異な像が伝えられています。1つはフビライ・ハーン像、もう1つは遠くを眺めているマルコポーロ像なのです。東方見聞録にマルコポーロが日本を訪れた記述はありませんよね。黄金の国・ジパングを求めてやってきたマルコポーロの夢を、盛岡の人たちが適えてあげたのでしょうか? 義経伝説とは違いますけど、どうして東北にこのような話が残されたのか興味深いものでした。

 最後に話は変わりますが、「ジンギスカン鍋」ってあるでしょ。この料理がモンゴル料理だと思っている人も多いようですが、実は日本人が発案した食べ方ということを知ってました?

 昭和10年前後に農林省が日本人の被服の原料を自給自足でまかなうために国策としてヒツジを100万頭に増やす計画を立てたのです。毛や皮は原料に使えますが、羊肉の処理に困り、食用に供されることになりました。北京の有名な料理長が呼ばれて、中華料理を参考にあみだされ、昭和10年以降から一般に広まったと聞いています。ヒツジを焼く料理が何故チンギス・ハーンと結び付いたかは明確ではありません。東京のジンギスカン荘という料理店で出されていたことから店の名前から来たのではないかと思います。特異な形をしたジンギスカン鍋はジンギスカン荘の社長が発案したことは知られているようです。もともとモンゴルでは肉そのものを焼いて食べるという風習がありませんので、まさに日本で生れた料理だということなんですよ。

● 店の外に出る
カウンター談義
モンゴル語による談義? 馬頭琴の話� 義経ってチンギス・ハーンなの
幻の馬タヒ 馬頭琴の話� モンゴルの格言
遊牧民の家